2021.05.17
སྟོན་པའི་མཛད་རྣམ་སྙིང་བསྡུས།

降誕

釈尊の行状(6):大地を七歩歩かれて「わたしはこの世間で最勝なる者である」と説かれた方
訳・文:野村正次郎

釈尊は兜率天より母君である摩耶夫人の胎内の宮殿に十ヶ月間おられたが、兜率天から白象の姿で右腋の下から入られたその時すぐに生後六ヶ月程度の姿へと変化された。これは通常の一般の結生相続の過程はスキップしたということであり、通常胎生の衆生であれば母胎に結生相続してから徐々に眼や耳や手足などができていく生有いう過程が数ヶ月間あるが、釈尊はこれをとばし、入胎した直後に仏の相好を備えた生後六ヶ月の姿となられた。

摩耶夫人はその後十ヶ月間カピラヴァストゥの宮殿で過ごされた。如来の誕生の時は近くなり、当時の王室は御産の際には実家へと戻る習慣もあったので、実家の国のルンビニーの苑にて出産されようと考えられた。このことが決まると摩耶夫人の父善覚王と浄飯王の二人は、カピラヴァストゥからルンビニーをまず清掃してご出産のための美しい小宮殿を共同で新築させた。次に浄飯王はルンビニーからカピラヴァストゥに至る道を清掃した上で舗装し、その道を香水で浄め、花の道を作り、行幸のための数万人の女性の楽隊を組織した。さらに行幸のための宝石でできた車を何万台も道に配備して、数万人の護衛隊をその道中へと配置し、車も宝石で荘厳するなど、出産へと向かう摩耶夫人の行幸を準備して、準備が整ったので摩耶夫人のご出産のための行幸を開始した。

摩耶夫人の行幸の先導は神々の王である帝釈天が務め、行幸の隊列が通るために道を清掃しながら進んでいった。梵天は摩耶夫人の御輿の脇で大きな団扇で仰ぎながら行進した。善なる方面に従事している無数の神々が摩耶夫人の胎内の宮殿に菩薩がいらっしゃるので瞬きすらせずに凝視し礼拝を捧げた。

摩耶夫人の行幸の一隊がルンビニーの苑に到着すると摩耶夫人は神輿から降りられて、森のなかを歩いて進んで行かれ、樹々をたどってゆき、すこし広らけた場所でどの草も触ると心地よい場所へと向かわれて、一本の樹の前に立ち止まられた。この樹は、樹々の王プラクシャと名付けられている樹であり、過去にこの世界に来られた如来の母君たちが出産のために使われたことから、いまも神々たちが礼拝し、木の幹も枝も根も葉も光り輝いており、さらにそれを供養する宝石によって荘厳され、芳しい薫るものであり、さまざまな鮮やかな色の布で覆われていた。

摩耶夫人がこのプラクシャの樹の枝を右手でつかんで空を見上げるとその瞬間完全に無痛で釈尊は右脇から誕生された。すぐに帝釈天と梵天は神々が着用するカーシカと呼ばれる繊維でできている衣で受け止めると同時に二人の龍王が甘露の雨を地上に降らせ、数えきれない無数の神々たちが神々の香水で灌浴した。帝釈天と梵天とが釈尊を天空で抱えていると釈尊は「私を下に降ろしなさい」とおっしゃられ、釈尊は地面に足をつけられて次のように語られた。

東へ向かって「私はすべての善法をまずは先に行おう」とおっしゃられ、南に向かって「私は人間たちが供養する対象となろう」とおっしゃられ、西に向かって「私はこの世間で殊勝な者である。これは私が生を受ける最後であり、生まれること、老いること、死ぬことを克服しよう」とおっしゃられ、北へ向かって「すべての生きとしいけるものなかでこの上ないものとなろう」とおっしゃられ、下へ向かって「魔物たちと魔物たちの軍勢たちは退治することにしよう。地獄の衆生を焼きつくしている業火の炎を消火するために、法の雨を降らせる巨大な雲から雨を降らせて心を癒そう。」とおっしゃられ、上へ向かって「すべての衆生から尊敬されるようにしてやろう」とおっしゃられ、それぞれ七歩ずつ歩かれたのであった。

