2021.05.31
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

了義経と未了義経/経律論の三蔵とは

サカダワ大祭・釈尊の教法:『チョーネ版大蔵経論疏部目録・如意宝蔓』了義経・未了義経と三蔵
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

釈尊が説かれたものを、それが一体何について説いたものなのか、という表現対象で分類すると世俗諦・勝義諦のどちらを説いているのか、という観点で未了義経・了義経の二つに分類することが可能である。また私たちが解脱や涅槃を得るために身につけるべき戒定慧のどれについて説いているのか、という観点で分類すれば、律蔵・経蔵・論蔵という三蔵となる。

未了義経・了義経

如来の正法のうち、世俗諦を中心的に説くものが「未了義経」(नेयार्थसूत्रान्त)と呼ばれ、勝義諦を中心的に説くものが「了義経」(नीतारथसूत्रान्त)である。このことは『無尽慧菩薩所説経』(अक्षयमतिर्देशसूत्र)で次のように説かれる。

了義の経典とは一体何であり、未了義の経典とは一体何か。どのような経典であれ、世俗を説くもの、それらは未了義といわれる。どのような経典であれ、勝義を説くもの、それらは了義といわれる(1)

また『月灯三昧王経』でも、

空を善逝が説かれた通りに
了義の経部の特性を知る。
有情や人や生物を説く
一切法は未了義であると知る。(2)

と説かれるのである。

三蔵とは何か

それでは二諦を表現対象として分類するのではなく、釈尊の教えで私たちが身につけるべき戒律・禅定・智慧の三学処を通じて律蔵・経蔵・論蔵という三蔵に仏説を分類する形式について考えてみよう。まずは「三蔵」(त्रिपिटक)とは何か、という三蔵の定義を確認したい。

「三蔵」の定義を確認したい。まず殊勝なる禅定学処を表現対象の中心としているものが「経部蔵」「経蔵」(सूत्रपिटक, མདོ་སྡེའི་སྡེ་སྣོད།)の定義である。殊勝なる戒律学処を表現対象の中心としているものが「律蔵」(विनयपिटक, འདུལ་བའི་སྡེ་སྣོད།)の定義である。勝なる智慧学処を表現対象の中心としているものが「論蔵」(आभिधर्मपिटक, མངོན་པའི་སྡེ་སྣོད།)の定義である。

これらの定義によって具体的に経蔵・律蔵・論蔵と呼ばれる仏典には如何なるものがあるか、といえば、分かりやすい例としては、経蔵としては般若経が挙げられ、律蔵としては『律本事』などがあげられ、論蔵としては『阿毘達磨大毘婆沙論』などの七部の阿毘達磨文献である。

三蔵の語義

それではこれらを何故「蔵」(पिटक)というか、というと、サンスクリット語でこれらは「ピタカ」(पिटक)という言葉で表現され、「ピタカ」とは、様々な種が一緒に入っている鞘や秤などについている籠のようなもののことを表している。大きな籠のなかに小さな塊をたくさん入れることができるように、これらの「蔵」の中に、さまざまに多くの内容や学ぶべきことを纏めておくので、これらを「ピタカ」と表現するのである。

それでは「経蔵」「律蔵」「論蔵」という個々の名称の意味を説明しよう。

まず「経」であるが、「経」とは「スートラ」(सूत्र)の訳語であり、「スートラ」とは「出処・拠所」「特徴・特相」「法」「意図」という四つの意味がある。そして経が特定の国や地域や人物などの、その法が発生した時の要因となっている背景を表示することから「出処・拠所」を述べるので「経」なのである。また「経」では、依他起性・円成実性・遍計所執性というこの三つの特徴・特相によって、三無自性などを経典が表示するので「特徴」を述べるものという意味で「経」である。また五蘊・十二処・十八界であり、それら「法」を表示するので「経」なのである。また釈尊が意図した対象である甚深義を表示し「意図」を述べるので「経」である。これらを「部」というセクションごとに集積したものであることから「経部」とも表現する。これらの「経」の語釈は、弥勒の『大乗荘厳経論』で「所依や相や法や義を語っていることから経なのである(3)」(XI 3ab)と説かれているものである。

