2021.06.22
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

釈尊は貪欲を克服する所化の能力に応じて四部の秘密真言乗を説かれている

釈尊の教法:『チョーネ版大蔵経論疏部目録・如意宝蔓』所化による分類(3)
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

怛特羅部の分類

或る者は「作怛特羅、行怛特羅、瑜伽怛特羅、最上瑜伽怛特羅、無上瑜伽怛特羅とで合計怛特羅は五部である」と主張し、また別の者は「下三部怛特羅の上には、父無上怛特羅・母無上怛特羅・母之母怛特羅とがあり合計で六部である」と主張している。

しかし私たちが自説とするものとしては、怛特羅部は四部である。『聖荼枳尼金剛簍』十三章には、

劣れる者には作怛特羅があり
より勝れた者には行怛特羅がある
最勝なる有情には最勝瑜伽があり
無上瑜伽はさらに勝れた者を対象とする

『聖荼枳尼金剛簍怛特羅大王儀軌』Ārya-Ḍākinīvarjapañjarā-mahātantraraja-kalpa. TD419, rGyud Nga: 54b6

と説かれる通り、金剛乗の所化のなかでも劣った者、それより勝れた中位の者、最勝の者、更に勝れた者という四種の人々を対象とし怛特羅へと入る異なる四つの門がある。『入無上瑜伽義綱要』でも、

一般的には、作怛特羅、行怛特羅、瑜伽怛特羅、無上瑜伽怛特羅と呼ばれる。

『入無上瑜伽怛特羅義綱要』Śraddhākaravarma. Yogānuttaratantrārthāvatārasaṃgraha. TD 3713, rGyud Tsu: 106a-b

と説明している。同様に聖地インドの学者の多くもこう説明し、チベットの大学者プトンをはじめ、ジェ・ツォンカパ、ボトン・チョーレーナムギャル等、ヒマラヤ地域の賢者の大多数が怛特羅部は四部にほかならない、という説を想定されているのである。

怛特羅部の分類の根拠

(他者の学説の否定)

サキャの学者ジェツン・ソナムツェモ(1142-1182)は次のように主張する。

「ヴェーダ聖典に対する信奉者の入門方法には四種ある。貪欲をもつ者は、マハー・イーシュヴァラ神を信奉して、貪欲こそ法である、と語る。瞋恚をもつ者は、ヴィシュヌ神を信奉して、暴力こそ法である、と語る。無知をもつ者は、ブラフマン神を信奉し、潔斎こそ法である、と語る。三つのすべてを同程度にもつ者は、その都度三者のすべてを信奉して、この三つすべてが法である、と語っている。これは、三宝を護持せず思想的にも無我見を採用せず、〔大悲心などの〕善巧方便を活用することもなく、悪趣への因となる。しかるに、これらの者を摂取するためには、彼らの行法に対応した行法が必要で、それを教示することにより彼らをそこへと向かわせて、実践させて精神を変容させ最終的には無上菩提へと導いていかなければならない。このことによって、四部の怛特羅が教示されているのである。」(1)

『怛特羅部総規定』(『サキャ全書』デルゲ版 Ga, 27b1-4)

しかしながら、この学説は適切ではない。何故ならば、こうした者たちをそれらの怛特羅によって教化可能であるだけで、もしもそれを怛特羅の分類の根拠とするのなら、たとえば無上瑜伽怛特羅である勝楽怛特羅の場合には、たったひとつ怛特羅によって、これら四種のすべての所化を教化することもできるので、異なった四部の怛特羅の区別を特定不能となってしまうからである。

また、外教徒の四者が四部怛特羅の所化の主たるものである、と主張するのもまた、極めて合理的ではない。真言乗が教化対象とする所化とは、仏教が教化対象とする所化のなかでも最勝な者であり、それ故にここに入門するために先に外教徒の転倒した見解をもっていなければならないということにはならないからである。したがって、これらの怛特羅が教化の対象としている所化の主たる者となるために、まずは仏教以外の外道の学説を採用してそれを志向して実践している必要がある、とするのは極めて不自然で奇妙な話ということになる。

またサキャの学者ジェツンは次のように主張している。

仏教徒の場合、顕教乗では異なった四つの学説が有るので、それらと聖言を対応させることで本尊生起の四種類の儀軌があり、そのことによって怛特羅は四部である。

声聞犢子部や辺境の毘婆沙師は、言表不可能な我というものを承認しており、それと同時に行怛特羅においては、自分自身を本尊として修習することはなく、凡俗のままの状態に留まって、絹曼荼羅を誂えて、自分とその曼荼羅の間の眼前の空間に本尊の智薩埵を勧請して、そこに住される本尊の胸元に真言の環を観想して念誦を行い、自分自身にとって主人であるかのような本尊から悉地を授かる方法が説かれる。常住でも無常でもいずれでもない我と同様に、自分自身でも描かれた本尊の身体でもいずれでもない本尊から悉地を授かるのである。

またカシミールの毘婆沙部と経量部との二派は、我というものを主張しないけれども所取・能取は実体としては別物であると認めるので、それに対応する形で行怛特羅の本尊生起の儀軌が説かれており、自分自身を三昧耶薩埵の本尊として生起させて、智薩埵を自分とは別個に眼前の本尊の真言の輪として観想して配偶者のような相対峙する本尊から悉地を授かる方法が説かれる。

さら独覚の聖者が、客体となる外部対象は存在しないが、刹那のみの識は真実であると主張していることに対応して、瑜伽怛特羅の本尊の生起儀軌が説かれている。自分自身を三昧耶薩埵として生起させてそこに智薩埵を入らしめてその上で活動されるように請願する。

