2021.08.16
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

鍵がなければ、扉は決して勝手に開かない

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第20回
訳・文:野村正次郎

それぞれの聖典が表現しているもの

目指そうとするその目的に眼を背け

ただ問答の受け答えに耽溺してしまい

聞くに耐えるが論理的に破綻している

ことば遊びでは単なる雑談に過ぎない

表現と論理の両方を合わせ学びなさい いざ

20

チベットの僧院では、二十年以上もの年月をかけて所定の伝統僧院の学習過程を学んでいる。その教科書となる五大根本聖典とは、ダルマキールティの『量評釈』、マイトレーヤの『現観荘厳論』、チャンドラキールティの『入中論』、ヴァスバンドゥの『阿毘達磨倶舎論』、シャーキャプラバの『律経』というナーランダー僧院の賢者たちによって表された聖典であり、これらをジェ・ツォンカパとその直弟子の解釈の講釈を師僧から伝授してもらいながら、各学堂の問答法苑(チューダ)にて各自問答をしながら学んでいく必要がある。

ゲルク派の僧院で学んでいる場合には、最低でも毎日それぞれ仏典の講釈を受ける師僧から毎日一時間程度の講義を受講し、それ以外にも学堂の各学堂で定められている問答の教本を学び、学僧たちが受講する講義時間は一日三時間より長いものではない。それ以外には、早朝と夕方には一時間ほど暗記の時間というが定められており、僧侶たちはそれらのテキストを暗記して、午前・午後に開催される最低でも三時間以上設けられている問答法苑に参加して、同じテキストの同じ箇所を学んでいる同級生たちと問答をして聖典を理解していかなければならない。問答法苑や試験などでは基本的に書物などは持ち込み不可であるので、自分たちで暗誦して、理解しているテキストについて、その意味を議論しなくてはならない。しかるに根本聖典や教科書に書いてある文章については殆どの学生はそれを暗誦していなければ、三時間以上も手ぶらで議論をしなくてはならない問答法苑で問答をすることなども出来ず、仏典を学ばずに怠けて座っているだけでは監督官たちに注意されたり、あまりにも怠惰な態度の場合には、食事が支給されなかったり、罰則として補修を受けたり、労務作業をしなくてはならなかったり非常に厳格な制度が整備されている。

ただ問答法苑で問答する内容は、通常はその学級ごとにトピックも決まっているので、学習意欲や能力の低い学生の場合には、とりあえず講義で行われている箇所だけ経文を暗記しておき、頻出する問答だけを頭に入れておけば、あまり深く考えなくても一応問答をすることはできる。毎日の問答の時間では問答をきちんとしているかどうか監督されているが、その内容をきちんと理解しているかどうか、どれだけ深く理解しているかどうか、ということは年度末の試験やゲシェーになるためのゲルク派共通試験などの問答の試験期間ではない限り、採点されることはないので、参加していて形だけ問答しているだけでも、一応よしとされている。これは各学習者の学習の進捗状況には個人差があるからある程度の余裕をもたせなければいけないからである。

しかるに僧院における問答は、経文や問答を暗記しているだけではできないが、必ずしも質の高い問答をしなくてもよいし、論証式を構成しながらどんな問答をするのかも、各自の自由であるし、たとえ問答でほかの学生に打ち負かされて恥をかこうとも、やる気がなければ、とりあえず進級するためだけの手法を身につけて、ほかの学生から提示された問いかけなどに対しても議論をわざとなかなか進まないようにし、歪曲してただ漫談のように笑いを狙ってただ面白可笑しい問答へと導いていくこともできるようになる。とんでもない文脈で冗談まじりにおかしな議論へと導いていくことは、如何に課題をサボるかというテクニックのひとつであり、学友たちも目に余る状態ではない限り、他人事であるので特に注意もしないのが普通である。こうして怠惰な学生は一応進級していくし、最低限の勉強だけしているので落第しないし、面白いやつだということである程度人気は出るので、形だけは所定のカリキュラムをこなして大して成績はよくないが、厳しい本山のカリキュラムでも何とかやり過ごし、地元の小さな僧院に戻った場合には、本山できちんと学んだ人として崇め奉られるので、本人としてはそれでもよいと考えている者も存在していることは確かである。