釈尊の歩まれた七歩ずつのその一歩ずつに蓮華の花が開いた。釈尊の発せられた獅子の王が吼えるように十方に響き渡り、御身から放たれる光は千の太陽が一度に地上を照らすよりも明るくすべての世界を満たし、地下に住んでいる衆生たちをも照らし、地下に住んでいるすべての生き物の苦しみを取り除き、平安をもたらされるものとなった。無辺の天空は神々の供物によって満ち溢れ、ルンビニーの苑の樹木は一斉に開花すると同時に素晴らしい果実が実ることになった。天空からは花が雨のように降ってきて、悪趣の衆生たちの苦しみはすべて癒えて消えてゆき、生まれつき身体的な障害があるものは、その障害がすべてなくなり、大地は揺らぎ地震が起こった。

またこの時同時にシュラーヴァスティ(舎衛城国)にはプラセーナジットが王子として誕生し、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城国)にはビンビサーラが王子として誕生し、コーシャンビー国にはウダヤナが王子として誕生し、オッディヤーナ国にはプラカーシャが王子として誕生し、これらの四人の王子たちは後に王位を継承し釈尊を供養する者となったものたちが揃うことになった。

またカピラヴァストゥでは釈迦族の一族に五百人の新生児が誕生し、その親戚筋には五十万人の新生児が誕生し、侍従となる者は八百人、女性が千人、侍女が八百人、婆羅門と王族の家には二万人の娘が誕生し、後に釈尊が乗られることになる身体が金色で顔が白いカンタカという馬をはじめとして二万頭の馬が誕生し、一万頭の象が誕生し、六先頭の牛も誕生した。

閻浮提の中央である金剛座のある場所には菩提樹が誕生し、須弥山の頂上にある無熱悩池には、優曇華の花が咲き、小さな島には白檀の林ができ、山の上には宝石のなる木が生えて、この釈尊の降誕されたルンビニーの苑には蓮華の形をした宝塔が建立された。カプラヴァストゥの国の周辺にあった小さな国は浄飯王へと降伏し、釈尊が降誕されただけで、その周辺国をすべて浄飯王は統治することができるようになったのである。このようにすべての望むべきもの、なすべきことが釈尊の誕生によって叶ったので浄飯王はこの王子を「目的を達成したもの」(シッダールタ)と命名したのである。

以上が釈尊の降誕の標準的な逸話であるが、この逸話は(1)大地を滑らかにして清めて降誕の道を浄化する(2)出産あるいは降誕は一瞬にして母胎に対しても無痛で終わる(3)降誕された瞬間に神々たちが香水を灌いで沐浴していただく、(4)衆生済度を目的とした降誕の影響によってその場とその場にいる如来の眷属や衆生たちに善にして良き変化をもたらす、という構造になっている。

降誕の逸話と福田の観想

釈尊の降誕の順序は普段我々が朝起きて仏壇を掃除して供物を捧げてそこに如来をお迎えして、礼拝・供養・懺悔・随喜・勧請・祈願・廻向と行う時に礼拝・供養をする際に行っているのと同じ流れである。

その時に唱える偈をこの降誕の逸話と合わせてみるとそれがわかりやすいのでひとつひとつ見てみると、まずは我々が朝起きて礼拝・発心した後に資糧を積集する福田を眼の前の空間に観想し、

一切の大地は浄らかになり
瓦礫等も無くなる
掌の如く滑らかで
瑠璃を本性とし平らとなれ。

と唱えて道場を浄化して、供物を準備して仏前に供えた上で、

天人の供物を直接誂えたもの
心によって作り出したもの
すべての点でよいこの無上なる
供物の雲が空界すべてを満たす

と直接あつらえた供物だけでなく想像して作り出した供物を準備してそれが世界を満たしていることを観想しなくてはならない。その上で本尊と諸尊を本来おられる仏国土から眼前の空間へとお招きして次のように唱える。