次に「論」であるが、「論」の原語はabhidharmaで、abhiという接頭辞は「現前化するもの」「繰り返し説くもの」「圧倒的で超越的なもの」「証解であるもの」という四つの意味をもち、adhiというが接頭辞のついた「法」のことをabhidharmaという。現前化するものであるというのは、それらが涅槃を現前化している、すなわち煩悩を超克した状態のものを常時志向してそれを直観している、ということである。繰り返し説くものというのは、それらが五蘊・十二処・十八界などを実体有・仮設有などの数多くの様々な側面から繰り返し説明するものであるからである。圧倒的で超越的というのは、論拠や正当性のある納得できる文体で悪しき反論を払拭しているからである。証解であるというのは、それらが一切のあらゆる知るべきものの実体・仮設などの様々な差異を明確に確定して理解しているからである。こうした「論」の語釈についても『大乗荘厳経論』で「現前化し、繰り返し、圧倒的で、証解であるので阿毘達磨である(4)」(XI 3cd)と説かれている。

次に「律」(विनय)であるが、この「ヴィナヤ」(विनय)という言葉は、「堕罪を示すもの」すなわち何が罪になのかということを示すものであり、「起因を示すもの」罪が起こっている要因を示すものであり、「浄化を示すもの」罪を浄化するための方法を示すものであり、「出離を示すもの」堕罪を克服した状態を示すので「ヴィナヤ」と呼ばれるのである。これについても『大乗荘厳経論』「堕罪と起因と浄化と出離であるから、あるいは人や制令や分別や決定によるものであるので律である。(5)」(XI 4)と説かれている。

三蔵に関する三つの観点と論拠

釈尊の正法が表現している内容を三つの蔵へと分けることは、正当な九つの理由によっている。それは所断の観点で三つがあり、所学の観点で三つがあり、所知の観点で三つがある。

まず所断の観点から考えてみるならば、そもそも解脱を獲得するために障害となるものの中心となるものは何だろうか。まずは(1)真実などに対する疑念が挙げられる。そして(2)誤った修行、すなわち正しくないことを正しいものとして実行し、正しいものを正しくないものとして実践する修行を次に挙げることができる。そしてまた(3)間違った見解や悪しき見解に固執していることもまた解脱を獲得するための妨げである。この(1)に対する対治としてまとまられたものが「経蔵」である。何故ならば、それは事物を確定することによって、真実などについての疑念を抱くことを払拭させるものであるからである。また(2)に対する対治としてまとめられるものが「律蔵」である。何故ならば、それに基づいて禁止されている所学を実践することによって、欲望の対象を托鉢によって得るという誤りを排除し、許可されている所学を実践することで享楽的な暮らしをしたり苦行をするといった誤りを排除しているからである。また(3)に対する対治としてまとめられているものが「論蔵」である。何故ならば、そこでは人我執・法我執の二つのが件を断じるための方法を広大に示しているからである。

次に、所学の観点で何故三蔵とするのか、といえば、「経蔵」は三学処の本質を確定するものである。「律蔵」は二学処を成就するものである。直接的には戒学処を成就し、間接的に定学処を成就するものであるからである。「論蔵」は慧学処を成就するものである。何故ならば、諸法を正しく弁別するための力を広大に示すものであるからである。

また所知の観点で何故三蔵とするのか、といえば、「経蔵」とは法とその内容を解説するものであるからであり、「律蔵」は法とその内容を実践して成就するものであるからであり、「論蔵」は法とその内容に対する解釈を確定するものであるからである。

以上の三蔵に関する記述は、『大乗荘厳経論』とその注釈書で説かれるものに準拠している。

本テキストの『チョネ版チベット大蔵経・論疏部目録』の表紙には釈尊・龍樹・無着・ツォンカパの肖像が描かれている。

訳者による二諦についての補足説明

クンケン・ジクメワンポの説明は以上であるが、最後に訳者の補足説明を記しておきたい。

まず、ここで如来の正法を勝義諦・世俗諦のどちらを説いているのか、ということによって了義経・未了義経の二つに分類することができ、そのうち世俗諦を中心的に説いているものが「未了義経」と呼ばれ、勝義諦を中心的に説いているものが「了義経」である、としているが、この了義・未了義とは、表現されている言葉通りのもので如来の言葉の意図を再解釈する必要がないものを「了義」(नीतार्थ)といい、如来の言葉の意図を再解釈し言葉通りではない別の意味内容を想定しなければならないものを「未了義」(नेयार्थ)という。

