2021.09.16
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

溺れる私たちの最期の希望

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第22回
訳・文: 野村正次郎

人間や神々は輪廻の牢獄の主人ではある

しかし生まれて死に老いては悶えてゆく

この激流に溺れながら有の海に漂着する

有の快楽に囚われた不条理を知りつつも

意に反して愛着が知性の眼を塞いでいる

苦悩を快楽と錯覚し邪見に駆られている

転倒し挫けている私は何も見えていない

どうぞ有の激流から解放し給わんことを

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人間や神々に生まれるということは、生まれつき幸せが多い境涯に生まれる、という大変恵まれた環境を得ているということである。私たち人間は家畜として飼育されることもないし、鞭で打たれて曲芸をしなくてはいけない訳ではない。害虫だと罵られこともないし、何も分かっていない小さな赤ん坊の弱い手で潰されて死んでしまう訳ではない。食べ物を食べればその味を味わって嘔吐しなくても消化できるのであり、水を飲めばきちんと喉の渇きを癒すこともできる。死にたくても死ねない火炙りの刑が永遠に続くこともないし、針の山を裸足で歩き続けないといけない訳でもない。寒くて凍えそうになれば、暖をもとめて肌を温めながら白湯を飲んで身体を温めることもできるのであり、凍えて皮膚が剥がれてどんなに悲鳴を上げても誰にも聞かれないでそのまま死ねない訳でもない。

人間に生まれてもある程度努力をすれば、より快適な生活をすることができるし、たとえ今生では死んでしまっても、それほど悪いことをしないで他の人にやさしくしたりすることで、人間のなかでもより恵まれた環境に生まれることもできるし、さらには何一つ不自由のない、快楽の至極であり、世界の支配者である神々の境地に生まれることもできる。人間や神々へと生まれるための方法は、他者に対する愛情が実現してくれるものであり、自分勝手にし放題に生きない限り、最低でも人間や神々の境地に生まれることはある程度できるものである。ここに生まれることは、この巨大な牢獄の支配者に生まれることであり、牢獄の囚人であるが、重鎮であるので、部下や奴隷を代わりに働かせることのできる比較的ましな境地に生まれることでもある。だからこそ、この人間や神々の境地は善趣と呼ばれ、善いことをした人だけが味わうことのできる恵まれた境地なのである。

しかしこんな善趣に生まれていても、私たちは生まれ、死に、そして老いて醜い姿となり、不治の病である時すべてを捨てて、またこれを繰り返さなくてはならない。輪廻転生という激しく流れる泥の川に溺れている私たちは、いまは人間や神々という少しだけ安全な救命装置を身に纏って流されているだけであり、結局は流転と再生の海へと流されていくしかない。流転と再生を繰り返すことの原因は、私たちがこの身体と精神が結びついた生命を維持するために、さまざまな快楽をもとめていることこそにあり、どんなに努力してもここで私たちが得ることのできる快楽など、所詮苦しみが少しだけ少なくなっていることに過ぎないのであり、快楽でも苦しみでもないと思っているものでさえ、それは苦しみを本性としているからこそ、普段何も感じないものでさえ、私たちはそれが苦しみであることを思い知らされる時は必ずやってくるのである。

ここに生きていること、ここに生まれていること、この現象をよく考えると、本当は間違っている、ということを知ることはできる。いまあるこのすべてのことは私たちがものごとを間違って捉えていることからはじまっている。こんな暮らしをしたくはない、死にたくはなにも関わらず、私たちは死ぬべくように生まれてきて、苦しむべくように苦しみの原因ばかりを集めて日々奔走している。如来たちが教えていることは頭では理解もできる。そしてそれが正論であることも知っている。しかし、目の前のことに私たちは忙しく、その真実から眼を背け、自分の快楽をもとめてそのための活動をすることこそが大切だと思い込み、無明や愛着や嫌悪感という毒を好んで服毒して、死んでいこうとしている。それがいつだったかも分からない、無限の過去から私たちは自ら不幸になるための原因ばかりを作っていき、苦しみたくはないはずなのに、わざわざ苦しみの崖から奈落の淵へと飛び込んでいっているのである。随分と馬鹿なことをやってきたのにも関わらず、もうすこし馬鹿なことをしておけば少しだけ楽しめるのでは、という甘い期待は私たちの眼を曇らせて、盲目にさせ続けている。

「いまはなかなか楽しくてこの身体もそれなりになかなか美しい体である」(浄)、「これはなかなか快適である」(楽)、「いまはこの快楽は自分のもとしてしばらく享受できている」(常)、「これが私でありこれが私のものである。」(我)私たちは釈尊がそんな考えは間違いですよと指摘されているその通りの考えに愛着をもっていて、この考えを捨てようとはしていない。釈尊が説かれているのは、この逆のことなのであり、「それはしばらくの間使える体でしかありません」(無常)、「それは快楽ではなく苦しみですよ」(苦)、「あなたは自分がコントロールしていると思っていますがそれは実際には煩悩に支配されているだけでとっても空しいことをやっているんですよ」(空)、「あなたが思っているような私というものは有りませんし、私のものと思っているものの何にも有りませんよ」(無我)この釈尊の教えのもっともはじめの四聖諦の苦諦の四行相にすら私たちは殆ど全員が眼を背けているのである。だからといってこれはいますぐにどうにかなるものではない。まずはこの苦諦の四行相から私たちは知らなくてはならない。

まずはこの苦諦の四行相から正しい事実を知り、この苦しみはなくすことができるのか。そのためには何をするべきなのか、いま人間に生まれることができている、この恵まれた時と境涯を最大限に活用し、このいま私たちは抱えている問題を解決していくことを目指していかなくてはならないのである。しかし私たちは何万年も前から、何億年も前から、いまの人生の記憶にはない、過去世の時代からずっとこれらのことをきちんと考えて来なかったのである。この問題を一昼一夜で解決できるようなものではない。幸いなことに、釈尊の教えを聞いたことがあり、釈尊の教えに触れたことがあり、しかしながらきちんと釈尊の教えを理解できない者たち、釈尊の教えを実践できない者たち、そのような駄目な弟子たちである私たちが常に幸せであることを希望しつづけて活動してくださっている弥勒仏、その名前は慈愛そのものであり、その存在はすべての如来の慈愛が姿を私たちのために現してくださったものである、と言われているこの弥勒仏ならば、私たちのような不肖の釈尊の弟子たちが解脱へと至るための街道を転ばないで歩いていけるように助けてくれる可能性がきっとあるように思われる訳である。そこでいままで私たちはどうしてきたのか、いま何をしているのか、どんなに情けない状況になっているのか、これを正直に告白し、弥勒仏に対して善趣に生まれていてもどうにもならない状況を改善してくれるのにどうか手助けをしてください、そう心の底から請願しているのが、このジェ・ツォンカパの祈りの文章である。

本節では、このような善趣にいても輪廻の苦から逃れられず、無明に支配されて輪廻の激流に流されて苦海で溺れ続けている私たちの最期の一縷の希望と祈りを弥勒仏に託しているものである。

輪廻の苦海に溺れる私たちは最期の希望の意志表示をしてみるものである

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