残すこともない有情の客人たる御方
悪魔の王とその軍隊を鎮圧し給える神
一切の事象を正しく証解される御方
世尊 眷属よ こちらに降臨し給え

本尊はそれぞれのいらっしゃる場所からお迎えしなくてはならないが、たとえば釈尊であれば、いまは色究竟密厳浄土に戻られているので、そこからということになり、弥勒仏であれば兜率天であり、阿弥陀如来であれば西方極楽浄土であり、薬師如来であれば東方瑠璃光浄土であり、観音菩薩やターラー菩薩であれば補陀落からお越しいただくということになる。如来たちは私たちすべての客人であるので、浄飯王がルンビニーの苑を浄化したのと同じように尖ったものがないように綺麗に片付けてお迎えしなければならない。諸尊がいらっしゃればまずは到着された時に、履物を脱いでいただき旅のお疲れを癒していただくために、次のように灌仏のための宮殿を生起させる。

灌浴する宮殿は至高に薫ってくる
水晶の基礎の輝き眩むほどである
燦然とした妙宝の柱が立っている
真珠で光輝く天蓋で覆われている

この偈はまさに釈尊が降誕されるときに浄飯王と摩耶夫人の父君が建立した降誕のための宮殿と同じようなものを生起させ、私たちも彼らが行ったのと同じようにできる限り美しく素晴らしい宮殿を意識で作り出して諸仏をお迎えするということになる。

降誕し給えるその時すぐに
神々たちが灌沐したごとく
清らかな神々の浴水で
あなたの御身体を私も灌沐せん

と「oṃ sarva tathāgata abhiṣekata samaya śrīye āḥ hūṃ」という真言を唱え灌浴し、灌浴が終わったら、諸尊の身体を拭き、香水をつけ、薄く滑らかで広大なる神々の衣を差し上げて奉納し、そののち五仏の宝冠なども奉納したりする。このときに灌沐のことばとしては釈尊をお迎えする時に最も有名な礼拝・灌沐の偈文として、

福智無比兩足尊 初生即行於七歩    
唱言世間獨爲勝 我於彼時曾致禮

両足の主である君は誕生されたその時に
この大地を七歩歩み給いて説き給われた
「わたしはこの世間で最勝なる者である」と
その時から賢者であられた君を礼拝せん

『父子合集経』

というのがあり、これは釈尊が後に成道し説法遊行をされたのち、父浄飯王と再開した時に浄飯王がかつては自分の息子であったシッダールタ王子がいまは仏陀となっている釈尊を礼拝して述べたものである。

釈尊を礼拝する時に仏の十号を述べた後に、続けてこの偈を読誦しこの最後の「礼拝せん」とそのまま唱えることも多いが、灌仏の際にはここを「灌沐せん」と言い換えたり、供物を捧げる時は「供物を献上します」と言い換えたり、大変有名な偈文であり、この偈文を暗記していない僧侶はすくなくともゲルク派では皆無といってよく、デプン・ゴマン学堂では、一年生の教科書の一番最初のところで習って暗記する偈文であり、「両足の主」とは二足歩行をする人間の支配者であり、中心人物であるあなたは、誕生されたその瞬間に、この娑婆世界の大地の上で、七歩すぐに歩かれて、「わたしはこの世間で最勝なる者である」といったように生まれた瞬間から賢者であったあなたを私は礼拝します、という意味であり、釈尊の誕生の瞬間について釈尊の父君が回想しながら畏敬の念を表明している。

この表現は日本でも「天上天下、唯我独尊」として有名であり、すべての仏教徒にとって極めて有名であり、極めて重要なことばであり、この言葉を正しく理解することは極めて重要であると思われるし、この釈尊の発言の逸話を正しく理解することは最も標準的な仏伝を理解するために不可欠の要素であるのは誰もが理解できることであるが、日本ではさまざまな説明をしているので、どうしたものかと考えて友人の整形外科医と昨晩ゴペル・リンポチェと確認し大変有益な助言をいただいたのでそれを少しだけ紹介しておこう。

