2021.06.06
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

釈尊のことばがもつ十二種類の表現形式

サカダワ大祭・釈尊の教法:『チョーネ版大蔵経論疏部目録・如意宝蔓』十二分教
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

釈尊の説かれたことばをその芳醇な表現形式で分類すると、それは十二の部分より成り、これを「十二分教・十二部教」という。これは、ラトナーカラシャーンティ『八千頌註・最勝心髄』で「契経(सूर्त མདོའི་སྡེ།)・応頌(गेय དབྱངས་ཀྱིས་བསྙད་པའི་སྡེ།)・記別(व्याकरण ལུང་དུ་བསྟན་པའི་སྡེ།)・諷偈(गाथा ཚིགས་སུ་བཅད་པའི་སྡེ།)・自説(ऊदान ཆེད་དུ་བརྗོད་པའི་སྡེ།)・縁起(निदान གླེང་གཞིའི་སྡེ།)・譬喩(आवदान རྟོགས་པ་བརྗོད་པའི་སྡེ།)・本事(དེ་ལྟ་བུ་བྱུང་བའི་སྡེ། ईतिवृत्तक/वृत्तं)・本生(जातक སྐྱེས་པའི་རབས་ཀྱི་སྡེ།)・方広(वैपुल्य ཤིན་ཏུ་རྒྱས་པའི་སྡེ།)・希法(आद्भुताधर्म རྨད་དུ་བྱུང་བའི་སྡེ།)・論議(ऊपदेश གཏན་ལ་ཕབ་པར་བསྟན་པའི་སྡེ། )というこれらのことである(1)」と列挙される通りである。

契経とは

まず「修多羅」「契経」(सूर्त མདོའི་སྡེ།)とは、釈尊が良き影響が生み出されることを考慮した上で、説かれる内容を簡潔に明快な論理に基づいた、韻律のない直截的な表現で記述した命題表現の文章を指している。これについてアサンガの『阿毘達磨集論』では次のように説かれている。

契経とは何か、といえば、如来が十の良き影響をもたらすことを意図されながら、つらつらと簡略なかたちで語られたおことばのことである。

それらのことばがもたらす良い影響とは何か、といえば、まずはそれを語る側にとっても聞く側にとっても、想像しやすく思索して構造化しやすいものである。そしてそれを話す時にも説明がしやすいものである。また聞く側にとっても自分たちの心に留め暗記し、記憶に残しやすいものである。(以上の三つがことばのもつ影響力である)

また語られている出世間の法に対して、畏敬の念を抱くことで資糧を積むことができ、空性を簡略に示すので、時を経ないでそれを修習をする時にも法性が理解できるようになる。さらに仏のことをよく理解した上で信心を得ることになるものであり、法や僧伽に対しても、それがどうのようなものかよく理解した上で信心を得ることになるものである。(以上の五つが出世間の法に対する影響)

また自分自身の問題として考え、今生の人生において身体的・精神的な安心感や安堵感をもたらしてくれ、格言や箴言としてその内容を確信することで賢者たちにも歓迎され聡明な知者のひとりになれるようにしてくれるもののことである。(2)(以上が現世利益としての影響)

また『瑜伽師地論・声聞地』でも、

世尊が〝これらはこれである〟と教えられる戒律に関するものをはじめとして、私たちの肉体と精神を構成している五蘊に関する一連の表現、私たちが対象としているものとそれを知るための十二処に関する一連の表現、私たちが輪廻に転生し輪廻からの解脱のプロセスである十二縁起に関する一連の表現、私たちが生命を維持するために享受している食に関する一連の表現、私たちがこの苦しみから逃れるために知るべき聖者にとっての真実に関する一連の表現、すべての煩悩や清浄なる法が起こってくる起源となっている十八界に関する一連の表現、声聞・独覚・如来に関する一連の表現、精神の集中状態を維持できる念住と煩悩の正断に関する一連の表現、超越的能力が発揮できる基盤となる神足に関する一連の表現、五根・五力・菩提支・道支に関する一連の表現、不浄観・出息観・入息観に関する一連の表現、どのようなことを学ぶべきものに関する一連の表現、よく理解をして信心を得るということに関する一連の表現、これらをそれぞれ具体的に事実に即した内容で明確に簡略に記述されている。これらの内容を記憶しその教説が永く継続するために、その意味されたこと自体は善きことであり、大変意義深いことを説かれたのであり、梵行の修行者たちにそれらを知らしめるため、この目的に従って、さまざまな名称からなるもの、名称と名称との関係性をつけた語句としたもの、さらにそれらを命題化して、順序立て整然とした命題として提示し言明としたもの、これらを「契経」と呼ぶのである(3)

