2021.12.08
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

悠久の道を進んでいくための道筋

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第28回
訳・文:野村正次郎

共道の修学をまず先にすることなく

仏典の意味を見つめる眼は開かない

儀軌の次第の唱え方を学ぶだけでは

秘密真言に列す徒となることもない

教法を次第に則り学んでいきなさい いざ

28

仏道を学んでいくということは簡単なことではない。それには決死の覚悟が必要であり、死してなおその修学が続くという長期的な計画が必要となる。多くの如来たちが仏になるまでの間積んでいかなければならない修行期間というのは三阿僧祇劫という長期計画であり、その長期計画を達成してはじめて仏として衆生済度の活動をしはじめることができる。これはどんなことでも同じであるが、長期の計画を実現するため、モチベーションを持続することが大切であり、はじめに決意を固めていなければ、二、三日で実現するような計画ではないから、その途上でさまざまな患難辛苦を乗り越えることなどはできないのである。これはたとえ阿弥陀如来の極楽浄土へと往生して修行する場合でも同じことであり、目先の短いことだけ考えていては、阿弥陀如来の極楽浄土へ往生する計画すら決して実現できないだろう。

このような仏教の基本的な学びは長期計画であるが、途中で心が折れて挫折しないために、最短で三年三ヶ月以内にこの煩悩でできた肉体を捨てて、成仏するための特殊な身体を実現し、その特殊な身体で即身成仏する方法が密教では説かれている。しかしこの密教を学ぶためにもまずは顕密に共通している共道の修習を先にしておかなければ、秘密真言乗の弟子となることはできない。この生老病死とすべての煩悩の拠り所であり、さまざまな境涯へと転生していくこの輪廻を厭い、そこから解脱することを心底もとめる出離心、厭離心、これがまず必要となる。この世がどんなに美しくとも、ここに心が惹かれている限り解脱の城市へと心を決めることができない。解脱をもとめるということは、すべての苦しみを遮断した状態を自分の心に作り出す、ということであり、その苦しみには、通常私たちが苦しみであるということも感じていない、不苦・不楽のこの生命そのものや家居や友人か家族もすべてその苦しみに含まれるものである。釈尊が授けてくれている戒律を遵守し、生活・行動・言動・思索のすべてを自ら律し、誘惑の多いこの欲に満ちた世界を厭離するという思いがまずははじめに必要な決意となる。

では自分だけが解脱という永遠の楽の境地を得たらいいのか、といえばそうではない。私というのはたったひとりしかいないのであり、私たちと同じように苦しみに悶え、大それたこともない幸せを享受したと錯覚に一喜一憂している生命体は私たちこの地球上に住んでいる人間でも七十億人以上もいるのであり、人間以外にもさまざまな生物がいまここに私たちと共に住んでいる。彼らのすべてが幸せを心から望んでおり、苦しみを味わいたくはない。彼らを置き去りして、自分だけが楽しく暮らせればいいという訳にいかないのである。他者の幸せを少しでも実現することが、私たちの幸せの源泉なのであり、他者にやさしくして、やさしくしすぎる、ということなどないのである。自分に何かがあることよりも、自分の周りのすべての衆生が幸せになることの方が私たちは幸せになれるのであり、そのために私たちにはいますぐにでもできることが沢山ある。すべての生きとしいけるものたちが、いまここで、そしてこれからも安穏に穏やかに幸せに暮らすことができるための貢献を私たちは小さなことでもできる。そしてその小さなことの積み重ねにより、すべての事象を如実に知る一切相智を実現し、いまはできないすべての理想とするべきことをこの私たちの周りの生物にもたらすことができるようになる。ただ無益に生きるのではなく、かつてすべての菩薩たちが行ってきたように、私たちはすべての衆生を利益するため、無上正等覚者である仏の境地を何としても自分は実現しないといけない、そのような決意を心に結ぶこと、これが発菩提心というものであり、出離心の次に必要な基本的なモチベーションは菩提心ということになる。

