2021.08.15
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

苦しみの容器に閉じ込められた人間

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第19回
訳・文: 野村正次郎

人に生まれていても財産や地位を

失うかも知れない憂いに悩まされ

上趣にはいても恵まれず困窮する

欲望を実現するために疲弊してゆく

快楽を求めてその糧へと奮闘するが

ひとつ叶えてもいつも完璧ではない

身体には苦痛があり心には不安がある

何をするとも様々に苦しみ悶えていく

23

悪趣へと落ちる苦しみを逃れ、善趣と呼ばれる人間や神へと生まれることができても、輪廻の苦海へ再生しているのに過ぎず、その限り苦しみを回避することはできない。この二偈は人間に生まれた場合の苦しみを具体的に述べることによって、それを表現しようとしている。

人間は、生まれながらにして地獄・餓鬼・畜生・修羅といった悪趣の衆生たちが味わっている苦痛に全面的に悩まされている訳ではないが、人間には悪趣の苦しみのそのすべてが存在している。さらに私たち人間は自分たちのことであるので、人間の苦しみについて正しい理解をもっている、と思いがちだが、実際には正しく理解していない。それ故にこそ釈尊は最初に我々の現状が苦しみに渦中にある、ということを正しく認識しなさいという意味で「聖者にとってみれば、この輪廻それ自体が苦しみであるというこの事実を知らなければならない」という意味で苦諦というものが説かれている。

苦諦とは何か、ということを理解するためには、まず「これが苦諦である」と言われるその「これ」が何を指しているのか、ということを理解する必要があるが、これは通常身体的あるいは精神的な苦痛の感覚のことだけではない。我々が通常苦痛であると思っているものは、「苦苦」というものであり、これは苦の一部に過ぎないのであり、我々が通常快楽であると感じているたとえば、美味なる料理を味わう満足感もこれも苦でありこれを「壊苦」とよび、我々が有漏の五取蘊をもって生まれていることそれ自体は何の感覚もないけれども、これを「行苦」と呼ぶし、水や空気や自転車や電話機などの無生物のものまでも聖者たちはこれらのすべてが苦であると認識する。この「苦苦」「壊苦」「行苦」は「三苦」と呼ばれて苦諦を三つに分類したものである。

これに対して生・老・病・死の四苦というものがあり、これは我々にとっても身近なものであるが、まず「生まれること自体が苦である」というのはどういうことかといえば、生まれる時には直接的な苦痛を伴い、生まれることは自己の選択によって生まれてくることができず、生まれることによって老病死といった他の苦痛が起こってくるのであり、生まれること自体に対しても様々な煩悩が起こり、生まれることは同時に死のはじまりでもあるので生まれることは苦であるという。

老いについては、身体的な外見が美しくなくなり、身体能力が衰えて、感覚も鈍くなり、健康時には堪能できた欲望の対象すら享受できなくなり、寿命が尽きているので苦しみにほかならない。老いの苦しみとは、死の苦しみよりも長期間不快感を与えるので、過去のカダム派の賢者たちのなかには、老いの方がよりも恐ろしい現在進行中のものである、と説いている者たちもいる。

病いが苦しみであるというのは、病とはそもそも身体の性質が変化することであり、病によって不快感が持続し増大してゆき、病によって通常楽しめたものを堪能することに障害が発生し、本来望んでいないにも関わらず治療のために苦痛に耐えなくてはいけなくなり、治療不可能な場合には死という別の苦しみの原因となるので、苦しみを本質としているのである。

死の苦しみとは、生活の糧、自分の幸福のために築いてきた財産、家族関係、友人関係、自分の肉体のすべてから離別することであり、臨終時には断末魔の苦しみという生涯のなかで最大の苦しみを味わなければならず、このすべての苦しみを回避できないからこそ、死は苦しみを本質としている。断末魔の苦しみは、人間から天に生まれる時、そして人間から地獄に生まれる時には化生によって転生するので起きないといわれているが、臨終時の精神状態が善への傾向が強力な場合には、断末魔の苦しみは若干軽減されるがなくなるわけではない。

以上の生老病死の四苦は、誰しも味合うものであり、我々は他人が味わっているのを最初は目撃し想像することができるが、この苦しみは自分たちが必ず自ら経験しなければならないものであり、各自が苦しみの当事者であり、それを回避したくでも、現状では決して回避できない、ということが業と煩悩によって再生する輪廻の苦の本質なのである。


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