と説かれているのである。

応頌とは何か

「祇夜」「応頌」「重頌」(गेय དབྱངས་ཀྱིས་བསྙད་པའི་སྡེ།)とは、契経と呼ばれる文章の途中あるいは末尾部分に挿入され、旋律のある詩歌、あるいは、まだその文章が解釈の余地を残している未了義経であることを表示するために挿入されている詩歌のことである。これについて『声聞地』では「応頌とは何か、といえば、末尾部分に韻律表現をしたもの、あるいは未了義経であることを旋律で宣言して表現しているもののことである(4)」と説かれている。

記別とは何か

「和伽羅」「記別」「授記」(व्याकरण ལུང་དུ་བསྟན་པའི་སྡེ།)とは、優婆塞・優婆夷・外道の遊行者・出家の比丘・比丘尼たちを対象として、彼らの前世や来世を特定する表現、もしくは未了義でないという限定をつけて了義がこれであると密意を表明する表現のことである。これについて『声聞地』では「記別とは何かといえば、声聞がどこから転生していて、どこへと転生していくのかを特定しているものあるいは了義経であるもの、これが記別である(5)。」と説かれている。

諷頌とは何か

「伽陀」「諷頌」「偈頌」(गाथा ཚིགས་སུ་བཅད་པའི་སྡེ།)とは、二句式の韻文から六句式の韻文まで、散文ではない韻律のある表現である。これについて『声聞地』ではまた「諷偈とは何かといえば、押韻のない散文(gadya)でないものであり、二句、三句、四句、五句、六句よりなる偈頌で編まれたもの、これが諷偈である。(6)」と説かれている。二句よりなるものとは、たとえば次のようなものである。

比丘よ これが釈尊である。
寂静にして漏を尽くしている。

三句よりなる偈頌とは、次のようなものである。

ここには 我や有情は無く
命というものも存在しない
この法は原因をもち生じている

四句よりなる偈頌は非常に多くあるが、五句よりなる偈頌とは、たとえば『大乗荘厳経論』(XVI,  k.7:)で、

三つの学処のことを意図され
勝者は六波羅蜜多を説かれている。
初めのもの(戒学処)が〔布施・戒律・忍辱の〕三であり
後ろの〔禅定・般若の〕二つが二種(定学処・慧学処)がある
一つ(精進)は三つすべて(戒学処・定学処・慧学処)に属している(7)

というものがある。六句よりなる偈頌(ślokaḥ ṣaṭpādaḥ)とは『大乗荘厳経論』(XIX, 42)で、

法施と清浄な戒
無生忍を得ていること
大乗に精進し
最後に大悲を具えて住す
知者は智慧こそが 波羅蜜の中心とする(8)

と説かれるもののことである。

自説とは

「優陀那」「自説」(ऊदान ཆེད་དུ་བརྗོད་པའི་སྡེ།)とは、人物名や種族名を特定し直接言及せず、後代の人々のために、勝法の久住を願い、未来において、このような法を教える者がいる、とその法を賛嘆し表現するもののことである。『声聞地』ではこれは「自説とは何かといえば、その人物の名前や種族を特定せず、正法の久住や教説の久住を願って語られているもの、これが自説である。」(9)と説かれている。

縁起とは

「尼陀那」「縁起」「因縁」(निदान གླེང་གཞིའི་སྡེ།)とは、たとえば、陶工の息子ダニカが勝手に国有の災害用に備蓄してある木材を使用してしまったという行動に由来し、贈与されてないものを無断で使用することをを禁じることが不偸盗罪のひとつとして規制されたように、ある特定の人物のために説かれているもの、その堕罪から出離し規制を遵守するように説かれたものことである。『声聞地』ではこれは「人物名や種族名を特定しその者のために説かれているものであり、また戒律に関連するものがある事項を回避し制限し、その因縁をもち説かれている別解脱経、これが因縁である。(10)」と説かれている。

