2021.04.25
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

破壊と暴力が勝利することはない

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第17回
訳・文: 野村正次郎

神々たちは権威と名誉に嫉妬し

燃え上がる炎で安心感を破壊する

戦争によって身体を粉々に砕いて

謀略に汚れて正義を見失っている

21

阿修羅は、生まれながら人間よりも圧倒的な知性を持ち、堅固で特殊能力を有する神々の肉体をもっている。しかし常に他者との相対的な比較によってのみしか、自分の価値を見出すことができず、自分たちよりも権威や名誉のある者の存在に耐えられない。嫉妬から感じる不公平感は憎悪を生み、憎悪を源とする闘争にのみ生きている。

彼らは敵対する欲界の天の住処それほど遠くはない攻撃に適した場所を主な生息地とする。彼らが最も憎んでいるのは、帝釈天を頂点とする三十三天の神々であり、常に攻撃をし続けているのにも関わらず、決定的な打撃を与えることができない。様々な謀略で神々の地位を引き摺り下ろそうと努力し、時には美しい天女に化現し潜入し破壊活動を行なっている。生まれながらにしてもつ憎悪は深く、常に攻撃を繰り返しているにも関わらず決して勝利を収めることができない。常に攻撃的であるのでほかの衆生からも嫌煙され、神々のように礼賛されたり供養されることもない。

阿修羅はよくサソリによく喩えられている。これはサソリが同じような格好の昆虫がいるにも関わらず、常に高い攻撃性を本性としており、他の昆虫を殺して食べて暮らすのと似ているからである。

阿修羅は神々の一種であるので、神々と同じ身体能力をもっている。すなわち瞬間移動することができたり、分身を化現することができたり、空中を飛行することもできるし、他者の考えていることを神通力によって知ることができる。常に神々を監視しており、神々が自分たちを誹謗中傷する噂話を遠くの場所から盗み聞きして、彼らを攻撃する理由を常に探している。

阿修羅たちの攻撃能力は高く、神々を攻撃し神々の身体を粉々に切り刻んだり、矢の雨を降らしたりすることができるが、逆に神々の軍隊によって反撃され、自分たちも身体が粉々に砕け散っていくこともよくあることである。しかし双方ともがそもそも互角の身体能力をもち、かつ寿命が非常に長く、身体も堅固であるので、首を切断すれば死んでしまうようであるが、それ意外の身体の部分にいくら致命傷ともいえるような強烈な攻撃をしても、身体がバラバラになっても再び蘇生するので、神々であれ、阿修羅であれ、お互い壊滅的に相手を敗北させることができる訳ではない。だからこそこの戦争は決して終結することがないのである。

神々と阿修羅の戦争は、神々の方が圧倒的に有利であるといってよい。何故ならば、神々は阿修羅のような嫉妬心や猜疑心だけではなく、物事を分別する知力を正しく使うように自分たちの精神をある程度制御できるからである。このことによって神々にも主従関係や上下関係などの秩序がいじられているので、軍隊を組織し戦闘員を置くことができ、同時に戦闘に従事しない者たちは、楽しく遊んで暮らすことができる。神々はこのように役割分担をし、規律のある社会を築くことができるが、阿修羅は猜疑心が強く、常に謀略ばかりを企てているので、その軍勢は神々の軍勢より結束力で劣っており、効率的な攻撃能力も低いので、結果的には阿修羅の方が圧倒的に弱いことになる。このことはまた阿修羅たちの劣等感と敗北感を煽り、彼らの憎悪はさらに深まる悪循環を生み出している。

このように阿修羅に生を受けることは、神々と同じような身体能力や恵まれた環境にあっても、常に戦闘状態でいなければならず、決して平和が訪れることはない。阿修羅たちは常に謀略を練って暮らしているので、他の衆生を信頼できず、正しいことと正しくないことを分別する機会すらも見えてこないし、たとえ正しい判断をしようとしても、裏切られるかを心配し、正義を見失ってしまい、戦争をやめることもないし、嫉妬と憎悪に心が満ちているので、常に劣等感と敗北感から逃れることは不可能な状態となっている。このように神々に生まれていながら、他の衆生に対しての暴力的な思考を露にしている阿修羅は、魔のひとつとして数えられるし、悪趣のひとつとして神々とは区別して数えられているのであり、阿修羅は私たちの暴力的で破壊的な感情が生み出した暴力の結果であり、暴力と混乱という悲劇にほかならない。

本偈で述べられていることは以上であるが、阿修羅については我が国では多くの人がかなり誤解をしており、間違った行動をしていることも多々見受けられるので、敢えてここでは苦言を呈しておきたい。我が国では国宝にまで認定されている興福寺の八部衆の一体である阿修羅像が大変人気であり、造形の精緻さや物質的な貴重さから大変重宝され、2009年には、国家予算をつかってこの阿修羅像を含む興福寺の至宝の展覧会が催され、入場者数は東京では94万人、九州では71万人、興福寺では25万人の入場者たちが長蛇の列をつくりこの阿修羅像に殺到した。