この「わたしはこの世間で最勝なる者である」「天上天下、唯我独尊」「私はこの世間で殊勝な者である。」といった表現の違いは別として、釈尊が誕生されてすぐにされた発言がこの世界で自分が最高位のものである、と自分のことについて言及し、また誕生してすぐに七歩歩かれたというのは、すべての仏伝で一致しである。大乗であれ小乗であれ、釈尊が人間としてこの世界に降誕したのは衆生を導くためであり、神ではなく人間として生まれてきたということが重要であり、小乗の仏伝では、菩提樹のもとで現等覚して以降は仏であり、人間ではないがそれ以前は人間であり、大乗の仏伝でも人間であるのは変わりない。それではこれまでの仏伝でなぜ釈尊は生まれ瞬間にそのような発言ができ、七歩直立歩行できた、と考えて納得してきたのか、ということを考えてみよう。

誕生すぐにどうやって直立歩行で七歩歩いたのか

そしてまずはその人間として生まれたその瞬間に七歩歩けるかどうか、という問題を考えてみたい。

直立歩行ができないと考えるのは伝統的に不自然である

ゴペル・リンポチェによれば、釈尊の弟子の舎利弗尊者(シャーリプトラ)や目連(マウドガリヤーヤナ)などは普通の人間であるが非常に高い神通力をもっており、神通第一の目連尊者が釈尊の舌の長さがどれくらいあるかを調べるために釈尊の舌をもって空中に飛んでいった時に、宇宙の果てまで行ってもまだそれよりも長いので諦めて戻ってきたことや、通常の人間にはいけない地獄にいって様子を見て、三十三天に上り釈尊に再びこの世界に戻ってきてください、という伝言を伝えにいったりすることができるのに、釈尊が誕生した時に、弟子の目連より神通力を持っていないと考えるのはそもそも不自然であり、牛や馬が生まれ瞬間に立ち上がって歩行できるのと同じように釈尊がご誕生のその瞬間に七歩あるいは七歩ずつ歩かれたということは、決して不自然なことではない、とのことである。ましては釈尊は受胎した瞬間に生後六ヶ月程度の大きさとなっており、仏あるいは転輪聖王となる相好をもつ人間が生まれてきた瞬間に歩けないと考えるのは不自然である、とのことである。しかるに通常の人間ではない特別な人間である釈尊が誕生のその瞬間に七歩歩くことができない、ということの方が論理的な破綻があるということになる。

生後すぐに人間が直立歩行できない医学的理由

ではこれを自然科学的に考えてみればどうなるか、というと友人の整形外科医に伺ったところ次のようなことを教えていただいた。

人間の新生児は先天性股関節脱臼という病気ではない限り、身体的には直立歩行可能な状態にあるが、母胎から出た瞬間は通常は眼も開いていないし首も座っていない未熟状態である。しかるに運動経験もなく訓練が足りないから歩行不可能な状態となっている。

しかし母胎から出た生後すぐに原始歩行・原始反射という運動を開始するのは通常の現象であり、この原子歩行によって神経と筋肉を使った運動を反復練習することで、生後三ヶ月程度で首が座って、背筋を伸ばしたりできるようなれば、生後一年程度で立位の姿勢で歩行可能になる。これは先天性股関節脱臼のある場合でも同じであり、生後一年程度で立位の姿勢で両足を使って歩行できるようになる場合もあり、もちろん両足をつかって正しい歩行姿勢を維持できないので、治療が必要となるとのことであるが、神経系・筋肉・骨格上は、先天性股関節脱臼がない場合には、反復練習の結果として自立歩行が自然にできるようになるとのことである。

牛や馬が生まれた瞬間から歩行可能であるのに対して人間が歩行可能でないのかは、母胎のなかでどこまで成長したのか、ということの違いによって起こるとのことである。牛や馬が四本足で立つ場合には、まず二本足で立位を身体の均衡を保つことが容易であり、それとされに、生まれた瞬間から毛髪もある程度伸び、人間が生まれてくる時よりもはるかに成長した状態で生まれてきていることも大きな要因であるとのことである。牛や馬などは人間に比べて母胎のなかでの成長した状態であり、ある程度の手足の運動訓練を経験し、その経験値が高いからこそ、生まれた瞬間に立てるということになる、という原理のようである。