譬喩とは

「阿婆陀那」「譬喩」(आवदान རྟོགས་པ་བརྗོད་པའི་སྡེ།)とは、たとえば、ブラフマダッタの過去世について述べたもののように、理解していない内容のことを譬喩を通じて明確に表現したもののことである。『声聞地』では、「譬喩を使って示したものであり、その譬喩によって譬喩の対象となっているものの性格を明確化したもの、これが譬喩である。(11)」と説かれている。

本事とは

「伊帝曰多伽」「本事」「如是語」(ईतिवृत्तक/वृत्तं དེ་ལྟ་བུ་བྱུང་བའི་སྡེ།)とは何かといえば、『百業経』(Karmaśataka, DK No.030)のように過去世をひとつずつ世代で遡りつつ未来における宿業の変化を予言したもののことであり、『声聞地』では「過去の宿業との関係をについて言及したもの、これが本事である。(12)」と説かれている。

本生とは

「闍多」「本生」(जातक སྐྱེས་པའི་རབས་ཀྱི་སྡེ།)とは何かといえば、菩薩たちが有情を利益するために、世代を超えて、さまざまな偉大な菩薩行を為された様子を説いたもののことである。『声聞地』では「過去の時代において、世尊が死後転生し、これこれこのような生を受けて、菩薩行や苦行をされたことを説いたもの、それが本生である(13)。」と説かれている。

方広とは

「毘仏略」「方広」(वैपुल्य ཤིན་ཏུ་རྒྱས་པའི་སྡེ།)とは、広中略の般若経のことである。何故ならば、それらは一切有情の利益と幸福の源であり、波羅蜜を広大に示すので広闊なものであり、偉大なる力を示すので幅広く広大なものであり、法無我を示すものであるので、甚深なる行相による法を説いている蔵であるからである。これをまた「広破」(vaidalya)ともいう。すべての障害を打ち破るための方法を詳しく語るものであるからである。「無比・無類」ともいう。内容的にもそれに類してそれよりも勝れたものがないからである。『声聞地』では「無常正等覚や十力や無障智を正しく成就させるために菩薩による道が説かれるもの、それが方広である。(14)」と説かれている。

希法とは

「阿浮陀達磨」「希法」「未曾有法」(आद्भूतधर्म རྨད་དུ་བྱུང་བའི་སྡེ།)とは何かといえば、声聞・菩薩・諸仏の稀有にして殊勝なる法を説いているものことである。『声聞地』では「諸仏や仏弟子の声聞たち、比丘たち、比丘尼たち、式叉摩那たち、沙弥たち、沙弥尼たち、優婆塞たち、優婆夷たちに共通する功徳、それぞれの独自の殊勝な功徳とそしてその稀有なる奇蹟と呼ばれているものを説いているもの、それが希法である(15)。」と説かれている。

論議とは

「優婆提舎」「論議」(ऊपदेश གཏན་ལ་ཕབ་པར་བསྟན་པའི་སྡེ། )とは諸法の自相・共相を広大に表現するもののことである。これについて『声聞地』では「契経を解析し、解釈するための母のような存在である、すべての阿毘達磨、これが論議である。(16)」と説かれている。

十二分教と三蔵

十二分教は、三蔵に帰属させることが可能である。最初の五分、すなわち、契経・応頌・記別・諷頌・自説は、声聞の経蔵であり、縁起・譬喩・本事・本生の四分は、律蔵であり、これには大乗の律蔵と小乗の律蔵との両方の律蔵がある。方広・希法の二分は大乗の経蔵である。論議は大乗・小乗の論蔵であり、この十二部教を三蔵へと帰属させる形式は、『阿毘達磨集論』に準拠するものである。これに対し『声聞地』にでは、契経・応頌・記別・諷頌・自説までの五分と譬喩・本事・本生・方広・希法の五分との合計十分が経蔵であり、縁起は律蔵であり、論議が論蔵ということになる。