この輪廻の牢獄から解脱したいという思いである厭離心と、すべての衆生のために自分は仏になりたいという菩提心をもつだけでよいかといえばそうではない。仏教の秘密真言道を学ぶためには、空や無我を理解する智慧が必要であり、すべてのものが他者に依存して起こってくるという縁起の思想を理解し、すべてのものが何一つとして他のものに依存しないで、それ自体で出来上がっているものではない、という無我の理解を心に何度ももつことによって、その無我を捉える知の形象そのものが本尊の身体として生起させるという本尊瑜伽ははじめて可能となる。無我を理解する知もまた最初は言葉に基づいて理解しなくてはならないが、最初は如来や先師たちの他人のことばや他人のつくった概念の理解にすぎないものを、自分で深く何度も思索を繰り返し、自分で空や無我観をもてるようにし、さらにそれを修習していくことによってはじめて、自分の心のなかに無我観を刻んで定着させていくことができるようになるのである。

以上の出離心・菩提心・無我の理解というこの三つが、すべての仏教の修行に必要不可欠な仏道修行の根本の三つの要素であり、これらのことを深く理解すればするほど、如来たちがなぜ我々にさまざまな教えを説かれたのか、その表現のひとつひとつが目指していることを推察できるようになるのである。

仏教を修習していく営みというのは、決して観念的なものではないし、同時に物質的なものではない。仏教は心の宗教であると言われるように、儀式のやり方を学んで加持祈祷を澱みなくできたからといって仏教を実践できるというわけではない。洞窟のなかに入ったり、瀧に打たれたり、さまざまな衣を身にまとって寺院や僧院に暮らしていても、それは外見上の問題にすぎないのであって、仏教を学ぶというのはあくまでも内的な心の営みであるので、外見上いくら取り繕っても真の行者になれるわけではないし、森のなかで何日も歩き回っていても真の行者となるためには、心に厭離心・菩提心・無我観がなければ、真の行者になることなどできないのである。ただ糞掃衣を羽織り、真言や念仏を唱えるだけでは、仏教を実践しているといえないのであり、これは物真似ではなく、本人になる、ということが必要であるということなのである。

戒・定・慧を身につけ、常に今生と来世への期待を捨て、解脱の境地を一心不乱に目指しているのならば、やるべきことはなにか、やめていくべきことは何か、それを正しく実践することができるようになるのであり、すべての努力はすべての生物の苦しみを取り除くためである、という気持ちを常にもっているのならば、どんな小さな生物とも愛すべき、慈悲の対象である他者、そして彼らに対して何か正しいはたらきかけをしなければいけない自己、というものを正しく樹立していくことができるのである。すべてのものが縁起したものであるからこそ空であるということが分かっているのならば、いまのこの血と肉や骨や髄でできた体をもち、煩悩に振り回されている精神を先鋭化し、自分の研ぎ澄まされた精神を成仏の所依となる特殊な身体へと転移さる訓練を繰り返し正しく行うことができるようになるのであり、それらを日々努めて行うことによって、私たちは本当に仏教を実践している人、真の菩薩行の行者となることができるようになるのである。

すべての如来の教法はことばと思想からできているが、それは如来の境地に至るための順序に従って提示されているものである。基本が分からないのであれば、応用編を理解することはできないし、基本を身につけないで、応用編である本尊瑜伽や生起次第・究竟次第などを実践することなど決してできないのである。

東京から博多まで新幹線でいくのにはこだまやひかりやのぞみなどの様々な種類の新幹線があるが、そのどれに乗るにしても、新横浜、名古屋、京都、大阪、新神戸、岡山、広島を経由しないで博多にはつかないのであり、東京駅にもたどり着けていない人が、新横浜や名古屋は通過したくないと思っても、東京、新横浜は避けるために、長野や新潟や金沢などを経由して名古屋まで辿りついてから博多に行こうとしても、実に迂回経路は遠く、料金も高くなるし、出発から到着までの時間がはるかに余分にかかるだけで合理的ではないのである。

仏教の実践もこれとまったく同じであり、最初は戒律をまもって節制した暮らしをするというところからはじめて、仏典を暗記し問答をしながら少しずつ学んでいき、長期間の資糧を積集して漸く成道できる長期計画なのであり、その道のりは遠くとも最短の方法を諸仏は説かれているのであって、回り道をしなさいと説かれているわけではない。如来の説法はすべて衆生を利益するために説かれたものなのであって、それは我々が煩悩をどうやって少しずつ克服していい人間になっていき、最終的には仏陀になるための余裕をもったスケジュールのコースなのであり、それに従うのが最短・最善の方法にほかならないのである。本偈は如来が私たちのために説かれている悠久の道程を歩むため、焦らず、周り道をせず、着実に一歩ずつ進んでいくこの悠久の足取りの意味を教えるものである。


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