2021.10.17
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

強靭なセキュリティシステムを構築する

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第26回
訳・文:野村正次郎

苦労して蓄えた折角の多聞の宝珠でも

失念の盗人が少しずつ奪い去ってゆく

宝の島から手ぶらで戻りかねないので

どんな時も監視体制を怠らないように

知る度に忘れぬように積み重ねなさい いざ

26

私たち仏教徒にとって、心に刻んでいく如来の言葉は、この世のなかでどんなものよりも価値があるものであり、最も大切にしなくてはならないものである。如来の言葉こそが私たちを導いてくれ、救済そのものであり、法性の真実こそが三宝のなかで究極の帰依処であり、同時にすべての煩悩を克服した私たちの心にいつか開けてくる解脱と一切相智こそが、すべての衆生の求める究極の救済にほかならない。この無上の宝石だけを心に刻み、こ」転生を繰り返し、善業を積集し、三阿僧祇劫の永き時を経て、衆生済度のための無尽蔵の言葉の海の源となることが、私たちが目指すべき無上正等覚の境地にほかならず、私たちひとりひとりがこれからも如来の言葉と常に向き合っている必要がある。

しかしながら私たちは如来の言葉を思うようには大切にできていない。教えを咀嚼することもなく、ただ飲み込むだけで、滋養となることもなくただひたすら消費物のように扱ってしまっている。どんなに如来や菩薩たちが心の運用方法を説いていて、その方法を聞いたことがあろうとも、ほんのすこしの小さなことで私たちの心は揺さぶられ、どうでもいいはずの下らないことに一喜一憂し、時には自分の延長線上にあるものたちすらも、不当に扱いに傷つけてしまう。怒りや妬み、執着や無知により私たちはせっかく習ったはずの如来たちの言葉を忘却の彼方へと追いやってしまい、いざ必要な時にそれらの言葉が私たちの心に響いていない場合の方が多いのである。経典やその密意を註釈している五大聖典もただ古典の言葉に触れて賢くなったと錯覚し、ただ鸚鵡のように言葉の音列を記憶反芻することができたとしても、心のなかに如来の響きが満ちていない限り、私たちにとってそれらの言葉は地上で最も価値のある真の権威としての威光を発揮することなどできないのである。

仏教を学んでいる過程では、僧院や学校で理解度を確かめるために暗誦の試験が課されることもある。これは曖昧な記憶から脱却し、如来の言葉を正しく心に刻み、私たちが成長するために課されているものである。しかしいつの間に試験に合格するかどうかに囚われてしまい、ここにはこう説かれている、あそこにはこう説かれている、そんなことだけに気を取られてしまっている。如来の言葉の無尽蔵な宝石群れを目の当たりにして、その輝きをしってはいるけれど、何ひとつ自分の掌に握りしめて自らのものとしないのなら、またこの宝の島から手ぶらのままで煩悩と業に引き寄せられて、輪廻の苦海を遭難している難破船のなかの小さな牢獄へと戻るしかない。

無始以来私たちはそんな馬鹿げたことを繰り返したのである。これまでの態度を改めて、いま私たちはひとつひとつの言葉をしっかりと受け止めて、咀嚼できているのか、その意味する無上なる目的へと一歩ずつ歩めているのか、ひとつの言葉を知り、ひとつの言葉に込められているメッセージを受け取るたびに、丁寧にその言葉を心に刻んでいかなくてはならない。自分を監視できるのは自分だけであり、自分を甘やかし堕落を向かわせるのも自分だけである。しっかりと厳しい監視体制を自分に課しつづけることは、自分自身の財宝をきちんと守るために不可欠なのである。常に如来の言葉を真摯に受け止めて、心の灯火とし、その心の灯火が決して消えないようにすることができるのは、他の誰でもなく自分だけである。だからこそ自分たちの心に忍び込んでくる失念をはじめとする煩悩というこの頭脳班の被害に合わないように、様々なケースを想定し、自分自身の心に最先端の強靭なセキュリティシステムを構築しておかなくてはならない。本偈はこのことを教えている。

自分の心をスキャンしてモニターしながら、保管していく如来の言葉を増やしていく


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