2021.12.22
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

密教の修法は現世利益のためだけのものではない

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第30回
訳・文:野村正次郎

この秘密真言すら目先の厄災消除の道とし

福寿長命 資産増大 権勢繁栄 享楽など

現世利益のためだけの道具としてしまえば

最勝の大地を栴檀の灰土と化すのに等しい

仏法により悪趣を成就するのをやめなさい いざ

30

秘密真言乗は、波羅蜜乗に比べ利験が速やかに現実化し、衆生済度のために仏位を成就する目的の実現に対して即効性をもっていることに特徴がある。しかるに秘密真言乗を行じることで、現実世界には即効性の高い効果が期待できる。なかでも憤怒尊のもつ強力な力は、現実にも強く介入するので、寂静尊と比較すれば、可及的速やかな息災・増益・降伏・敬愛といった外的活動の委嘱がなされることが多いことは確かである。

たとえば、怖畏金剛尊は、地獄の閻魔の使徒を恐怖させる存在であり、死魔を退ける力をもち、持明者にも病気平癒や長寿を実現してくれ、毘沙門天や大黒天は、困窮する衆生の資産を増大させ、貧しい衆生に対する布施行を広大化する力をもっている。弁財天の憤怒形たる吉祥天女(パルデン・ラモ)は「権勢の女神」という尊称にもあるように、他の衆生に対する強靭な権力や支配力をもち、所化の教化の活動を促進する能力をもっている。我が国でも広く信奉されている不動明王の場合には、忿怒尊の王であるので、逆縁を寂滅させ、悪趣の恐怖から救済し、衆生を速やかに仏位へと導く強靭な能力をもっているし、憤怒尊に限らず寂静尊でも大日如来が悪趣へと転生することを救済し、観音菩薩の観音力にしても、衆生を仏位へと導くための不可思議な力をもっているのは、周知の通りであろう。秘密真言乗において瑜伽行の対象となる本尊や憤怒尊や護法尊やその眷属は、私たちが今生を終えた後、繰り返し再生し、仏位を得るまでの期間を短縮し、二資糧の積集に関する過誤や罪障を浄化し、効果的かつ即効性のある法力をもつ本尊であるからこそ、それらの行法を修習することは、即効性を期待して都度特別な目的のためにこれらの本尊の行法を修法することは、極めて理に適った適切な修行法であることは確かである。

しかしながらこれらの密教の行法のすべては、いまのこの輪廻の身体を捨て、如来の身体を得ることを目的としたものであり、来世以降の目的を実現する過程で、これが現世利益をもたらすに過ぎず、世間的な現実世界の諸問題の解決策として教えられているものではない。密教の実践をするためには、既に述べたように、輪廻から解脱したいという出離心、一切衆生の苦しみを取り除こうという菩提心、自己愛を克服する無我の見解をもっていることが必ず前提条件として必要なのであり、その前提条件を備えた所化のみが行うべき行法が密教の行法にほかならない。しかるに密教の修行をする上での前提条件も具備することもなく、衆生済度や無我の真実には背を向けて、ただひたすらに世間の個人の繁栄のため、生活の糧のため、財産や名誉や権力のためといった目的で秘密真言乗の行法を修法することは、善趣に繰り返し転生し、仏位を得るための近道となるのではなく、その代わりに、顕密の妙法に対して謗法の悪業を積み、悪趣へ転落するための近道となってしまうのである。

釈尊の説かれた仏教は、現実世界の諸問題の解決策である世間の法を説いたものでは決してない。そのような現世利益の実現法は、世俗の学問で十分説かれているのであり、世俗の学問を学び、それを実践するのならば、ある程度の効果は得られるし、菩薩たらんとするものは、一切衆生の救済を目的としているからこそ、世間の学問と出世間の学問の両方を正しく修める必要がある。

もし福寿長命を得たければ日頃から健康的な生活をし、定期的に健康診断に行き、適切な医療を受ける必要がある。また資産を増大させたければ、他者を利する事業に専念し、他者に損害を与えることなく、勤勉に資産を形成し、さらに社会貢献のために貧しい人に所有物を惜しみなく与え、僧院などの福田にも供養すること以外に近道はない。権勢を拡大したいのならば、常に高潔な振る舞いをし、他者から心より尊敬されるように自ら真摯に努力することが最も効果的なのであり、できるだけ享楽的に生きたいのならば、他者を利する活動にのみ従事し、他者から危害が与えられないようにし、他者から優遇してもらえるように常に利他の活動に励む以外に近道はない。

現世世界においてありとあらゆる方策を講じ、志を高くもち、知性を発揮して、努力をすれば、神仏の助けを借りなくても、実現可能なことの方が多いことも確かである。

自分では努力もせず、ただ怠けて暮らしながら、自分のためだけに神仏に祈願したとはいえ、商売は繁盛しないし、資産が急増することもない。消費すれば物質がなくなるのは必須であり、いまあるすべてのものは、この生命を含めて無常にも粉々に微塵となり、消えていくことは誰にでもわかる世俗の真実にほかならない。できる限り物質的な楽を得たいという貪りに駆られた欲望を満たすものは、「少欲知足」という価値観であり、すべての苦難を乗り越えるための最も効果的な方法は、「忍辱」しかないということは特別な密教の教えに求めなくても明白に説かれているのであり、少欲知足や忍耐の実践は、わざわざ特別な阿闍梨から伝授されなくても、少し考えるだけで分かることである。何の努力もせずに、自己中心的な価値観から生まれた懈怠心で、この貴重な教えを忘却の彼方へと押しやってしまい、少欲知足や忍辱を実践しようともせずに、有漏の楽受を増大させようとしても、それは東から登ってくる太陽を西から昇らせようとすることと同じくらい不可能なことである。

私たちは如意宝珠よりも貴重な有暇具足の所依を得ていまここにある。いま仏道修行に最高なる境地を得て、無限の功徳をもつ密教の教えに触れているこの最勝なる境界を廃墟としてしまうかどうかは私たちひとりひとりが自分のいまいる場所、環境、そして自分たちが触れている、素晴らしい教えの価値観をどこまで真摯に感じることかどうかにかかっているだろう。残念ながら、我々仏教に関わる者たちのなかにも、本偈に説かれるように密教の行法を、「秘伝の教え」などとして売買し、無知な人々を混乱させている者は大変多く、密教の戒律である三昧耶戒を護持すらしない、見せかけだけの行者がこの世界には溢れているし、私たちも現実世界の困難に直面するときに、自分の足元や精神状態を見ることなく、外側の現世利益をもとめて、ありとあらゆる加持祈祷に希望を繋げようとする傾向にある。しかしそれらのすべてが秘密真言乗の目指すものと逆方向にあると知らねばならない。

本偈の末尾では「仏法により悪趣を成就するのをやめなさい」とあるように、仏教を実践することが地獄や餓鬼や畜生道へと転生するための近道となるようなことをするのは本末転倒である。私たち仏教に関わるすべての者が、仏教を現世利益の道具としてのみ消費することを慎んでいかなければならず、なかでも秘密真言乗に関わることは、より慎重な取り扱いが必要であり、本偈はこのことを強く戒めるものである。

ゴマン学堂護法堂に安置されている本尊は、すべて扉を閉じた形で供養している


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