しかるに釈尊の場合のように、受胎時に生後六ヶ月の三十二相八十種好を備えた身体をもち、さらにその状態から十ヶ月間母胎にいたとすれば、通常の人間で数えれば、生後十六ヶ月経過していることになる。現代でも生後十六ヶ月の幼児が歩行しても誰も驚かない。出産直後に七歩歩くためには、牛や馬のように母胎に長期間とどまっており、母胎が危険なく出産した場合には、人体としては原理的には全く不可能ではない。しかし通常統計学的な知見からすれば、母胎はそのような長期間の妊娠状態に耐えられないし、胎児が母胎にいる場合、母胎外にいる運動経験をもたないため、生まれてすぐに歩行可能にはならない。たとえ人工的に出産時期を延長し、一年以上の長期間母胎にいて分娩進行を遅延させ、帝王切開で母胎から胎児をだしても、通常の胎児の場合には羊水のなかで運動不足となっているので、歩行不可能となるようである。しかしながらこれらの医学的知見を総合すれば、誕生すぐに立位で歩行ができる人間がもしいるとすれば、それは母胎にいる期間に立位や座位を反復するなどの運動機能の発展が見られている場合であり、さらに通常の誕生期より遅延して誕生期がきた場合には、牛や馬が生まれてすぐに直立歩行することは整形外科的にみても不可能ではなく、ただそれは実例がないだけであって、決して非科学的でも超自然的な現象でもない、ということのようである。

これらを総合するに仏伝で「釈尊が降誕すぐに七歩歩行した」という記述は宗教的な論理で考えても、整形医学的に考えても決して不可能な現象ではなく、ただ希少例である、というだけということになるのである。

「天上天下、唯我独尊」の意味

先天的な言語的認識はすべての衆生にある

次に生後直後に「私を降ろしなさい」とか「わたしはこの世間で最勝なる者である」と発言されたということについてであるが、まず仏教では輪廻に転生を経て身に付いた後天的ではなく生来の言語的な能力というのはすべての衆生に備わっており、その代表的な例が自意識や無明などの分別知であるが、人間とは、発話する能力しその意味を聴取する能力をもつもの、と定義されるので、人間のもつ言語能力は後天的なものではない、と考えなければならない。さらにその上で、同様に転輪聖王であれ、如来であれ、三十二相八十種好をもつ者とはいかなる複雑な声を出すこともできる滑らかで長い舌である広長舌相・言葉を発した時に非常に多くの人に聞かせることのできる梵音相・無駄話をしないで意味を理解できることから頷如獅子という相をもっており、釈尊の場合には、受胎した瞬間から三十二相八十種好をもつ胎児として変化しているので、生まれたその瞬間に「おぎゃあ」などといった意味不明な奇声をあげることは決してあり得ない、ということになる。しかるに特段ブッダにならないで、転輪聖王となる人間として誕生しても「おぎゃあ」などと言うことはなく、通常の成人した人間を圧倒することができるような高い言語能力をもっているということになる。

相を示現するとはお手本を見せること

それでは「わたしはこの世間で最勝なる者である」「天上天下、唯我独尊」という何故発言したのか、ということであるが、これはゴペル・リンポチェによれば、自分がブッダであること、ブッダになるなり方を見せること、そのことによって世界のなかで人間のなかでは最高の者であり、神々たちよりも勝れた者であること、すべての人間が自分と同じようにブッダになることができ、そのことによって生老病死などのすべての苦しみを超克し、涅槃寂静の境地を誰しもが獲得できるということ、誰しもがこの世間で神々よりも最高位のものとなることができるし、それを自分がこの世界のすべてに実際に見せよう、ということの意思表示である、と考えるべきである、とのことである。

釈尊が煩悩を断じ終えていないと考えるべきではない

それでは近年日本では「唯我独尊」は「自分だけが偉いと自慢しているのはおかしい」という理由から「私たちはひとりひとりが尊いものであり、自らの生命の尊さに目覚めさせるためにそのように言ったと神格化されている」とか「私たち一人ひとりの生命の大切さを教えている」というように解釈している者も多いが、これについてはどう考えるべきか、といえば、リンポチェによれば、まず釈尊は大乗の伝承では既に成道しているので、すべての我執を完全に断じておられるので、「釈尊が自慢した」と思うのは完全に間違っているとのことである。何故ならばもしも自慢するようなことがあったら釈尊は煩悩を断じていないことになってしまうからである。

