2021.08.11
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

水と炭でできた壊れやすい有機体

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第17回
訳・文:野村正次郎

倶舎論は十一色蘊を説いている。

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五蘊の最初の色蘊とは、『阿毘達磨倶舎論』では、物質のことであるが、これは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根の五根、色・声・香・味・触の五境、それと感受できない物質である無表色とで合計十一あるとする。感受できない物質である無表色とは、地・水・火・風などの物質を組成する元素で組成されたものであるが、感官知には感受することができない類のものを無表色という。この無表色を色蘊のひとつとして、合計で色蘊として十一に数える解釈は、毘婆沙師と中観帰謬派の学説として有名である。この学説を採用しない経量部の場合、無表色は無対色ではあるが、色そのものではないので、無表色を色蘊とはしないが、これを法処色として数え合計十一とする。

色蘊・色・物質は同義語であり、それは外部物質と内部物質に分けることができ、前者が五境であり、後者が五根である。これらは基本的には感覚によって感知されるものであり、感知されない物質を無表色ないしは法処色として追加して数えているが、主として私たちの感覚が感知している対象とそれを感知する身体器官のことを表している。

「色」「色蘊」(スクプン)「蘊」(プンポ)という言葉は現在の普通のチベット語でもよく使う表現であり、これは通常「身体」を表している。「お元気ですか」と声を掛けるときには「クスク・デポインペー」と聞き、遺体を「プンポ」と呼ぶこともある。これは私たちが自分たちの身体を自分のことであると誤って考えてしまう傾向にあることを表しているだろう。

私たちが自分を意識する時のそのほとんどは物質であるこの身体、すなわち色蘊を「私」と思っている場合が多い。物質を私たちは追い求め、物質を享受することを、自分たちの幸せであると感じている場合が多い。身体に障害が起こることを不幸であると考え、身体的に健康であることを幸せであると考えている。しかし物質とは所詮物質に過ぎないので、消耗品であり、他の物質と接触して、その組成の力が失われてしまえば、物質はその集合体を維持することができなくなる。たとえばより強度の高い巨大な物質が私たちに急激に接触すれば、身体は損傷を負ってしまい、その結果この物質的な身体が精神の所依としての能力を果たすことができなくなって「死」という現象が起こる。現代の私たちはこの身体のほとんどが炭素化合物や水分でできていることを知っているが、「私」にもっとも近いこの炭素化合物には異常なまでの執着をもっており、毎日炭素化合物の組成状態を維持するために、食料などの他の物質を享受して排泄物を排泄するために生きている。

ダイヤモンドなどといった自分の身体には何の栄養素も与えてくれないもののために、この炭素化合物を様々に動かせて、物質と物質を交換するための社会的な約束である貨幣などを稼ぎ、この炭素化合物を維持するために、何十年も借金をしてちっぽけな箱を買ったりする。殆どの人間が自己所有の炭素化合物のために生きているのであり、組成されている全体の形を変えてしまえば、ただの水やただの炭のようなものに過ぎないものを、大変大事しており、このからくりになかなか気づくこともないし、このことが実に下らないということを誰かがいったとしても、感情を害され、そのような言葉を放つ物質などこの世界から無くなってしまえばよい、という暴力的な嫌悪感に満ち、時には他者所有の炭素化合物を破壊して、自己所有の炭素化合物の縄張りを広げるために、暴力や傷害、そして殺傷という行為へと及んでいる。

私たち人間を構成している五蘊のなかの色蘊は、五分の一に過ぎないものである。つまり二割程度しか占めてない。如来たちは五蘊を所有していることそれ自体が苦しみであるという事実を知りなさい、と説いているが、殆ど誰もそんなことを聞く耳ももたないし、仏教というものが、過去の人間、過去の炭素化合物が発した音であると考えている者さえも多くいる。五蘊は苦しみであることを知りなさい、というのは、まずはこの物質が物質であることを冷静に受け止めて、自分たちが思っているこの欺瞞を捨てて、この人身という炭素化合物こそが、どんな宝石よりも価値のあるものである、ということを知りなさいということでもある。物質はあくまでも物質である。物は壊れやすく、物を壊すのは簡単である。しかし物を作ること、物を大切に使うこと、これは簡単なことではない。私たちが独占しているこの物質、この身体は、感覚器官とその感知する対象とでできている。これは他人のもちものではなく、自分の持ち物であり、自分の意志によってどのようにも使うことができる。この物質には消費期限があり、永遠ではない。

とはいえ、この脆く壊れやすい炭素化合物は、樹々のあいだで鳥たちの鳴き声を聞くことができる。二千五百年も昔に発せられた如来たちの声の優美な響きを小さな炭素の濃淡で構成した文字というものを通して聴くこともできる。固形の物質を享受しなくても、生きていけることを仏教は説いているし、このからくりなど考えてもいないままあくせく苦しみながら奮闘している仲間たちのために、小さな役にたつことをすることもできる。私たちを構成するこの二割程度のものは、確かに当てにはならないものであるが、決して自ら捨ててしまう必要もない。この僅かな物質の恵みを感じることができるようになれば、この苦しみという事実が、単なる苦痛ではない別の種類のものであるということも分かるようになるだろう。

物質には感知できないものも存在することから十一種類のものがあると『倶舎論』などでは説いているが、私たちがもっている物、そしてこの周りにある物、それは物質以上のものでもないし、物質以下のものでもない。この当たり前のことを冷静に受け止めて理解すること、それが色蘊とは何か、ということ知ることの第一歩であり、それは私たちが物として、ここにどう存在するのか、ということへの道標となる契機のひとつであると思われる。

炭素化合物と水でできたこの身体をどんな絵を描くのは自由意志である

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