2021.06.12
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

秘密真言金剛乗とは何か

釈尊の教法:『チョーネ版大蔵経論疏部目録・如意宝蔓』所化による分類(2)
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

大乗蔵に顕教・密教の二つがある理由

『秘密授記経』では「因を実践する因の転法輪の後、金剛乗に近しい道が未来に生じるだろう。」と説かれる(1)ように、大乗には因波羅蜜乗と果秘密真言金剛乗との二つがある(2)。秘密真言乗を〔経蔵・律蔵・論蔵に含まれない〕第四の蔵であるとする説もあるし、経蔵に含まれるものであるとする学説(3)もあり、また三蔵に含まれるとする学説(4)もある。

それでは大乗を波羅蜜乗・秘密真言乗との二つに分類するその論拠は一体どこにあるのだろうか。

まず、発心の違いにより顕密の違いがある訳ではない。何故ならば、波羅蜜乗・秘密真言乗の両方ともにおいて、大乗菩提心というものが有ることは変わりないからである。

では、空性を理解する思想的な点からその顕密の二つに分かれているのか、といえばこれもまたそうではない。というのも、波羅蜜経の密意は龍樹が決択なされたもの以上の思想や見解とういのは、密教にもまたないからであるし、もしも思想的な違いにより、乗が二つある、とすることができるのであるとすれば、中観派・唯識派というこの二つもまたそれぞれ異なった乗であるとする必要があることになってしまうからである。

それでは中心となる所化として、鋭根の者たち・鈍根の者たちがいるということにより、顕密の違いができるのかといえば、これもまたそうではない。もしもその通りであるとすれば、怛特羅部には四種の所化がおり、それらにも鋭根・鈍根がいるので、秘密真言乗というひとつの乗とはならず、それぞれ別個の乗であるとしなければならなくなるのである。

また精神を進化させる道の発展の速度に緩急が存在しているということだけから、これを分けることもまた出来ない。何故ならば、波羅蜜乗においても、緩急の異なる道が順に五つ有るので、道の発展速度で顕教ひとつだけを五乗としなくてはならなくなってしまうからである。また波羅蜜行の点で違いがあるのかといえばこれもまたそうではない。何故ならば、六波羅蜜の菩薩行については顕密両者とにあり、共通しているものであるからである。

さらに顕教では獲得対象となる仏の境地は宝冠などで荘厳されたものではないが、密教では主に荘厳されたものを得ようとするという相違点があることから顕密の二つになっている、ということもできない。何故ならば、顕密の両方ともが最終的な究極の獲得対象たる果位とは、すべての欠点を尽くしすべての功徳を具足している状態たる仏位であることには変わりはないからである。

このようなことから、菩提心・空観・所化の能力・道の発展速度・六波羅蜜などの菩薩行・獲得する境地などによって波羅蜜乗・秘密真言乗という二乗の違いができる、というのは正しくないのである。

それでは、このように顕教・密教の違いがもしも全く存在しない、とするならば、この二つを過去の偉大な人々が分けてこられたことが不必要である、ということになってしまう。もしも何らかの必要性があってこれを分けて表現しなければいけないのだとすれば、それは一体どのようなことを根拠として分けなければならないのか、ということを具体的に表現しなくてはならない。これについて過去のチベットの学匠たちも様々に異なる異説を唱えてきているが、ジェ・ツォンカパ大師のご主張は以下の通りである。

そもそも顕教であれ、密教であれ、所化が獲得しようとしているものの中心は、如来の精神である法身と如来の物質的な身体である色身という二つのうちの色身の方にほかならない。色身には受用身・変化身の二種があるが、この二種の身体こそを所化に対して直接示現させ、その身体をつかって説法などを行うことができるのであって、如来の精神である法身によって説法などの如来としての活動をするわけではない。もちろん如来の精神である法身を獲得しようとして追及しない、ということではない。しかしながら説法などの一切衆生を利益する活動の中心は、色身によって行うものにほかならない。

それ故、大乗道のなかの波羅蜜乗・秘密真言乗という二つの差異の中心は、方便・智慧の二つのうちの方便に関するものであるとしなくてはならない。顕教では如来の法身が有する行相に対応する智慧たる道の修習は存在しているが、如来の色身の行相に対応する道の修習は存在してはいない。しかしながら真言乗においては、如来の法身だけではなく、如来の色身に対応する行相を修習して、結果として得られる果位を道位へと転化させる修習法が存在している。それ故に、大乗の者たちが獲得しようとしているその中心となる、主に色身を成就するための因たる方便分それ自体の全体が、顕教と密教とでは大きな差異があるのであり、この大きな差によって波羅蜜乗・秘密真言乗というこの二乗へと分けなければならないのである。まさにこれを意味することは、怛特羅のなかにも説かれており、たとえば『聖荼枳尼金剛簍』(5)で次のように説かれているのである。