「経部」(sūtrānta)とは何かということについては、次のところで説明されているので、ここでは、勝義諦・世俗諦という二諦について説明しておこう。

すべての現象は、私たちすべての衆生に共通している通常の知に現れている通りに存在しているものか、そうではなく現れている通りには存在していないものなのか、のいずれかのものしかない。このうち前者の現れている通りに存在しているもののことを「勝義諦」(परमार्थसत्य)といい、後者のそうではないもののことを「世俗諦」(संवृत्तिसत्य)といい、この二つの真実を「二諦」(सत्यद्वय)と呼んでいる。

具体的な現象のうちの何が二諦のどちらに当てはまるのか、ということについては、通常の私たちが持っている知が対象をどのように認識しているのか、ということをどう考えるのか、ということによって違いがあり、それによって何を勝義諦とし、何を世俗諦とするのか、ということについては、毘婆沙部・経量部・唯識派・中観派という仏教の四大学派によって解釈の相違があるが、二諦が対象それ自体の分類であることについてはすべての学派が一致している。

二諦は一切法の分類であり、それは現代の言葉でいえば、事実・実質・真理にあたるものが勝義諦であり、通念・現象・みため・みせかけにあたるものが世俗諦である。二諦とは二つの真実という意味であるが、勝義諦・世俗諦は、真実と虚構にあたるものであり、そもそも真実や事実が二種類あるというものではない。

ここでクンケン・ジクメワンポがあげる勝義諦・世俗諦を表現対象とするものを了義経・未了義経と分類しているのは、『無尽慧菩薩所説経』のこの記述に準拠している中観派の伝統的な解釈であるが、先の『解深密経』所説の三転法輪と組み合わせて、初転法輪・中転法輪を未了義経として、後転法輪を了義経とする『解深密経』に準拠した了義・未了義の判別方法は唯識派の伝統的な解釈であるが、ここでは、中観派の伝統的な解釈をもっとも権威のある標準的な解釈として提示している。

以上、クンケン・ジクメワンポの説明に対し若干訳者による補足をさせていただいたが、これらの問題については特にジェ・ツォンカパの『了義未了義判別論・善説心髄』やケードゥプジェの『千薬大論』やクンケン・ジャムヤンシェーパの『学説大論』『了義未了義大論』『現観荘厳論考究』やクンケン・ジクメワンポの『学説規定』で詳細に議論が展開され、非常に哲学的で論理的な議論が展開され実に素晴らしいものである。それらの内容は現在の様々な問題が終息した後に、ふたたびデプン・ゴマン学堂のゲシェーたちによって解説していただきたいと思う。

1 Cf. Prasannapadā: uktaṃ cāryākṣayamatisūtre, katame sūtrāntā neyārthāḥ katame nītārthāḥ. ye sūtrāntā mārgāvatārāya nirdiṣṭā ima ucyante neyārthāḥ, ye sūtrāntāḥ phalāvatārāya nirdiṣṭā ima ucyante nītārthāḥ. yāvad ye sūtrāntāḥ śūnyatānimittāpraṇihitānabhisaṃskārājñānānutpādābhāva (nirātma) niḥsattvanirjīva-niḥpudgalāsvāmikavimokṣamukhā nirdiṣṭāḥ, ta ucyante nītārthāḥ, iyam ucyate bhadanta śāradvatīputra nītārthasūtrāntapratiśaraṇatā, na neyārtha(sūtrānta)pratiśaraṇatā, iti.
2 Samādhirāja, 3.5: nītārthasūtrāntaviśeṣa jānati yathopadiṣṭā sugatena śūnyatā, yāsmin punaḥ pudgala sattva pūruṣo neyārthatāṃ jānati sarvadharmān.
3 SA, XI 3ab: āśrayato lakṣaṇato dharmād arthāc ca sūcanāt sūtram. 『大乘莊嚴經論』 (Taisho No. 1604): 依故及相故、法故及義故、如是四種義、是説多羅義。
4 MSA, XI 3cd: abhimukhato ‘thābhīkṣṇyād abhibhavagatito ‘bhidharmaś ca.『大乘莊嚴經論』 (Taisho No. 1604): 對故及數故、伏故及解故、如是四種義、是説毘曇義。
5 MSA, XI 4: āpatter utthānādvyutthānānniḥsṛteś ca vinayatvaṃ, pudgalataḥ prajñapteḥ pravibhāgaviniścayāccaiva. 『大乘莊嚴經論』 (Taisho No. 1604): 罪起淨出故、人制解判故、四義復四義、是説毘尼義。

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