1 Sāratamā I, 2 (TSWS, 18): sūtraṃ geyaṃ vyākaraṇaṃ gāthā udānaṃ nidānaṃ avadānaṃ itivṛttakaṃ jātakaṃ vaipulyaṃ adbhutā dharmāḥ upadeśāśceti.
2 ここの部分はギャルツァプジェの注釈を補って訳出した。AS, 112-113: sūtraṃ katamat / yadabhipretārthaṃ sūcanākāreṇa gadyabhāṣitam / daśānuśaṃsān saṃpaśyan tathāgataḥ sūcanākāreṇa dharmaṃ deśayati sukhaṃ vyavasthāpayati sukhaṃ deśayati / śrotāpi sukhamudgṛṇhāti dharmagauravatayā kṣipraṃ bodhi saṃbhārān paripūrayati āśudharmatāṃ pratividhyati / buddhe ‘vetyaprasādaṃ labhate dharme saṃghe cāvetya prasādaṃ labhate / paramadṛṣṭadharmasukhavihāraṃ spṛśati / sāṃkathyaviniścayena satāṃ cittamārādhayati / paṇḍitaḥ paṇḍita iti saṃkhyāṃ gacchati // 何等契經。謂以長行綴緝略説所應説義。如來觀察十種勝利。 緝綴長行略説諸法。謂易可建立。易可宣説。易可 受持。恭敬法故。菩提資糧速得圓滿。速能通逹諸法實性。於諸佛所得證淨信。於法僧所得證淨信。觸 證第一現法樂住。談論決擇悦智者心。得預聰明英叡者數
3 Śrāvakabhūmi: tatra sūtraṃ katamat, yattatra tatra bhagavatā tāṃstān (tāni tāni) vineyācaritāni cārabhya skandhapratisaṃyuktā vā kathā kṛtā, dhātupratisaṃyuktāvā kathā kṛtā, dhātusaṃgaṇasaṃyuktā vā, āyatanapratisaṃyuktā vā, pratītyasamutpādapratisaṃyuktā vā, āhārasatyasthiti [prati]saṃyuktā vā,śrāvakapratyekabuddhatathāgatapratisaṃyuktā vā, smṛtyupasthānasamyakprahāṇadhi(rdhi)pādendriyabala-bodhyaṃgamārgāṃgapratisaṃyuktā, aśubhā, ānāpānasmṛtiśikṣāvetyaprasādapratisaṃyuktā kathā kṛtā [,] sā ca kathā saṃgītikāraiḥ parigṛhya śāsanacirasthitaye, yathā yogamanupūrveṇa racitā, anupūrveṇa samāyuktā , pratirūpair-nāmakāyapadavyaṃjanakāyairyaduta teṣāṃ teṣāmarthānāṃ sūcanāyai (śbh_sh: 137) kuśalānāmarthopasaṃhitānāṃ buddhacaryopasaṃhitānāmidamucyate sūtraṃ [.] 云何契經。謂薄伽梵於彼彼方所。爲彼彼所化有情。依彼彼所化諸行差別。宣説無量蘊相應語處相應語。縁起相應語。食相應語。諦相應語界相應語。聲聞乘相應語獨覺乘相應語。知來乘相應語念住正斷神足根力覺支道支等相應語。不淨息念諸學證淨等相應語。結集如來正法藏者。攝聚如是種種聖語。爲令聖教久住世故。以諸美妙名句文身。如其所應次第安布次第結集。謂能貫穿縫綴種種能引義利。能引梵行。眞善妙義。是名契經。
4 Śrāvakabhūmi: geyaṃ katamat | yasyānte paryavasāne gāthā abhigītā, yacca sūtraṃ neyārthamidamucyate [geyaṃ] | 云何應頌。謂於中間或於最後宣説伽他。或復宣説未了義經。
5 Śrāvakabhūmi: vyākaraṇaṃ katamat, yasmiṃchrāvake (yasmiñchrāvake)bhyo [a]bhyatītakālagato (tau)upapattau vyākriyate, yacca sūtraṃ nītārthamidamucyate, vyākaraṇaṃ. 云何記別。謂於是中記別弟子命過已後當生等事。或復宣説已了義經。是名記別。
