2021.04.26
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

適切な食事や睡眠の分量を知る

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第17回
訳・文:野村正次郎

貯えやしがらみに溺れて見通しもない

食事や睡眠の適量すらも明白に分からない

過剰な摂取や睡眠の悪意に惚け耽溺して

外出しては四方山の噂に気を取られている

棄てるべき類を成すべきものと違わぬよう いざ

17

仏教を学ぶということは極めて私的な営みにほかならない。それは自身の行動、言動、精神を変容させ、よりよい自己を実現する計画である。目標として設定するものは決して変わらない常楽の境地であり、この境地を実現するために私的な日常の生活のなかで自ら規制をかけ、釈尊が推奨する求道者のライフスタイルを送るように勤めること、これが仏教を学び実践することである。

仏教を学び、目標を達成するというこの計画は、長期的な計画である。最低でもこの私たちの生が終わるまでは続くものであり、最低限の規則でも自らに課して自分で生活していかなければならない。仏教に関する知識や歴史を学ぶことが仏教を学ぶことと勘違いしている人も多いが、自分でやってみることができなくて、仏教を学んでいるとは言えない。たとえば料理の作り方を学ぶ場合に、食材の使い方やレシピやその料理の歴史を学んでも、作ろうとしている料理を作れるようにはならないように、いくら沢山の仏典を学んでいても、そこに書かれている内容を自分の私的な生の営みで実践しなければ、仏教を学んでいるとはいえないのである。

それでは仏教を私的な生活を通じて実践するにはどうしたらよいかといえば、在家の者であれば、まずは優婆塞・優婆夷の戒律を守って暮らすことが基本であり、出家の者であれば、具足戒を護持して生活することが最低限の実践ということになる。しかし日常の社会生活とこの仏教を学ぶ私的な生活とを調整しながら生きることは、慣れないうちはさまざまな工夫が必要となる。

出家者の場合、僧院などで集団生活をして一生を過ごすのが、正しい生活を過ごすための容易な方法ということができる。出家して僧院で暮らせば、日常生活のひとつひとつが出家者のために整備された集団生活に守られていて正しく仏教を実践することが容易となる。出家者は基本的には托鉢をして暮らし、個人的に食料を備蓄してはいけない。しかし集団生活つまり僧院としてはこの規則は適用されず、僧院では食料から医薬品、さらには日常の消耗品などを備蓄しても問題ではない。通常チベットの僧院では実家から仕送りされた食料品を貯蔵庫に備蓄し、師弟関係などのある生活単位ごとにそれを分配しながら、少しずつ消費していく。過剰に食べてしまえば、備蓄は尽きてしまうが、適度な分量で正しく消費すれば、安居などの長期間外出制限を課して生活しても十分に暮らすことができる。これと同じように、自分の心と向き合って暮らすため、適度な睡眠と休息が必要であるが、正しい時間帯に正しい方法によって就寝し、十分な睡眠を取ればそれ以上寝過ごしてしま和なくても済む。修行者にとって睡眠不足は意識を朦朧とさせ、修行の妨げとなるので、睡眠時間をきちんと取ることは大切なことである。このように食事や睡眠の適切な分量や配分をきちんと知ることは、極めて重要であり、その理解のために行住坐臥に関する戒律の意味をきちんと知っていることは極めて重要なことなのである。資糧道へと入る聖者の条件にも食事の適量を理解していることが課されているのもこのようなことが要因となっている。

