2021.08.08
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

如来たちのことばの響きと対話する

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第19回
訳・文:野村正次郎

どんなに甚深なる口伝を求めても

どんなに様々な伝授を授かるとも

文法 修辞学 医学 暦学などに

拘泥すれば本典の聞思の妨げとなる

根の部分を捨て枝葉を捉えぬように いざ

19

釈尊は衆生たちをこの苦しみから解脱されるために法性の真実を説いている。法性の真実は如来が地上に存在していようがしていまいが、変わることはない永遠の真実にほかならない。しかしこの真実を私たちは知らないからこそ、苦悩や絶望の淵を彷徨いつづけており、この苦しみから私たちを逃れさせるために、私たちが聞きたくなるような魅力的な修辞法や譬喩を使って、分かりやすく意味している内容も明白極まりない言葉遣いで我々にやさしく語りかけている。その言葉は「愛語」と呼ばれ、どんなに聞き続けてもその語り口に飽きることもなく、ひとつひとつの表現にどんなに様々な解釈をしていこうとも、私たちの心を映し出す鏡のように、常に大切なことだけを教えてくれる。それはいまから2500年ほど前にインドの地で語られ、その大切なことばを共有したいという善なる意思によってさまざまな地域のさまざまな言葉に翻訳され、現在もそのことばとそのことばが表す思想の伝統がつづいている。私たちがいる現在はその伝統の現在である。

仏典を学ぼうとする場合には、まずはその言葉づかいに慣れる必要がある。古典の言葉は普段の私たちの生活では使わない言葉づかいや表現に満ちている。私たちがいままで知らなかった世界を釈尊の言葉を通じて理解するためには、釈尊たちが私たちに一体何を教えてくれようとしているのか、そのことをまずは正確に理解しなければならない。深遠なる仏教の哲学書を読解するためには、その書物がどのような文法で説かれているのか、ということを知ることは極めて重要なことであり、仏典の言葉をひとつひとつ他の文献をあたりながら研究し、その意味を深く自分の問題として考えることは非常に大切なことである。

インド文明のもつ芳醇な修辞法、ひとつひとつの音声やひとつひとつの言葉の組み合わせには、それぞれ様々な深い言葉をもっている。私たち日本で仏教に関わっている者であれば、特に仏教用語は三蔵法師玄奘の翻訳した仏教用語を知ることは極めて重要なことである。特に仏教では私たちの日本語は漢文を日本語として読むという読み下し、という方法によって方法をとってきたのであり、白文そのままで訓読もせずに仏典の漢文をすらすらと理解できるほど漢文に堪能な人は現在それほど多くはいない。ましてやサンスクリットで書かれたオリジナルの経文やチベット語に翻訳された多くの仏典をすらすらと読める人も多くはいない。

この事情はネイティブの人たちにもあまり変わるものではなく、21世紀の現代の言葉に親しんでいる漢語を母語とする人であれ、チベット人であれ、インド人であれ、古典を読むためには、ある程度の古典を読解するための基礎教養を身につける必要がある。それらはひとつひとつの表現が何を意図しようとしているものなのか、ということを表現されているものから正しく理解するための手がかりであり、文法や表現がわからなければ、そもそも言葉として語られたものを理解することなどできはしない。

しかしもしも古典の文法や表現について知識や教養を身につけることばかりに気を取られ、そもそも読もうとしているテキストや教えが何を表現し、釈尊やナーランダー僧院の学匠たちは一体私たちに何を伝えようとしているのか、どのような事実を言葉で表現し、どのような論理を私たちに理解させようとしているのか、そういった表現された対象が何か、という問いかけを忘れてしまうのならば、せっかく古典を読解するための努力をしても、古典をいつまで経っても読めるようになることなどないのである。

文法学や修辞法はもちろんのこと、それ以外にも修行する主体である私たちの健康をどう維持するのか、ということに関する医学をはじめとして、天体の動きによって、私たちが過ごしている時間の過ごし方を教えてくれる天文学や暦学や占いといったものに対する知識も必要である。太陽や月がどこにあるのか、いまは何日であり、その日はどんな日なのか、こういったことを知ることも私たちが自分たちの精神修養を日々発展させていくためには、大変参考になる有益なことである。しかし文法や修辞学、天文学や暦学、そして工業技術や芸術、そして論理学と弁証法などのすべての学問は、本来の目的である、解脱と一切智を忘れてしまい、ただ表現ばかりに拘泥し、如来たちの意図を考えることをしなければ、全く意味がない。

これは丁度音楽を鑑賞している時に音楽そのものを聞くことはなく、ただ音符の配列がどうこういってみたり、演奏技術がどうこういってみたり、歌唱法がどうだとかいっていることと同じである。モーツァルトの楽曲の音符を覚えていたり、それを演奏することができたり、和声進行などを解析することができても、モーツァルトの楽曲が奏でる音楽を聴くことはできない。何故ならば、そのようなことをどんなにやってみても、モーツァルトの楽曲のたったひとつの音符や休符さえも聴けていない。ただその音符の表現する中身を聴くのではなく、ただ聴覚で聴取できる音列をまったく別の言語へと置換しているに過ぎないからである。

仏典を聴聞し、仏典を読解し、仏典を咀嚼する、ということ、それは私たちひとりひとりが如来たちと対話するということにほかならない。彼らの言葉尻を捉えることに集中していては、彼らが伝えたいことをきちんと理解することなど到底できやしない。お辞儀をするたびに毎回分度器をもって角度を図らなければいけないならば、朝起きて仏壇に身口意をこめて礼拝することもままならないだろう。樹木の根は、枝葉がなければ枯れてしまう。枝葉もまた樹の根がなければ枯れてしまう。形式ばかりに拘っている限り中身を理解できないし、中身への理解が深まれば、その時の表現の形式も自然に納得のいく表現であることが分かってくるものである。

親切な人に「そっち行くと危ない。死にますよ。」と言われたとき、私たちは死ぬかどうかの可能性が何割くらいなのか、を考える必要はない。彼が伝えたいのは「そっちに行かないでね」ということであって、実際に行ってみて大怪我をして偶々死ななかったからといって、「あなたは嘘をつきましたね。けしからん。そもそも”そっち・に”と《に》という助詞をつけて話さないからいけませんね。あなた義務教育を受けた割には変な言葉づかいですよね。そんな日本語ありませんよ。国語の先生に聞いてみたらいいんです。そもそもあなたの言葉は文法が間違っているので、私にはあなたの言うことが理解できないんです。そして死にもしないのにそんなことを言うのは大袈裟すぎますよね。あなたに死にますと言われて非常に不快でしたので、あなたのことを脅迫罪で訴えます。」というのはおかしな話である。大怪我をした人が言うべきことは「危険があるのを教えてくれたのに、無視して行ったら大変なことになりました。でも教えてくださって、どうもありがとうございました。今度からもうすこし素直に人の話を聞くことにします。いい勉強になりました」ということなのである。

どんなものごとにも「調度良い」ということは大変大事なことである。如来の言葉などの仏典を学ぶときにも、調度よい状態を保つことを忘れないようにしたいものである。

どんな言葉も物質としてはただの空気の振動であり、グラフに置き換えて表示しても何も意味はない。


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