2022.05.08
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

巡りめぐり清らかな輪をつくって

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第36回
訳・文:野村正次郎

四輪具足の賢きこの所依を得たいまこそが

生の輪へ繋いでいるものを断つべきである

三輪を巡らせて論破してゆくだけではなく

三輪の法輪の意図するものを見出してゆき

三輪清浄の修行者であろうとしていきなさい いざ

36

本偈は各行に「輪」(コル)という言葉を繰り返し表現しているが、この偈の内容を考えるためには「輪」のイメージを最初にもつことが大事だろう。輪のイメージとは、時間的にぐるぐると回って移動してゆくイメージである。時間的にぐるぐると回るといっても、恐らくは、私たちを中心軸に左右上下をぐるりと見渡すような視点であり、ちょうど何かに向き合っている時に、水平方向と上下の方向に思考の視点を巡らせていく感覚であろう。ただ水平方向でも、自分たちの背後にまで回っていくような感覚ではなく、後ろを振り返る、といった感覚ではない気がする。静かに私たちが座っているこの場所で、さまざまな円をつくって、心を巡らせて、最終的には清らかな輪を私たちもつくっていく、という情景を思い浮かべるとよい気がする。

最初の「四輪具足の賢きこの所依」とは何か、といえば、四輪具足とは、私たちが仏道修行に相応しい環境にいまあること、修行をするために指導をしてくださる善知識に師事していること、仏道修行をしたいと心に祈りをもっていること、仏道修行をしたいと思えばそれが可能であるという好条件をもっている、というこの四つの自分の置かれている環境のことである。いまの私たちの周りを見渡せば、まずはこのことに私たちは気づくだろう。人間という言葉を解する種族に生まれており、仏教がいまはまだ消滅しておらず、仏教を学ぼうとしたら誰かに中止するように拘束される訳でもない。衣食住はそれなりに満たされており、私たちの心はある程度自由である。ダライ・ラマ法王のような素晴らしいラマもおられるし、様々なきっかけがあって仏教に少し触れてみたいという気持ちになっている。自分が仏教を学ぼうとすればある程度可能であり、過去世に行った善業の結果として、いま十分に仏教を学べる環境にあり、自分もそれをすることができる、という好条件にあるのである。静かに自分に置かれている状況をぐるりと見渡すと、自分のことをそのような状況にあるいまを生きていることが分かるだろう。これが最初の行の自分のいまいる立ち位置を巡る四つの輪である。

そんな状況にいまはあるが、上は有頂天の神々から下は無間地獄まで、私たちは自分の意志に反して水車小屋の水車が上下に周りつづけているように、私たちは地獄・餓鬼・畜生・人間・阿修羅・天という六道を回り続けている、輪廻という生き物である。この生の輪に生まれていること自体が苦しみであり、この生の輪に縛り付けられ自由を失っている。私たちを縛りつけているものは、私たちの心にある、私という意識、私のものという意識であり、この私という意識や私のものという意識は、常に自己中心的な思考や感情を生み出し、その自己中心的な生物のそれぞれの自分中心型の欲望のせめぎ合いによって、さまざまな問題が起こっている。同じ地球という惑星に住んでいても、互いに殺し合って相手を食べなければ死んでしまうような動物に生まれる場合もあるし、せっかく人間に生まれていても、お互いに殺し合ったり、嘘をついて相手を陥れたり、自分の利益のために他人の大切にしているものを奪ったり、危害を加えたりしなくてはならない。いま私たちはこんな素晴らしい立ち位置にいるからこそ、いますぐにでもこのような問題の輪、苦難の渦から解き放たれ、真の自由である解脱の城市へと目指してゆかなければならない。この苦しみの輪のなかにいて洗濯物のように強制的にぐるぐると回されるのではなく、この苦しみの輪から飛び出して解脱すること、これがいま私たちの目指していくべきことである。以上の二行で、有暇具足を活用し、出離心を心に抱き、三界輪廻からの解脱を目指すべき時が、いまこの時である、ということを説いている。