本偈はこのような間違った学習態度を戒めているものである。そもそも仏典はすべて輪廻からの解脱と一切相智を実現するために説かれているのであり、仏典で説かれているもののすべてはこのために説かれているものにほかならない。解脱と一切相智を実現するためには理解すべき多くの真実があり、このように考えた場合には誤りである、このように考えるべきである、そしてそれはこのような論理によっているといった表現があるが、それらのテキストの表現のすべては各修行者が自ら論理的に考えて、その思考を再現するために説かれているものである。しかるに誰々がこうすれば解脱できる、こういうのはよくないことである、こうしたらよいことである、といった表現だけ学んでも、自分自身でこうしたら解脱できるだろう、このようなことをするのはよくないだろう、このようにすべきであろう、テキストには直接表現されてはいないが、こういう問題についてはこういう論理によって分析すれば、こういう結論を導き出すことができるだろう、といった思考を実際にできるようにはならないのである。ただ表現にのみ拘泥し、たとえ仏典の意味を問答の場で、誰々はこうおっしゃっているので、菩提心とはこういうものである、それ以外にはこういう意見もある、と表現されている内容ではなく、表現それ自体、ことばそれ自体を積み重ねて自分の知識を披露して自慢し、ナーランダーの賢者たちがこう言っている、ということは自分では言えたとしても、何故そう説かれたのか、何故そう説かれなければならないのか、そのようなことに眼を背けていては聖典の意味する内容については永遠に理解できるようにはならないし、ましてや解脱や一切相智を実現することなど不可能である。出家をして厳格な戒律をまもって生活し、せっかく素晴らしい僧院に入門し、素晴らしい先生たちや素晴らしい学友に恵まれていても何一つ大切なことを学ぶこともできず、ただ無益に時間を過ごしているだけでは本末顛倒である。しかし難解なテキストを読解し、理解することそれ自体が簡単ではないので、書いてある文章の表現が少し理解できただけで、その内容を理解できたと錯覚してしまうのである。

仏典を学んでいく時に私たちが最も気をつけなければいけないのはこのことであり、問答をして理解を深めるのもただ表現のみに拘泥して、その場しのぎで楽しく愉快に暮らすためでは決してない。多くの仏典を学ぶことは、より詳しく自分の心を分析し、より正しく真実を理解し、よりよい人間としてこの生を過ごし、そしてその修練を通じて、最終的にはすべての生きとしいけるものたちを救済できるような如来の境地を目指して行っていることなのである。

ダルマキールティも『量評釈』の冒頭で、通常の人間というものは普通の誰にでも分かりやすいどうでもいいことばかりに拘泥し、知性を発展させようと努力しないので、如来や善知識たちが解脱や如来の境地に至るための論理や方法を表現している如来の教説を、自他のすべての目的を実現してくれるものであると思い追及しようとしないだけではなく、偏見や自惚れや嫉妬心という心の垢で汚してしまい、仏法やそれを説く聖典に対して嫌悪感を抱いている者も多くいる、と述べている。ジェ・ツォンカパの継承者であるケードゥプジェはこのダルマキールティの表現は間接的に『四百論』で「公正で、知性があり 探究心のある、このような聴聞者を器と呼ぶ」と仏弟子の条件が説かれているように、世間のすべての活動に対する執着を捨て、自分や他人の立場などといったものに拘泥してしまう偏見を動機とする嫉妬心から生じる仏法を語るものに対する嫌悪感をすべて捨て、最初に善悪を峻別する知性で善悪を正しく分析して判断して、誤った表現はすべて捨ててしまい、善説への探究心を強くもち、そのような探究心を常に維持して、正しい知性で善説を追及していかなければならないことを教示するものである、と述べている。

仏典の論理を知ることができるようになる、ということは、私たち自身がいまここで常に如来たちと同じような推論ができ、同じような考え方がひとりでもできるようになる、ということである。仏典の論理は解脱を実現し如来の境地を実現する「正理の道」とも呼ばれ、すべての仏典は我々が涅槃寂静の境地にいたるための強靭な論理に支えられ、この論理を理解することが如来のことばの表現を理解することである。そのためには私たち自身の言葉、私たち自身がもつすべての知性を振り絞ってどんな難解な表現にも、そしてどんな難解な論理にも、真摯に向き合わなければいけない。このことの大切さを本偈は説いている。

かつてケンスル・リンポチェは、難解なチベット仏教の論理学を学んでいるときに、仏教における論理とは、八万四千の法蘊の扉を開けるための鍵であり、この鍵は自分たちの頭をつかって考えることによって準備でき、そしてその準備するのは私たちひとりひとりである、ということを教えてくださった。如来のことばの扉は自動扉ではないし、鍵がなければ力技や他人に頼んでも私たちひとりひとりに準備されているその扉を開くことはできない。しかしここで諦めて世間の喧騒のなかで引き返せばまた苦悩と悲劇の洪水で生命を落とすだけである。扉は眼の前にあり、その鍵は私たちがいま既にもっているこの知性を働かせさえすればよいのは意外に幸運なことである。

扉を開けば他の生き物にも必ず役に立つ


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