2021.09.19
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

住んでいる場所や姿はさまざまだが、私たちは仲良くひとつである

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第21回
訳・文:野村正次郎

地獄には熱地獄・寒地獄・近隣の者

分散しているもの、で四種がいる。

餓鬼は本拠地の者と分散した者とがいる。

畜生には大海を住処とする者たちと

三大陸に分散し棲む者とで二種がいる。

人間は四大州に分散して四種がいる。

欲天は四天王衆・三十三天・夜摩天、

兜率天・化楽天・他化自在天と六種がいる。

色界天は四静慮により四住処がいる

無色界天には空無辺処と識無辺処と

無所有処と非想非非想処で四種がいる。

私たち人間にも様々な人種や民族が様々な土地に住んでいて、そのひとつの土地にも様々な人間が住んでいるように、心と体をもって生きている一切衆生にもさまざまな者たちがいる。ここにあるような地獄から有頂天(非想非非想処)までの衆生の分類は、いわゆる生物の分類である。

現代の生物学や分類学の基本を作ったのは十八世紀のスウェーデンのカール・リンネであるが、今日でも広く用いられている分類体系は、動物界・植物界という二界説を取り、その上で、界(kingdom)、門(division)、綱(class)、目(order)、科(family)、属(genus)、種(species)と細分していくものであるが、現在主流となっている分類学では、さらにその上に、細菌・真核生物・古最細菌という三つのドメイン(domain)あるいは、「上界」(superkingdom)というものを置いているが、これらのすべてはあくまでも地球上で確認できる生物のみを分類したものであり、そこには植物も含まれている、ということを理解すれば、仏教のこの欲界・色界・無色界というこの分類との違いがわかりやすくなると思われる。

仏教の分類では、現代の分類学上の生物(life, organism)ではなく、娑婆世界を物質と精神が合体して、活動して動いている動世間・有情世間と、精神をもたない自己の意思のない器世間とに分類する。この時点で、植物や土や水などは器世間に分類され、これらは生物とみなされることはない。何故なら自分の意思で活動しているわけではないし、物質である肉体に精神が定着している状態、すなわち生命、命根を植物などはもたないからである。

動世間・有情世間が「プドガラ」「補特伽羅」「衆生」「有情」の大分類の元となるが、これを生命、」を維持するためにどれだけの物質が必要になるのか、ということによって欲界、色界、無色界と三つの「界」「有」に分けた上で、その次にその衆生の「種」の分類として、地獄・餓鬼・畜生・人・天となり、色界・無色界には天以外の衆生はいないので、色界天・色界などは同義語となるが、六欲天以下の衆生は、阿修羅を別途数えれば六種となり、これが六道輪廻ということになる。さらに各々の「種」をさらに分類する場合には、その種が主にどこに住んでいるのか、という居住地によって分類としており、ここで挙げられている分類はその主たる住所によるグルーピングということになる。

いまの地球上に住んでいる私たちは、このうちの人間、という種で、居住地域としては四大州では南閻浮提・贍部洲、ジャンブドビーバということになるが、人間は南贍部洲・西牛貨洲・北倶盧洲・東勝身洲という四つの大陸に分散しているので、主たる住所が北倶盧洲の人間がいたりするが、両側歩行をして会話をしたら通じるという同じ人間の条件を満たしているので、人間にもいまの私たちのいる場所以外にも様々な場所にはさまざまな人々が住んでいる、ということになる。

これら地獄・餓鬼・畜生・人間・神々や阿修羅などのそれぞれの生物の細目の分類は、このように大きく分ける時は、居住地域によって分類したものであり、熱地獄・寒地獄などもそれぞれ居住地域の違いが主な分類となるが、ここにもあるように一定の住所をもたない分散して居住している衆生たちも多くいて、それらはどのあたりに分布しているのか、というのはちょうどいまの私たちが国ごとや地域ごとの人工分布図などを眺めるようなものである。

補特伽羅・生物・有情の総個体数は無限であり、それは無始以来存在しつづけているが、個体数の分布としては、有頂天が最も少なく、地獄が最も個体数が多い。これは人間よりも人間の周囲にいる動物の個体数の方が圧倒的に多いことや、水中に棲んでいる畜生道の大多数よりも、陸生の動物より少ないことなど、この生物の個体数の生息地ごとの分布など、現在の地球上でも観測可能なものばかりである。しかるにこれらの三界輪廻の分類についてはそれほど非科学的な発想ではないことは、冷静に考えていけば、納得ができるものである。

衆生や生物の分類を知る上で重要なことは、私たちに人間にも様々な者がおり、様々な居住地に棲んでいるが、同じ人間であり、様々な活動をしているがすべての人類が幸福をもとめ、苦しみを望んでいないのと同じように、三界輪廻の様々な衆生たちもまた、様々な場所に住んでいるし、様々な種類のものがいるが、お互いに協調し依存し合いながら、それぞれの幸福を追求しているということであろう。人間にはさまざまな人がいるが、お互いに譲り合い、思いやり合うことで、争いや暴力を減らしてより幸福な人間社会をつくっていくことができる。これと同じように様々な衆生がひとつであると認識し、互いに思いやり、慈悲と愛に満ちた衆生と衆生の関係をつくっていくのならば、より幸せで慈愛にみちた、平和な娑婆世界をつくっていくことができるだろう。

友情と繁栄を表す仲良しのどうぶつ4兄弟(このどうぶつのお話はまた別の機会に書きます)


RELATED POSTS