如来が自分自身に対して礼拝したり賛嘆するのは不自然ではない

では「私は最高の者である」ということは何故自慢にならないのか、といえば、これは釈尊が如来を礼拝したり賛嘆されたり、霊鷲山で般若経を説かれる時に自ら法座をおつくりになり、それを礼拝したりされたのと同じである、とのことである。ゴペル・リンポチェは一昨年の初転法輪会の時にチャンキャ・ガワン・ロサン・チューデンの『縁起心髄釈』でこれと同じ問題があったのでそこを参照しなさい、と指示して下さったので、そこを再度簡単に紹介しよう。

チャンキャ・ガワン・ロサン・チューデンは、縁起法頌で「偉大なる沙門はこう説かれた」と自分のことを自分で偉大であり、説かれていると敬語表現を使って説かれているのは、不適切なのではないのか、という疑問に答え、これは矮小な見方をしてしまっていて誤っているに過ぎないとして『出家経』の次の偈を引いて釈尊が釈尊自身を礼讃するのは別におかしいことではないとする。

私に類するような者などいないので、
私には阿闍梨とする者など誰もいない。
この世において仏はただ私一人であり、
正しい最勝な菩提を得ている者なのである。

すべての者より秀れており、
世間の一切を智り、
ここには一切の法を衣とし得る者
そんな者などいないのである。

すべてを断じて、愛欲を離れ
解脱を成し遂げて、現証した者
それが私であるので、誰に師事しろというのか。

如来とは天と人に説法する者である。
一切智の力はすべてを兼ね備えたものである。

自ら菩提を証しており、正しく教説を説く者である。
無比無等な者にして、どこかの誰かに師事してはいない。

私はこの世間における阿羅漢、
世間の最上位の者が私である。
それ故、天をも含めるこの世間で、
私は勝利者なのであり、魔を圧倒する者である。

『出家経』

こうした釈尊がご自身のことを礼讃している偈文は数多く経典にあるのであり、釈尊が釈尊自身を礼讃するのは別におかしいことではない。何故ならば、仏世尊は四無畏を具足され、偈頌を四無畏によって説かれるのであり、自分で自分を礼讃するのが不適切ではないかという疑念を起こすことが不適切であるとする。正しくないからである。

輪廻の因たる業・雑染の対治たる道を修習し、そのことに依って輪廻のすべてを完全に断じることになる。釈尊ご自身もそれを断じたことを四無畏の自利断円満、すなわち自分自身が常楽であり、何も恐れていない、という無畏(漏永尽無畏)の心からそのように説かれている。「如来が説かれた」と「偉大なる沙門はかく説かれた」といった表現は、四無畏のなかの自利証円満に対する無畏(一切智無畏)から説かれるものなのである。

『縁起法頌釈』

と説いている。

リンポチェのお話とこの「一切智無畏」が自身が煩悩をすべて克服して世間で最勝なる者であると語られたとしても、全く不審がる必要はなく、「天上天下、唯我独尊」は文字通り、天上天下で私はただひとり尊いものである、と説かれるのは、自慢でもなく、事実であり、真実のみを語られる釈尊のご発言としては特段こだわって曲解する必要のないものである、と考えるべきだ、というのが標準的な仏伝に対する我々の正しい解釈の姿勢ということになるようである。

釈尊の仏画や仏像を私たちは誰でももっているであろう。釈尊の降誕は、この地上でこの数千年間の間起こったことのなかの最高の出来事であり、そのことを狭隘な味方ではなく、素直に受け取ることとは幸いなことである。釈尊の功徳は語りつくすことができないというが、本日の降誕の逸話も大変長文となってしまった。いずれにしても釈尊は誕生された直後から直立歩行することができ、おぎゃあと泣き叫ぶような赤子ではなく、産声ではなく獅子吼し、我々を仏法へと向かわしめるために非常に重要で意味のある言葉を発せられた、ということを理解するために、読者のみなさんに何か資するものであれば幸いである。

摩耶夫人からの降誕 Rubin Museum of Art (c) Himalayan Art Resources Inc.


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