もし空が方便であるのなら、
仏位もまた無くなるだろう。
因と異なる果は無いからである。
しかるに方便は空性なのではない。
見解が転倒している者たち
我見を追いかけ求める者たち
彼らの我執を退けるそのために
勝者たちは空を説かれたのである
それ故に曼荼羅を巡るもの
この楽の方便たる律儀たる
仏として慢心する瑜伽により
仏は久しからざるものとなる
説法者は三十二相を具足する
また八十種の相好を具足する
それ故これを成就するために
方便を教示するため色身をとる

『聖荼枳尼金剛簍』TD419 rGyud Nga,31a

この四偈のうちの第一偈は、空性を修習するだけであり、色身を成就するための方便としては不十分であるので、空性だけの修習で成仏することはあり得ない、ということを説いている。第二偈では、無我の見解から退いており、人我見・法我見という我執を退けるために空性を修習しなければならないことを説いているのである。第三偈では、修行者自身が現状のままで仏身であるという慢心を起こして、曼荼羅の全体を修習するならば、速やかに仏位を得るだろうと色身を成就する殊勝なる方便について示している。第四偈は、説教師としての相好で荘厳された状態を実現するためには、それに先行して同類因と形相が対応する道の修習が必要であることを説いている。

以上の顕密の相違点こそれが勝者執金剛の瑕疵のない密意であるので、このヒマラヤの人々がこれとは異なることを述べているものは、核心をついたものではないのである。

秘密真言金剛乗の語釈

何故「秘密乗」というか、といえば秘密裏に隠密に成就するものであり、そのような実践の器ではない者は対象としていないので、そのような人々には教示しないので、「秘密」という。また「真言」「マントラ」という言葉の「マン」(man)とは意識のことであり、「トラ」(tra)とは護って救済するという意味であり、意識を救護するもの、という意味で「マントラ」という。これについては『秘密集会・後怛特羅』で

「何であれ感官やその対象を縁として生じているものが意識なのであり、この意識が「マン」と呼ばれるものである。トラとはこれを護って救済するということを意味している。世間の活動からは解脱しているもの、それが三昧耶戒と呼ばれるものであり、すべての金剛によって護持していることから、真言行と呼ばれているのである(6)

『秘密集会・後怛特羅』(KD443)

と説かれているのである。

また、何故「果乗」と呼ばれるのか、といえば、果位の四清浄に行相を対応させながら、現在いますぐに修習し道を志向するので、そう表現されているのである。

また何故「金剛乗」というのか、といえば、それが方便と智慧を区別しない実践、すなわち金剛薩埵の瑜伽であるからである。では何故「方便乗」と呼ばれるのか、といえば、これは波羅蜜乗よりの善巧方便が遥かに殊勝なものであるからである。また何故、真言に関する仏典を「持明蔵」(vidyādharapiṭaka)というのか、といえば、明呪を持っている人々にとって学ぶべきものの基盤であり、その学説を説いているものであるからである。

Mañjuśrī Nāmasaṃgīti

参考:ダライ・ラマ法王による密教の概説動画はこちらから

1 これはジュニャーニャシュリーの『金剛乗二辺遮遺』(TD3714, 115)に『聖秘密授記経』の経文として引用されるものであり、『プトン教法史』『怖畏金剛教法史』に引用されるものであり、それによれば『増上意楽勧請経』にも同主旨の授記の記録があるとされている。ヴィマラミトラの『聖吉祥文殊称名経』に対する注釈『名義解明灯明』(Nāmārthaprakāśakaraṇadīpa, TD2092, 30b)にも引用されている。
2 秘密真言乗はあくまでも、大乗を分類した場合に因波羅蜜乗と果秘密真言金剛乗とに分類できるのであって、声聞乗・独覚乗・大乗(菩薩乗)以外に金剛乗を第四の乗であるとすることは正しくない、と『金剛心論』(TD1180)では説かれていることをクンケン・ジクメワンポは『学説規定』で述べている。
3 これはラトナーカラシャーンティの学説である。
4 これはアビヤーカラグプタの学説である。
5 『聖荼枳尼金剛簍怛特羅大王儀軌』ĀryaḌākinīvarjapañjarāmahātantrarajakalpa, འཕགས་པ་མཁའ་འགྲོ་མ་རྡོ་རྗེ་གུར་ཞེས་བྱ་བའི་རྒྱུད་ཀྱི་རྒྱལ་པོ་ཆེན་པོའི་བརྟག་པ། TD419 rGyud Nga,31a
6 KD443, 526a-b1. Cf. Śrī Guhyasamājatantra, XVIII, 69cd-71ab: yad yad indriyair viṣayair manaḥ. tanmano mananaṁ khyātaṁ kāraka trāṇanārthataḥ, lokācāravinirmuktaṁ yad uktaṁ samayasambaram. pālanaṁ sarvavajrais tu mantracaryeti kathyate.

RELATED POSTS