また大乗者たちは、所取がないのでそれに対する能取も無いという唯識を主張したり、中観を主張したりもするが、世俗としては所取・能取の両者を認めている。これに対応する無上瑜伽の生起儀軌は、まず最初に自分を三昧耶薩埵の本尊として生起させ、そこに智薩埵が入っていく部分は、世俗として所取・能取の両者を認めるのと同じであるが、勝義としては両者を認めないように、智薩埵を入らしめてその上で活動されるように請願しなくてはならないということもない。

このように四派の学説論者に対応した異なった本尊の生起儀式が四種類あるので、怛特羅部は四つであるとすることは、『智金剛集成怛特羅』Vajrajñānasamuccaya-nāma-tantra, DK0447.にしたがって龍樹などがお認めになっていることである(2)

というように述べている。

しかしこれもまた不適切である。何故ならば、辺境の毘婆沙部は言表不可能な我を承認しないからであり、独覚とは四学派のひとつではないからであり、また作怛特羅において我生起は無いとする説明も正しくないからである。

またある者は「婆羅門の出身者には作怛特羅、武家には瑜伽怛特羅、一般市民には二種類があり、貪欲・瞋恚は弱いが無知が強固な者には行怛特羅、貪欲・瞋恚が強く無知は弱い者には秘密集会等の父怛特羅が、貪欲・瞋恚が最大であり無知が最小である小小程度である奴隷には、勝楽などの母怛特羅が説かれた」と述べている。

しかしこれも正しいとは思われない。何故ならば、四種の出身別の人種の活動と四部怛特羅の行法とに対応関係があると考える限り、それらの本質的な差異を考慮していることにはなっていないからである。また四種の人種のそれぞれが四部怛特羅の主たる所化でなければならないと主張するのも全く正しくない。無上瑜伽怛特羅の主たる所化たる、インドラブーティやサラハたちの中にも、王族や婆羅門などが多くいるからである。

(自己の学説の設定)

以上のことから自己の学説としては二つがある。すなわち、無上瑜伽の聖典における名称とその意味との説明、下部怛特羅にも共通する名称とその意味による説明。

(無上瑜伽の聖典における解釈)

秘密真言乗の道に最初に入り、それぞれの怛特羅の道を究竟することを学んでゆく教化対象となっている主たる所化は欲界の者である。しかも一般的に明妃を欲望の対象とすることに対する貪欲を道へと転化させる、というこのことだけを信解することにはすべての部の怛特羅において差異はない。

しかしながら本尊瑜伽と空性を証解する智慧の力により違いがでてくるのである。

まず修習している天女を視つめることで起こってくる貪欲を道へと転化させることは可能であるが、それ以上のより大きな貪欲を道へと転化させることが不可能な者に対して、その限りの貪欲を道へと転化させることを説くのであり、これが作怛特羅である。

方便と智慧とで修習している明妃を見つめているだけではなく、彼女たちが微笑みかけることで生じる貪欲であってもそれを道へと転化させることが可能であり、それ以外に粗大なる貪欲は道へと転化させることが不可能である者に対して、その限りの貪欲を道へと転化させることを説くのであり、これが行怛特羅である。

さらに方便と智慧との力によって修習している明妃の手を握る、あるいは体を抱擁した感覚を対象としている貪欲を道へと転化させることが可能であり、男根・女根の二根が交合している状態を修習しているものを道へと転化させることが不可能である者に、その限りの貪欲を道へと転化させることを説くのであり、これが瑜伽怛特羅である。

さらに修習しているだけではなく、現実に明妃と二根を交合させた時に生じてくる貪欲すらも道へと転化させることができる者に対して、そのような貪欲を道へと転化させることを説くのであり、これが無上怛特羅である。

このように無上瑜伽の聖典では説かれるので、怛特羅部は四部であるとするのが定数である。

このことは『正和合大怛特羅』(Sampuṭatantra, DK381)で、

互いに微笑みかけ 視つめ合う
触れ合い抱き合い 交じり合う
この四種類の関係性に基づいて
寄生する虫の如く四部の怛特羅がある

と説かれる通りなのである。

(下部怛特羅にも共通する名称とその意味による説明)

このような貪欲を道へと転化する方法である空と本尊瑜伽の両者を現証することが灌浴などの外部の非常に多くの所作に依存しなくてはならないのは作怛特羅である。外部の所作にはそれほど多く依存する必要もなく、内部の所作と内部の禅定とに同じ比率で依存するものが行怛特羅である。外部の所作に若干依存するが、基本的に瑜伽を主軸とするのが瑜伽怛特羅である。この瑜伽よりもさらに上位の次第をもたないものであるから無上瑜伽怛特羅なのである、とこのように言われている。すなわち四種類の所化の能力の次第に対応し、貪欲を道へ転化する道を心相続に起させる手法の説明の仕方が異なる四つのものがあることで、怛特羅部は四つへと分類することができるのである。

秘密集会

1 『怛特羅部総規定』(『サキャ全書』デルゲ版 Ga, 27b1-4)この見解はソナム・ツェモによれば『真実摂経』に依拠しスブーティパーリタ(Subhūtipālita)やアーナンダガルバ(Ānandagarbha)の説であると言われる。外道の四種の悪行に入っている者がいるのでそれを摂取するために四部の怛特羅が説かれるとする説である。
2 この学説は『怛特羅部総規定』(『サキャ全書』デルゲ版 Ga, 30b4-31b5)に「以上のように先師たちは説いている」として紹介されている学説を記述する部分の要約であり、先の学説が外教徒の四悪行を行じている者を摂取するためであったのに対して、仏教における四大学説論者の違いに四部怛特羅の分類の根拠を求める学説である。

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