阿修羅は悪趣であり、憐れむべき存在であり当然仏でも菩薩でもないが、阿修羅像は「仏像」として扱われ、同じ興福寺に所蔵されている国宝である十代弟子の舎利弗や須菩提や目連など、私たち仏教徒が釈尊の弟子としてお手本にしないといけない仏弟子たちよりも遥かに人気を誇っていた。しかしこれは仏教の教義に関する理解不足から起こっている現象にほかならない。しかし如来たちを守護している八部衆にいる阿修羅はあくまでも我々人間よりもだめな生き物なのであり、迦楼羅(ガルダ)なども動物に過ぎず、阿修羅やガルダのなかには、仏教に帰依している神々の家来となったり家畜となったりする者がいるだけで、仏教徒である限り、我々は決してそれらを信仰したり、賛嘆したりするべきではない。

たとえば我々の人間社会には、反社会勢力である非行少年グループや暴走族や暴力団やテロリストや殺人集団という暴力を誇っている勢力がいるし、彼らのなかには自分たちの私利私欲の実現のために、神頼みをして善業を積んでいるものもいる。しかし彼らがいくら善業を積んでいたとしても、彼らは常日頃悪事を繰り返しているのであり、賛嘆されるようなことをすることは少なく、そうした暴力を生業とする勢力に憧れ、それを礼讃することは、社会の安定や安全、秩序を維持し、人間社会をより幸福な状態にすることと逆行することなのであり、学校で暴力団の組長がいかに立派であるか、とかテロリストが如何に立派であるか、ということを教えるべきではないし、彼らの行いを褒めるべきではない。これと同じように常に自意識過剰で嫉妬の炎を燃やし、常に闘争本能で他者を攻撃しようとしている阿修羅たちは褒めるべきではないし、すべての衆生のなかでも最も強く暴力に関わっている彼らを称賛することは、暴力を推奨することにほかならないので、決してすべきことではないのである。

この世の誰しもが平和で安全で幸せな人生を送りたいと願っているのであり、他者に暴力を振りかざし、恐怖によって世界を支配しようとする考え方は忌み嫌うべきであり、残虐非道なる「修羅場」を生き抜いた、勝敗に常に勝ち続けた、殺人をたくさんした、と礼讃することは、仏教徒としての非暴力の根本思想に完全に反する言動であり、決してすべきではない。何故ならば、それは暴力の担い手たちを肯定し、礼讃し、残虐非道にして絶対的な悪である暴力を肯定することになるからである。

仏教の根本命題のひとつに「涅槃は寂静である」というのがある。これはすべての煩悩を克服し死滅した状態こそが真の平和であり、真の幸福であるということを説くものである。そして阿修羅の軍勢や煩悩の軍勢などの魔の軍勢に打ち勝つこと、自らの心に潜む狂気や暴力を克服することこそが、真の平和であり、真の勝利である。如来たちは煩悩に打ち勝っているからこそ「勝者」と呼ばれるのであり、仏教では勝利や平和というのは、各人がもつ強欲、暴力、狂気、無知などを克服することによってもたらされると説いている。他者が自分たちより優れていることに劣等感をもち、嫉妬し、憎悪の感情に満ち戦闘のみを繰り返えさざるを得ない阿修羅の境涯は悲劇そのものである。彼らは生まれた瞬間に武器を手にし、戦闘のただなかに生き、ありとあらゆる知力と体力を尽くして、他者を殺戮することだけに生きなければならない。そしてそのような生を受けるのは、私たちが無始以来、他者のよいところを素直に素晴らしいと思えない、自己愛に生み出された屈折した感情が原因となっているのである。

私たちはもし明日目が覚めたときに、戦争の真っ只中に生まれたらどんな気持ちがするだろうか。静かに眠ることもできない、誰も信用することもできない、記憶の片隅に仏の教えが微かに残っていても、目の前に攻撃してくる相手に善悪など考える暇もなく反撃しなくてはならないし、たとえ敵軍の攻撃を受けて、身体が粉々に飛び散ろうとも、死ぬこともできず再び武器を手にたちあがらなければいけない。これが不幸であり悲劇でなければ、一体何だと表現したらよいのだろうか。

残虐非道の修羅の道を生きること、それは何もよいことはない。それを避けるためには、破壊的な感情を捨て、自己愛によって他者に嫉妬することをやめなくてはならない。私たち人間にはいま修羅の衆生たちのように善悪が見えなくなっている状態ではない。暴力や争いごと、過度な競争は誰も幸せになれるものではない。阿修羅の存在と「涅槃は寂静である」というこの仏教の根本命題は、競争心や争いごとや暴力では、決して勝利や平和は実現できないこと、私たちが打ち勝つ必要がある敵は己の心にある煩悩にほかならないということを教えている。

如来は阿修羅たちにも暴力は何の解決にもならないと説いている