2021.06.10
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

声聞蔵・菩薩蔵/小乗蔵・大乗蔵とは

釈尊の行状とその教法(23):所化による分類(1)
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

三蔵と二蔵

釈尊が説かれた仏説・正法を教化の対象となる弟子・所化の観点で分類すれば、声聞蔵と大乗蔵の二つにに分類することができる。声聞蔵とは、こじんまりとした小規模のものを好む傾向をもつ人々に対して貪欲を離れるための活動を教えたものであるとされるものである。これに対し壮大で、かつ大規模なものを好む傾向のある人を対象として説かれているものが、大乗蔵と呼ばれるものである。この仏説には教化する対象の相違によって、声聞蔵・大乗蔵があるということになる。このことについて『大乗荘厳経論』(XI)では、

〔蔵(piṭaka)とは、経・律・論の三蔵、〕もしくは〔声聞乗・菩薩蔵の〕二蔵のことである(1)MSA.XI.1: paṭikatrayaṃ dvayaṃ vā

MSA.XI.1

とあり、『大乗荘厳経論釈』でも

この三蔵も劣乗蔵・最勝乗の違いにより二つある。すなわち声聞蔵・菩薩蔵である(2)MSABh: piṭakatrayaṃ sūtravinayābhidharmāḥ / tad eva tarayaṃ hīnayānāgrayānabhedena dvayaṃ bhavati / śrāvakapiṭakaṃ bodhisatvapiṭakaṃ ca /

XIX.59-60

と説かれている。

小乗・大乗の相違点

教化対象とされた者としては、自分だけのために、小規模な目的である輪廻からの解脱、という単なる苦しみの止滅状態の境地を目的として追い求める人々が、解脱を実現するために実践し、それによって獲得しようとする境地へと至るための道、これを「劣乗」「小乗」(hīnayānā)といい、それを表現対象として表現するものの総体のことを「小乗蔵」という。

これに対して教化対象とされた者としては、最勝なる目的である仏の境地を追及する人々が、実現すべき無上菩提を得るために実践すべきその境地に至るための道のことを「大乗」というおであり、これを表現対象として教示している表現のことをその総体を「大乗蔵」という。

「大乗」というのは「小乗」に比べ、より規模の大きなものであり、その大きさとは七種類の点で規模が大きいということができる。これについては『大乗荘厳経論釈』(MSA.XIX.59-60)でも

所縁がより広大であり、広大なものを実現しようとし、
智慧も広大で、精進も広大で、広大な方便に通暁する。
正しい成就も広大であり、仏の活動も広大である。
これら広大なものであるので「大乗」というのである(3)MSA,XIX 59-60: ālambanamahatvaṃ ca pratipatter dvayos tathā / jñānasya vīryārambhasya upāye kauśalasya ca // udāgamamahatvaṃ ca mahatvaṃ buddhakarmaṇaḥ / etanmahatvayogād dhi mahāyānaṃ nirucyate //

XIX.59-60

これに対するヴァスバンドゥの『大乗荘厳経論釈』では、

七つのより広大なものを有するものであるので「大乗」と表現するのである。「所縁がより広大である」というのは、それらに関して言及する経典なども計り知れないほど広大な法があるからである。また「広大なものを実現しようとしている」というのは、自分自身が目的としていること(自利)だけではなく、他者が目的としているものも、両方ともを実現しようとしているからである。「智慧も広大である」というのは、証解を得るときにも人無我だけではなく、法無我をも証解するからである。「精進も広大である」というのは、三阿僧祇劫にわたって、常に畏敬の念をもちながら修行に励まなければならないからである。「広大な方便に通暁する」というのは、輪廻を決して見捨てることもなく、しかもそれに対する煩悩も無いからである。「正しい成就も広大である」ということは十力や四無畏といった仏の不共法を正しく成就しているからである。「仏の活動も広大である」というのは、何度でも何度でも繰り返し常に現等覚したり涅槃し教示するからである(4)MSABh.XIX.59-60.1:saptavidhamahatvayogān mahāyānam ity ucyate / ālambanamahatvenāpramāṇa-vistīrṇasūtrādidharmayogāt / pratipattimahatvena dvayoḥ pratipatteḥ svārthe parārthe ca / jñānamahatvato dvayor jñānātpudgalanairātmyasya dharmanairātmyasya ca prativedhakāle / vīryārambhamahatvena trīṇi kalpāsaṃkhyeyāni sātatyasatkṛtyaprayogāt / upāyakauśalyamahatvena saṃsārāparityāgāsaṃkleśataḥ / samudāgamamahatvena balavaiśāradyāveṇikabuddhadharmasamudāgamāt / buddhakarmamahatvena ca punaḥ punar abhisaṃbodhi-mahāparinirvāṇasaṃdarśanataḥ /