6 Śrāvakabhūmi: gāthā katamā, yā na gadyena bhāṣitā, apitu pādopanibandhena dvipadā vā, tripadā vā, catuṣpadā vā, paṃcapadā vā, ṣaṭpadā vā iyamucyate gāthā. 云何諷頌。謂非直説是結句説。或作二句或作三句或作四句或作五句或作六句等。是名諷頌。
7 MSA XVI, k.7: śikṣātrayamadhikṛtya ca ṣaṣṭ pāramitā jinaiḥ samākhyātāḥ. ādyā tisro dvedhā antyadvayatastisṛṣvekā. 『大乘莊嚴經論』大正Vol. 31 no. 1604, 628a: 爲攝三學故。説度有六種。初三二初一。後二二一三。
8 MSA XIX, k.42: dharmadānaṃ śīlaśuddhir notpattikṣāntireva ca. vīryārambho mahāyāne antyā sakaruṇā sthitiḥ. prajñā pāramitānāṃ ca. pradhānaṃ dhīmatāṃ matam. 『大乘莊嚴經論』大正Vol. 31 no. 1604, 0652c:法施及聖戒。無生起大乘。定悲如實智。六行此爲勝。
9, 10 Śrāvakabhūmi: udānā katamā, yatpudgalasya nāma gotramaparikīrtayitvā (kīrttya), uddiśya bhāṣitamāyatyāmvā saddharmasthitaye, śāsanasthitaye ca, iyamucyate udānā. 云何自説。謂於是中不顯能請補特伽羅名字種姓。爲令當來正法久住聖教久住。不請而説。是名自説。
11 Śrāvakabhūmi: avadānaṃ katamat, yatsadṛṣṭāntakamudāhataṃ, yena dṛṣṭāntena yasya prakṛtasyārthasya vyavadānaṃ bhavatīdamucyate, avadānaṃ.云何譬喩。謂於是中有譬喩説。由譬喩故本義明淨。是名譬喩。
12 Śrāvakabhūmi: vṛttaṃ katamat, yatkiṃcitpūrvayogapratisaṃyuktamidamucyate vṛttakaṃ. 云何本事。謂諸所有宿世相應事義言教。是名本事。
13 Śrāvakabhūmi: jātakaṃ katamat, yadatītamadhvānamupādāya tatra tatra bhagavataḥ cyutyupapādeṣu bodhisattvacaryā duṣkaracaryā, ākhyātā, idamucyate jātakaṃ.云何本生。謂於是中宣説世尊在過去世彼彼方分。若死若生行菩薩行行難行行。是名本生。
14 Śrāvakabhūmi: vaipulyaṃ katamat | yatra bodhisattvānāṃ mārgo deśyate | anuttarāyai samyak saṃbodhaye | daśabalānāvaraṇajñānasamudāgamāya [|] idamucyate vaipulyaṃ || 云何方廣。謂於是中廣説一切諸菩薩道。爲令修證阿耨多羅三藐三菩提十力無畏無障智等一切功徳。是名方廣。
15 Śrāvakabhūmi: adbhutādharmāḥ katame, yatra buddhānāñca, buddhaśrāvakāṇāṃ ca, bhikṣūṇāñca, bhikṣuṇīnāñca, śikṣamāṇānāṃ, śrāmaṇekī(rī)ṇāmupāsikānāṃ, sādhāraṇāsādhāraṇāśca tadanyaprativiśiṣṭāścāścaryādbhutasammatā guṇaviśeṣā ākhyātā ime ucyante adbhutā dharmāḥ. 云何希法。謂於是中宣説諸佛諸佛弟子。比丘比丘尼。式叉摩那。勞策男勞策女。近事男近事女等。若共不共勝於其餘勝諸世間。同意所許甚奇希有最勝功徳。是名希法。
16 Śrāvakabhūmi: upadeśāḥ katame. sarvamātṛkā abhidharmaḥ sūtrāntaniṣkarṣaḥ. sūtrāntavyākhyānamupadeśa ityucyate. 云何論議。所謂一切摩呾履迦阿毘達磨。研究甚深素呾纜義。宣暢一切契經宗要。是名論議。

RELATED POSTS