2021.11.04
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

魔物たちと闘う、如来の軍勢の一員としての自覚

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第27回
訳・文:野村正次郎

濁世の知性と功徳は劣悪である故

守護尊や本尊や護法尊に一心にて

祈願・礼拝・曼荼羅供などにより

資糧を積集して強く罪障を消除し

福田の力を後方から支援しなさい いざ

27

認識論と論理学、般若経の注釈の伝統、中観思想、阿毘達磨学、戒律学といった五大聖典を総合的に学習する顕教に加え、四部怛特羅の規定、生起次第・究竟次第の二次第よりなる無上瑜伽怛特羅の教儀などはすべての仏教徒が共通して学んでいかなくてはならないことである。しかしこうした壮大な教学体系を学び、自らの意識へと定着させていくことは決して容易ではない。

特にいまのように五濁悪世の時代において、私たちのもつ知性は龍樹や無着のようには洗練されてない。私たちが有しているいまの福徳も十分ではなく、世の中には問題ばかり起こるし、私たちは日々問題ばかりに直面している。釈尊在世の時には、弟子たちの福徳も沢山あったので、阿羅漢果を実現する者たちが多く、その結果釈尊の弟子も徐々に人数が減少していったようである。釈尊涅槃後に教法を復興した碩学の学匠たちが時折出現してきたが、伝灯は徐々に消えていく傾向にある。

仏教が衰退していく現象に抵抗して何かできることがあるとすれば、それはすべてあくまでも私たち個人の日々の小さな精神的な営みに過ぎないのであって、社会的な活動では決してない。個人が社会を急激に変化させるのは極めて困難なことであり、釈尊ですら親戚のデーヴァダッタを完全には指導できなかったことがこれを物語っている。

社会全体として、仏教の伝灯がいまよりも発展していく可能性よりも、むしろ衰退していく可能性の方がはるかに高い。現代の学校教育では、釈尊をあくまでも「歴史上の人物」として取り扱わなければならないのであり、「如来」「仏」として取り扱ってはならないので、そのような教育が生み出している社会もまた、過去・現在・未来の無数無辺の如来を感じられる環境ではないも事実である。仏教が説いている一切衆生が解脱という救済へと至ることを目指そうとする希望や夢などは、この社会ではあまりにも長期的な展望すぎるのであり、それは実現不能な夢であると社会から言われたからといって一々憤慨していては、如来の境地を実現するという壮大な夢へと前進することはなく、ただ娑婆世界の価値観へと後退していっているのに過ぎない。

またそもそも仏教徒は仏法に対する社会的な冷遇に必要以上に拘るべきではない、というのが仏教の伝統的な社会との関わり方でもある。仏教は、あくまでも各個人が他者とどう向き合うべきか、自らの精神をどう発展させるべきか、ということに主たる関心を置いているのであり、世間の社会情勢や流行とは一定の距離感をたもった上で、ひとりひとりの私的な時間のなかで、その教えと向き合いながら護持していくのが、仏教徒としての基本的なスタイルにほかならない。

三宝に帰依し一切衆生に対して積極的な関心をもつ時、私たちは自分たちの能力が不足していることに気づくであろう。だかこそ通常の諸尊よりも速疾な活動をし、私たち個人との個別契約を結んでくれる、護法尊、本尊たちの力を借りらなくてはならなくなる。諸尊に対する礼拝・供養・懺悔などを繰り返して、福徳を積集し、罪障を消除していくことで私たちのこの現状を打破できるのであり、ある程度の三宝に対する帰依心を育てることができたのならば、その心を固く守っていくために、諸尊たちと私たちは一切衆生済度という同じ目標を共有しているという自覚が必要となるのである。

本偈の末尾では「福田の力を後方から支援しなさい」とあるが、これは私たちが如来や諸菩薩や本尊や護法尊たちがこの地上に存在する理由でもある。衆生済度という重要任務を微力でも後方から支援できてはじめて私たちは仏弟子であると自負できる。如来たちの目指している世界を実現するために善意を培うのではなく、煩悩に振り回されて好き勝手生きていては、如来の教えの意図も実現することはない。私たちは如来の壮大な任務を遂行するため一要員であり、如来たちも菩薩衆の軍勢に私たちが加わるよう絶対的に善である、やさしい眼差で私たちを視つめてくれている。恐怖と欲望に満ちた魔の軍勢に参加するより、如来の軍勢に参加する方が吉祥であることだけは確かなのである。

デプン・ゴマン学堂の護法堂では途切れることなく本尊や護法尊の供養が行われている


RELATED POSTS