行住坐臥に関する戒律の意味をきちんと学んでいなければ、美味しい食料が入荷すれば、必要以上に食べてしまい、そのことによって一食分の分量が多くなるので、総消費期間は短縮され、備蓄す品が尽きそうになってしまうので、戒律に反して、供養してもらえるよう催促し備蓄を増やそうとしてしまう者もいる。罪業は成しやすく、善業は成しがたく、節制することなく、食料を過剰に摂取しつづければ、食事は健康と修行の基盤の肉体を維持するためのものではなく、煩悩を増長させるためのものとなってしまう。時間を決めずに睡眠をとり寝過ごしてしまうのならば、不規則な生活が習慣化し怠惰な生活を送りたくなってしまう。放逸のし放題に暮らすためには、常に備蓄を増やすことが気がかりとなり、近所の信者宅を訪問しては、四方山の噂話に話を弾ませることとなり、食料を支給してくれる者の悩み相談に耳を傾け時間を浪費し、修行に費やす時間を失うこととなるのである。このように出家の修行者の場合でも、一生戒体護持を貫くためには個人的な強い決意が必要であり、そのために日常生活で様々な工夫や調整が必要となるのである。

このような仏教を学ぶものが、自分は仏教を学んでいる者であるという自覚と決意、そして創意工夫が必要となるのは在家の修行者でも同じである。在家の修行者の場合には誘惑やしがらみも多く、修行の妨げとなるものが出家者よりも多いので、個々の人間が明確に自分は修行中であるという自覚をもって生きなければいけない。

たとえば在家の修行者でも斎日に食事制限し、沈黙の行を実践したりすることが推奨されている。しかし自宅に籠って修行をしていても、近所の人が玄関を訪ねてきてお裾分けでも持参してくれば、居留守を使う訳もいかず相手をしなくてはならなくなるのであり、配達の人から何か聞かれたら一切声を出さずに無視するのもなかなか難しい。そのような特別の日ではなくても、日常生活でひとつひとつのことを仏教とは無関係な人たちと過ごしていれば必然的に時間も浪費し、多くの人がやっているからあなたもこれくらいはいいだろう、これは生活のためには仕方がない、これは社会のために仕方ないといって個人的な宗教的時間や計画が脅かされる可能性の方が高いのであり、そのことによって自分自身の行動を変容させ、言動を変容させ、精神を変容させてよりよいものへと変えていく当初の計画をなかなか実行できなくなってしまうこともよくあることなのである。

釈尊が提案されている理想の生活様式は決して他の衆生を傷つけることがなく、他者を利益するための生活様式である。必要以上の食料を求めて外食をしなくても、私たちは生きていけるし、必要以上の睡眠を取る必要もないし、運動不足と感じれば五体投地などをすればかなりの運動になる。それらの利点を情報として知ってはいるが私たちが正しく実践しできていないの、ただの怠慢に過ぎないし、これはやはり十分に反省してまずは行動から変容していかなければならない。ダライ・ラマ法王は小さな釈尊像をいつも鞄に入れて持ち歩いておられ、「この方が私のボスです」とおっしゃっていたが、このダライ・ラマ法王のやり方は、とても効果的なものであると思われる。特に日本人のような滅私奉公の文化が普及している国に住んでいる私たちは、自分の勝手な考え方をやめて、釈尊がどうおっしゃっていたのか、ということを思い出しながら生活するだけでよいということなのである。

近年では代替肉なども入手しやすくなっており、様々な食材もインターネットを通じて発注することができる。かつては図書館の書庫に行かなければ閲覧できなかった仏典もほぼすべてが公開されており、小さなスマートフォンで読むことができる大変便利な時代である。いまのように感染症が拡大し、再び日本に緊急事態宣言が発令されたからといえ、特に何か特別なことになった訳ではないのであり、私たちがひとりひとり私的な営みとして、まずは社会問題を大きくしないよう、自宅で仏典と向き合う時間を増やして過ごせばよいだけであり、その上で釈尊が理想とされたような生活様式、言動様式、思考様式を個人がきちんと実践していくだけでよいはずである。何かを誰かが言ってきたとしても、ダライ・ラマ法王のように「この方が私のボスです」と釈尊の仏像を見ながら、「これはどうしたらいいでしょうかね」と質問してみるとよい。我々の日常の問題など殆どが実に下らないし、「いまは家にいるだけで善業を積めるチャンスなので、家で私の言葉が書いてある経本をちゃんと読みましょう」ときっと答えてくださるような気がしてならないのである。 

僧院で1,000人以上のモモを作る時にも分量というのは極めて重要である。


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