MSABh.XIX.59-60.1

と説かれているのである。

この「大乗」に比較して「小乗」や「劣乗」と呼ばれるのは、何故なのか、といえば、それが大乗のような七種類の広大さをもたないからであり、輪廻たる有や寂静へと堕ちてしまい、証解しても劣った部分があり、内外の摂取者をもつこともなく、所知障への対治としては不足分があり、教誡を縁として菩提へと至り偉大なる所化となることから退いており、断じているものもほんの一部分に過ぎず、預流向などの異なった様々な証解があるだけで自利にのみ住し、利他行へと向かうことに無関心であるからである。このことを『現観荘厳論』(V k.10-11)では

有や寂静へと堕ちていて証解は劣っている。
摂取者も居ないし道の内容も不完全である。
他の縁により赴き、所化からは退いており、
一部のみで様々で住し向かうことには疎い。(5)AA, V k.10-11: bhavaśāntiprapātitvāt nyūnatve ‘dhigamasya ca, parigrahasyābhāve ca vaikalye pratipaṃ gate.parapratyayagāmitve samuddeśenivartane, prādeśikatve nānātve sthānaprasthānamohayoḥ.

AA, V k.10-11

と説かれているのである。

一切衆生のために千手千眼の姿を示される観音菩薩は如来の大悲心が示現したものである

1 MSA.XI.1: paṭikatrayaṃ dvayaṃ vā
2 MSABh: piṭakatrayaṃ sūtravinayābhidharmāḥ / tad eva tarayaṃ hīnayānāgrayānabhedena dvayaṃ bhavati / śrāvakapiṭakaṃ bodhisatvapiṭakaṃ ca /
3 MSA,XIX 59-60: ālambanamahatvaṃ ca pratipatter dvayos tathā / jñānasya vīryārambhasya upāye kauśalasya ca // udāgamamahatvaṃ ca mahatvaṃ buddhakarmaṇaḥ / etanmahatvayogād dhi mahāyānaṃ nirucyate //
4 MSABh.XIX.59-60.1:saptavidhamahatvayogān mahāyānam ity ucyate / ālambanamahatvenāpramāṇa-vistīrṇasūtrādidharmayogāt / pratipattimahatvena dvayoḥ pratipatteḥ svārthe parārthe ca / jñānamahatvato dvayor jñānātpudgalanairātmyasya dharmanairātmyasya ca prativedhakāle / vīryārambhamahatvena trīṇi kalpāsaṃkhyeyāni sātatyasatkṛtyaprayogāt / upāyakauśalyamahatvena saṃsārāparityāgāsaṃkleśataḥ / samudāgamamahatvena balavaiśāradyāveṇikabuddhadharmasamudāgamāt / buddhakarmamahatvena ca punaḥ punar abhisaṃbodhi-mahāparinirvāṇasaṃdarśanataḥ /
5 AA, V k.10-11: bhavaśāntiprapātitvāt nyūnatve ‘dhigamasya ca, parigrahasyābhāve ca vaikalye pratipaṃ gate.parapratyayagāmitve samuddeśenivartane, prādeśikatve nānātve sthānaprasthānamohayoḥ.

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