2021.08.02
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

落ち着いて計画的に自分を導いていく

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第18回
訳・文:野村正次郎

自分では何も徳業も罪業もしない

ただ誇張された風評に翻弄される

誰も問題を解決してくれはしない

誰も功徳を口に入れてもくれない

愚かに水を引いていかないように いざ

18

釈尊の教えというのは、私たちひとりひとりの個人に語りかけられたものであり、それが仏教であるが、仏教というのは何か古い時代の社会現象のようなものであると考えている人が多い。仏教とは何か、ということは文字通り仏の教えということであり、それが昔のインドで起こったことなどは実はあまり重要なことではない。たとえば私たちが住んでいるこの大地がいつ出来たのか、ということについていろいろと調べてみることは悪いことでは決してないが、大地ができたのが大分昔なのでその大地は脆く立って歩けないかもしれないと疑ってかかる必要はないし、先月舗装工事がされたアスファルトやコンクリートでできている大地であっても、きちんと作っていなかったら歩いているうちに段々と沈んでいき、穴が空いて地面の底に落ちていくことだってあり得るのである。立派な高速道路が空中にできていても、実はいい加減な工事をしているので、高架橋が落ちてきて潰されて死んでしまうことも、無いわけではない。

釈尊の教えは釈尊が説かれたものとして経典に記されているが、その文字列と対話する能力がない人たちは、何か評判のいい権威や名声を頼りにして、自分勝手な解釈をし、自分勝手に釈尊の教えの評論家や代弁者になろうとする。ただスマートフォンやインターネットで何かを知ったつもりになり、医学校に通って解剖もしたこともない生半可な知識で、自分が同調できそうに思える誤った偽情報から正しい情報まで玉石混交に雰囲気のみで語っている。現在の感染症を取り巻く言論の状況にこうしたことは垣間見ることができるが、仏教を学んでいる人のなかにも、自分の好き嫌いで釈尊のこの教えの部分は好きだけど、この部分は納得できないし、それは所詮昔の人のお話だと切り捨ててしまう人さえも多くいる。有名人だから正しいことを言っているという保障はないのにも関わらず、言葉の文字面だけしか理解できない人たちは、何かそれ以外の物質的な根拠をもとめて、物質として測定できるような名声、知名度、人気というものに釣られて、ふらふらとする。

何か別の目的のために誇張された広告や表現など所詮半分くらいのことが事実であると思った方がよい。仏教に関わる者は事実に基づいた推理によって行動をすべきなのであり、釈尊や龍樹や無着がせっかく素晴らしいことを説かれていても、自分で考えない限りにおいて、いくら彼らの権威をかりて彼らのことばを引用しても、私たちは慈悲深い人間にもなることもできないし、思慮深い人間になることはできない。それが出来なければ目標とする死を超越する解脱の境地にたどり着けやしないものである。

一切衆生のための利他の心こそが菩薩の入り口であり、私たちが生来持っている自己中心的な発想の根源にある我執というこれを無我であるということを意識しなければ、解脱という常楽の境地になど辿りつくことはできないし、解脱できない限り、死後もまたいまのような身体を受けて再生し、さらなる苦しみの連鎖へと自ら突き進んでいくということになる。

釈尊は私たちの罪業を水で洗い流してくれるわけでもないし、私たちの苦境に手を差し伸べて取り除いてくれるわけでもない。如来たちの功徳は物質のように私たちに与えられるものではない。苦しみとは何か、苦しみの原因は何か、苦しみを退けることを実現すべきであり、それを退けてくれる知性とはどのようなものか、ただこの法性の真実を説くだけなのであって、それを実践するかどうか、その言葉を大切にするかどうか、これはすべて私たちひとりひとりの個人の行動や言動や思索のあり方を自分たちでコントロールすることでしか、実践することはできないのである。私たちはこのように仏教と自分自身で対話しながら生きていくことしかできないのであって、他人の生を生きているわけでは決してない。本偈の末句の「愚かに水を引いていかないように」のところを若干説明しておくと、水の流れというのは、自分がこちら側に引こうと思えば、その通りについてきてくれるのが水の流れであり、水の流れは私たちの営みのことを表現しており、それを引水しようとしている「愚か者」が私たちのことを表している。

釈尊はまた「自分自身は自分の守り主である。自分自身は自分の敵でもある。善を行なっているのか、悪を行なっているのか、この判定も自分自身が行うのである」と説いている。外の世界では最近は随分と物騒なことが起きているである。しかし外の世界にしても、感染症に関する問題にしても、所詮私たち自身が生きていること、そして死んでいくこと、このことの直接の要因となるものは何ひとつない。釈尊はすべての生物が老いて死ぬこと、病になること、それらのすべての原因は生まれることにあると説いている。人間は病いて死ぬのではなく、身体的な変化たる「病」が原因となって消耗品である肉体と精神の結びつきである寿命が途切れることによって死ぬと説いている。つまり病いのは単なる契機に過ぎない。だからこそ本当の病気とは、無明・貪欲・瞋恚という煩悩であると如来たちは説いていおり、我々は自分たちを死に至らしめる「最強の毒素」を断つ必要がある。

どんなことにも良い側面と悪い側面はあるものである。現在私たちが直面しているこの感染症の問題は、私たちが生きている、ということは如何なることなのか、病むということは如何なることなのか、この根本問題を見つめようとする絶好の契機が到来しているわけである。これを自滅への契機とするか、常楽への契機とするのか、それは我々ひとりひとりの自由裁量であり、仏教の学問とは死を超越する解脱のために私たちが個人的に自由意志で行う孤独な営みなのである。

落ち着いて賢く水をひけば多くの生物の命の水となる


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