2021.10.29
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

彼方へ辿り着けない私たちがいまできること

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第26回
訳・文: 野村正次郎

常にすべての身体ある者たちへと

絶え間なく慈しみ給う君を前にする

君の功徳を想いつつ過ごしてゆき

信心の日々は連なり深まってゆく

然し 君の居場所はあまりにも遠い

もういちど寂静の妙味に触れるため

そちらに進みたくても身体は動かない

然るにいま 君よ 最勝の福樹よ

志を浄らかにし私はいま献上せん

黄金と宝石の大地 天たちの正絹

釈尊より比丘へと賜われた調度品

三衣 錫杖 仙人の鉢を献上せん

それと禅定や請願で化現し創り出して

すべて供物は善と歓喜で充満してゆく

天空を覆うほど供養の品を集積させて

両足の君よ 君の下へ 私は献上せん

拘ることも貪ることもなく心を込めて

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この地上にも、兜率天の宮殿からは弥勒仏の大慈のやさしい眼差はいつも降り注いでいる。私たちがどんなに酷い態度でいたとしても、どんなに爭いあっていても、そのやさしい光は決して途切れることはない。かつて無着のように生まれながらにして仏法興隆の大任を担うべくこの地上に現れた方でさえ、十二年間洞窟のなかでひとり修行してもその視線を感じることさえできなかった。この故事が示しているように、私たちが弥勒仏の視線を私たちは感じられないほど、煩悩の闇に覆われ、苦しみに悶えつづけている。

私たちはいま釈尊にも直接会うこともできないし、弥勒仏にすら会うこともできない。私たちと最も近い存在であるはずのこのふたりの如来にすら会えないし、その教えに触れても普段は忘れている。心を落ち着けて、釈尊の不肖の弟子である私たちが如来の功徳を思い出し、その不可思議な功徳に救いを求めても、如来たちが存在することにだけ確信がもてるようになるだけであり、あくまでも如来や仏や菩薩という私たちからは遥か彼方の存在として聳え立っているだけに過ぎないのである。如来の不可思議なる功徳とはこのようなものである、すべての煩悩を克服した解脱の境地とはこのようなものである、そんな話を聞いて静かに自分たちを振り返るとき、その寂静の境地の仄かな香りや味を少しだけ味わうことができるのに過ぎない。一切衆生を救済するために自分が仏の境地を目指したいと決意しようとも、すべての煩悩を克服して、この輪廻の牢獄に再び生まれることがないようにと目指しても、そちらに心を向けることはできても、この脆く壊れやすい生命と身体がそちらへと動き始めることなどいまはない。ここで拘束されている私たちの心も身体も軽安と呼ばれる境地を実現しているわけではなく、自らの身体は重く輪廻の牢獄の淵へと沈んでいっているだけである。

こんな状態でいま私たちにできること、それはどんなことだろうか。彼らは福徳を積むための樹木であり、田畑である。私たちはこの世でもっとも大切な彼らに自分が所有しているそのすべてのものを捧げておくことしかできはしない。しかし彼らの無限の功徳は私たちのそんなちっぽけな行為や意思を汲み取ってくれることだけは間違いないだろう。そんなことを考えながら、この大地はまず金銀瑠璃玻璃の埋蔵地であることを思い出す。この大地は泥の大地ではない。如来たちがこの地上に降臨する時には、一瞬にして金銀瑠璃玻璃の大地であることを明らかにする大地であることを思い出す。そしてこの私たちすべての衆生が自分たちのこの血と肉と骨を守るために、身につけているこの皮は天界の神々たちすら纏うような美しい正絹の衣であることを思い出す。私たちの究極の所持品など、釈尊が比丘たちに所持品として推奨された三衣一鉢以上の物などこの世には存在しない。だからまずは私たちの所持品のすべてを如来たちに供物として献上しよう。

そんな取るに足らないものだけではなく、如来たちの説かれている素晴らしい教えに対する禅定と、如来たちが一切衆生を救済しようとする請願と同じような祈りを心に刻んでゆく。禅定と祈願の力により、業と煩悩によってではない、美しい環境世界がここに実現する。そのすべては善意に満ちており、悪意を疑う必要はない。自己愛に支えられた悲しみの歌ではなく、慈悲に満ちた歓喜の歌が聞こえてくるような時空がここに出現する。その化現した供物は地の果てから天空の果てまでを覆うほどに満ち溢れ、その曼荼羅世界のすべてを弥勒如来へと献上しよう。彼は二足歩行をする人間の主人であり、私たち人間に法性の真実を示してくれる釈尊の代理人にほかならない。彼らに捧げるためのものに私たちは物惜しみすることないし、自分の持ち物に執着して手放したくない、という気持ちなど起こってくることはない。何故ならば、彼らだけがこの私たちに直接関わって下さって正しい道を示してくださる存在であるからである。

本偈はジェ・ツォンカパがジンチの弥勒仏の荘厳を修復し、広大なる供養を行った時、自省の念を抱きながら悲しみにくれ吐露した以上のような心境を赤裸々に表現したものである。今生で私たちが仏前に捧げる供物は有限でしかない。限りある生を生きる私たちもこんな思いを巡らしながら、吉祥な功徳を積めるようになりたいものである。

今生で私たちが仏前に捧げる供物は有限でしかない

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