2021.09.21
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

記憶にない罪状で囚われた私たちのことを

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第23回
訳・文: 野村正次郎

貪欲の泥に沈んでしまい解脱道から逸れている

無明の深い闇のなか 智慧の眼を持っていない

戯論により逮捕されて輪廻の監獄に監禁される

業の拷問を受け続けている私 君の大悲の所依

27

私たちは決して思い通りならない人生を生きている。幸せを求めるが、人生は簡単でなく、ひたすら必要なものを本能で求め続けていかなくてはならない。私たちは欲望が渦めいている泥の河に流されて、泥のなかへと沈んでいき、息苦しい呼吸困難になっている。乾いた大地の上の道を軽やかに歩むこともなく、解脱道の道程から逸れ、さらに地中へと埋まっていく。

釈尊は、これが苦しみである。これは煩悩である。この煩悩は苦しみの原因であり、これを断てば苦しみの流れが堰き止められるような滅を実現できる。そのためにはまずはこれが私である、これが私のものである、という我執を捨てなさい。こんな輪廻からの解脱の方法を示されているが、私たちはこの四聖諦の逆のことばかり考えており、真実を知る智慧は心の闇によって覆われてしまい、智慧の眼を開いて辺りを見回すわけでもなく、深い闇のなかでただ盲目に彷徨い続けている。無我の真実を知らないこと、それはこのすべての問題の原因である。しかしそんな真実をすぐには理解できないし、そのための準備をこれまで全くしてはこなかった。闇のなかで生きるのに必死であり、ただより幸せな境地を求め、苦しい状況を回避しようと闇雲に右往左往してきただけなのである。

深い闇に包まれたまま、何か明るいように見えるものがあれば、すぐにそこに飛びついてきた。自分にとってよいと思えそうなものに本能的に希望を見出し、期待を裏切られたり、納得いかないことがあれば、そこに嫌悪感や挫折感、そして憎悪すら抱いてきた。少しでも期待に沿うものには、強く執着してきたのであり、この執着心がありとあらゆる妄想を膨らませてきた。本当に大切になものを大切にすることもできず、葛藤のなか、周りの者に乱暴をし、他人の幸せを素直に喜びとすることもなく、自分の不幸だけが不条理であると思い葛藤してきたのである。

そこまでのひどいこともせずにいまは暮らしているかもしれない。殺人もしていないし、略奪もしていないし、虐待もしていないし、そこまで悪いことをした覚えもない。しかしこれはいま自分の記憶に鮮明なものだけを都合よく思い出しているのに過ぎない。私たちは無限の過去からいまの記憶にはないけれども、意思に反して知らず知らずのうちに転生しつづけてきた。記憶にもない、そして記憶の隅へと推しやってしまいたいような凶悪な犯罪をいままで犯してきたのであり、その罪業の結果として、いまこの輪廻の牢獄に冷たい鉄の鎖で足首が繋がれているのである。この刑期が終わるまで、ここで処罰を受けなければならず、この拷問がたとえ一時的に休息の時を迎えても、この独房から脱出して行く先は、また別の独房でしかない。

これまでの業の深さを考えると、いまさら何を悔やんでも仕方はない。つい最近今生で仏教に触れ、これまでの自分たちを真摯に考え直しはじめたばかりなのである。これまで自分の心が如何に汚れていたのか、このことを最近私たちは思い知ったばかりである。何千年も前から、何万年も前から、私たちは知らず知らずのうちに法に違反する悪業だけを積み続けてきたのである。この刑期が終わりを迎えるのはまだまだ遥か遠い先であり、いまはこの輪廻の監獄でできることは、心から反省することくらいしかない。しばらくの間この状態を続けていくしかない。ひとつひとつの変化はそこまで急激に実現することなどできないのである。いまも、そしてこれからもしばらくは、私たちは闇に迷い、業果の苦悩に煩悶しつづけていくのだろう。これが一人の感情をもつ有情という生き物の性である。

しかしこんな私たちを何とかしようと思い続けている如来たちがいるのである。私たちが輪廻の監獄に監禁されている、ということは、如来たちの慈悲の対象である、ということなのである。彼らはどんな時であっても、私たちがなるべく穏やかに幸福に暮らせますように、と常に願ってくれている。私たちの苦しみがなるべく小さくなりますように、私たちが決して迷って苦しまないように、と私たちの知らないところで常に奔走してくれている。彼らは私たちを決して見捨てないし、私たちはこの苦しみの牢獄で絶望する必要もない。私たちが悶えて苦しめば苦しむほど、如来たちの慈悲の私たちによりやさしく、より強く注がれてゆくのである。実にありがたいことであり、頼んでもいないのに、

彼らは私たちを助けようと常に考えてくれているのである、この「私」は自己愛たる我執から見れば、我執が過剰評価し続けている破滅の源泉にあるものにほかならない。しかしながら如来や菩薩たちから見れば、この同じ「私」たちは、涙を流すべき慈悲の対象であり、必ず救済すべき所化にほかならないのである。いまの私たちが記憶にもない罪業で監禁され、悶え苦しんでいること、それ私たちの知らないところで、常に私たちを見守り続け、血の滲むような精進にて救済し続けている如来たちの存在理由でもある。本偈はこの私たちに関する二つの事実を教えている。この私たちに関する二つの事実をどう受け止めるのか、それは私たち次第である。

弥勒仏が腰かけておられるのはいつでもすぐに立ち上がって私たちを救済するためである

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