次の三行では、大乗の沙門としてのあり方をきちんと追求していきなさい、ということを諭すものであり、大乗の沙門としてすべての衆生を救済するという目標のために、一切相智を目指す限り、ただ単に経典に書いてある、誰々が言った、ということだけはなく、正しい論証式を組み立てて、必要に応じて衆生を導くための正しい考え方を示していかなくてはならない。しかもこちらが理解している正しい論証式をただ相手に示しただけでは十分なのではなく、相手が考えていることを反省させて、正しい考えで正しく推理できように導いていかなければならない。「三輪を巡らせて論破してゆく」というのは相手が納得せざるを得ない、敢えて大幅に間違っている論証式であり、論理的必然性もないし、論理的根拠もなく、主張しようとしている内容も決して許諾することができない、言わば控訴することが完全に棄却されている主張内容・論理的必然性・論理的根拠の三つともがまったく不成立な論証式のことを指している。しかしこのような三輪によって誤った命題を論破することだけに満足することが、目的化してはいけない。論破のための論破などそもそも必要ないものであり、それはただの真実やドグマによる言葉の暴力に過ぎないといってもよい。

そもそも釈尊の教えは、私たち弟子の心の時間軸の上に、その教えは私たちの煩悩や誤った感情や考えを破壊して制圧し、私たちの心を教化してくれる「法輪」である。釈尊は、最初の「法輪」を転じられた「初転法輪」時には、苦諦・集諦・滅諦・道諦という考え方の基礎を説かれたのであり、その次に霊鷲山の上で滅諦を詳しく説いた般若経を代表とする「中転法輪」「無相法輪」を説かれている。さらに道諦について、私たちの心そのものの本性が清浄であることと関連して、道諦を詳しく「後転法輪」に説かれたのであり、この「法輪」が三度転じられたことを「三転法輪」という。大乗の修行を行おうとする者は、釈尊が何故大乗・小乗に共通して説かれた「初転法輪」だけに留まらず、「中転法輪」「後転法輪」の二つをも弟子たちに説かれているのか、このことの真意を私たちは見出していかなければならない。

さらに自分の所有物への意識を捨てたい、与えたい、という心の思いを「布施」というが、大乗の菩薩勇者はまずは「布施」というものをその完成形である「布施波羅蜜」へと変えていかなければならない。この布施の完成には、すべてのものは何ひとつ私たちに事実として見えている通りには、存在していない、という真実空の無我への理解が不可欠であり、何かを与えたいという布施の行為に対する思い、誰かに与えたいという布施の対象に関する思い、私が与えたいと思うことで、この私が功徳を積むことができるだろうといった布施の行為主体に関する思い、この布施という行為が成立するための必要条件である行為主体・行為対象・行為それ自体の三つへの事実誤認を捨てた状態、これを「三輪清浄の布施」という。そしてこの三輪清浄の布施と同じように、修行者であるということ、修行をしているのも、修行するという行為それ自体の三つのすべてについて、事実として見えている通りには、存在していない、という真実空の無我の見解によって善業を学ぼうと修行していこうとしている者たちが「三輪清浄の修行者」であり、菩薩大士とはこのような真実空の思想に裏付けられ、一切の衆生の利益のために決して畏れることもなく活動していく勇者でなくてはならないのである。

本偈は自分の置かれている状況をまず見渡し、この肉体があちこちとぐるぐると強制的に回らされていることに気づき、その悪循環に束縛しているものを断ち切る時がいまであり、それだけでは命題をぐるりとつらつらと考えるだけで完全に間違っているような論証式で誤った考え方を払拭するだけはなく、如来が何故この地上に三回も私たちの心の闇を破壊する巨大な法輪として廻してくれているのかを考え、如来の弟子として、修行する自分たち、修行する内容、修行そのもののすべてを真実空である看破する知性の力をもった、すべての衆生の苦しみを取り除くために、決して畏れることのない菩薩勇者にどんな時でもあれるように、そしてその菩薩勇者の輪が広がっていくように、心を巡らし円熟していきなさい、と教えるものである。

輪のように円を描くのは自然な動きである

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