また所知の分類には蘊と処と界とがある。
私たちが知るべきもの、知ろうとしているものには、集合して組成されているものかどうか、無常なものかどうか、ということで事物と常住者に分けることができ、それは有為法と無為法にあたり、それらがどのようなものなのか、ということをここまでで見てきた。本詩篇のこの部分からは、この所知をまた別の分類の仕方によって分類してみて、蘊と処と界とに分けることができ、それが具体的にどのようなものなのか、ということを説明していくが、ここは蘊と処と界という分類があるということのみを言っており、内容は次のところから、ということになる。
蘊・処・界は、蘊については、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五蘊があり、処については、色処・声処・香処・味処・触処・法処・眼処・耳処・鼻処・舌処・身処・意処で十二処があり、界については色界・声界・味界・香界・味界・触界・法界・眼界・耳界・鼻界・舌界・身界・意界・眼識界・耳識界・鼻識界・舌識界・身識界・意識界の十八界がある。処・界は、色声香味触法の六境と眼耳鼻舌身意の六根とその眼識などの意識との組み合わせで構成されており、五蘊・十二処・十八界のそれぞれの内容については、この次の箇所で詳しく説明されているので、ここでは蘊・処・界とはそもそもどういう意味であり、それは何のために説かれているのか、ということを見ていこう。
まず「蘊」「処」「界」という術語の意味であるが、これをジャムヤンシェーパは『倶舎論考究』の説明に従って見ていくと、まず「蘊」とは、そこに様々な原因や条件をひとつにまとめた集合体、集成した状態、あつまりのことを「蘊」(skandha)と表現されるのであり、心・心所が生じて増大する門であり出処・出自という意味で「処」(āyatana)と表現され、それぞれの結果が生じる際の原因あるいは種族となり、種子のようなものであるので「界」(dhātu)と表現される。
「蘊」「處」「界」の漢語はあくまでも訳語であるが、草木を積み重ね聚めて備蓄した状態が「蘊」であり、所属している場所という意味での「処」なのであり、水源を分岐させ田を分けて境界をつくり、種を植え分けて異なった収穫を期待するという意味で「界」という訳語を当てている。チベット語の語感としては、何かを集めて集積し重ねて置いてある状態に注目したものが「蘊」であり、それが生じて展開していくものをその派生していく生成の過程に注目しているものが「処」であり、その出自や起源という点に注目しているものが、「界」の訳語として使用しているが、原語の意味するものものをそのような術語に訳している。これらは現代の日本語でいえば、特性毎に仕分けして集めてグルーピングしたことに着目しているのが「蘊」であり、何が生成されていき増大されていくのか、という生成と展開に着目しているのが「処」であり、それがどこに由来するのか起源や出自に着目しているのが「界」であるということになる。
また蘊・処・界は知るべきことの分類であり、五蘊・十二処・十八界は釈尊が説かれたものである。釈尊は五蘊・十二処・十八界という分類で私たちに何を教えようとしたのか、その意図を考えることが、この五蘊・十二処・十八界というものを理解するためには不可欠であろう。
では具体的に五蘊・十二処・十八界という三つの分類は何を知らしめようとしているのだろうか。それはそれらを知ることを通じて分かっていないこと、間違って理解していることをやめさせる目的で説かれているものであるといえる。
五蘊とは、心所、すなわち私たちの感情や思考というものをひとつの塊であると考えることをやめさせて、経験である受蘊、それが一体何かという心の印象である想蘊、そして様々な心の動きであり業である、行蘊に分けて、私たちの感情や思考をきちんとグルーピングすることを教えようとしたものである。
またすべての物質を単純にひとつの物質全体として捉えてしまう単純な思考をやめさせ、それは視覚や聴覚や意識の対象などというように、我々の意識が感受しているものや意識しているもののうち、感覚の対象と感覚とをそれぞれ内的物質と外的物質とに十種類に分けることができ、それ以外のものは、意識と意識の対象として十二種類に峻別して理解するべきであることを教えているものが、「十二処」ということになる。
さらに物質と精神を混同してしまうのをやめさせるために、眼根と眼識とに分け、感覚器官は物質であるが、それを拠り所として対象を認識している意識とに分けたものが、「十八界」ということになるのである。
このように五蘊・十二処・十八界への分類は、それぞれ通常私たちが知るべきなのに分かっていないことを知らしめるために説かれたものであり、単に種の分類学や博物学的な興味によるものではない。これらはそれぞれ特定の無理解を払拭させるために知るべきこと、知らなければならないもの、すなわち「所知」として説かれ、その詳細は『倶舎論』にも議論されている。
「五蘊盛苦」や「五蘊皆空」という言葉は仏教の基本であるが、仏教の教義をあまり知らないと、「五蘊皆空というし、空は仏教のもっとも深淵な思想であり、アビダルマなどの有部の存在分析は、中観派に実在論として批判されるので、五蘊・十二処・十八界などというややこしい小乗仏教の教えは重要ではない」と誤解してしまう人も多くいる。一番いいと言われている考えだけ分かればいいという発想である。
しかし中観派であれ唯識派であれ、五蘊・十二処・十八界を説かない仏教など一切ないのであり、釈尊がある目的をもって説いている五蘊・十二処・十八界すらきちんと分からないで、「五蘊盛苦」や「五蘊皆空」など決して分かることもない。これらの基礎も分からないままただ「色即是空、空即是色、受想行識、亦復如是」などと滝に打たれながら唱えてもほとんど意味がないのである。
また「五蘊とは色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊である」とたとえ数えることができたとしても、これは五蘊を正しく理解しているということではなく、ただ覚えている言葉をただ勘定しているのに過ぎないのであって先述のような誤解を払拭しながら理解しようとしなければ、釈尊が五蘊・十二処・十八界を説いた意向をまったく無視してしまうことになる。
釈尊がその教えの基礎として知るべきこと、知らなくてはならないこととして五蘊・十二処・十八界を説かれたことには意味や目的があり、それらに思いを寄せながら、次の偈文からは個々にひとつずつ丁寧に考えていきたい。