2021.01.12
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

人間の皮を着ただけの臆病な羊たち

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第10回
訳・文: 野村正次郎

苦しみの海から解脱へと向かってゆく

かけがえのない人身の船に乗っている

しかし放逸に堕ち眠っては話し込んで

財産や名誉を求める欲望に塗れている

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無意味なことばかりへと心は向かっている

大義を実現しやすいこんな身体も消耗する

私は人間の皮を着ただけの家畜である

君よ 大悲の眼差で見守り給わんことを

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地獄に生まれたこともあった。神々たちと一緒に享楽的に過ごした時もあった。何を食べても満足できず吐き出すこともあった。生まれた時から武器をとり殺戮しあう戦乱の時もあった。音も聞こえない言葉も発せられない狭い岩と岩に挟まれてそのまま死んだこともあった。獲物を探しつづけて死に絶えたこともあった。楽しいこともあったが、常に儚く苦しみから逃れられないできた。

しかし幸いにもいま私は恵まれた時を生きている。恵まれた体をもっている。よき師にも恵まれ、よき友もいる。このいまの自分の境涯は、暇とゆとりのある、周りにも恵まれたかけがえのないものである。先人たちはこの境涯はどんな宝石よりも価値のあるものだと教えてくれる。私が乗っているいまのこの乗り物、それは苦しみの大海原を渡ることのできる、彼岸への航路を向かう船であるといわれている。

しかしこの船に乗って自分たちは一体何をしているのだろうか。やるべきことはやらず、なるべく避けて過ごそうとする。少しだけなら怠けても誰かに怒られる訳でもない。たまには無為に過ごしてもいいではないか。できるだけ快適な寝床に寝そべって、深く快適に眠りつづけたい。目が覚めたら出来れば何の苦労もなく、難しい嫌な話題を避けて面白可笑しい話だけを聞いていたい。日々の生活のために働きつづけるだけでも精一杯で、できればもう少しだけ財産に余裕があるとよい。努力して報われて生活苦からは逃れたので、今度は人に誹謗中傷されたりすることもなく、他人からは好かれて褒められて、有名人のように脚光を浴びてくらしたい。そんな欲望に塗れているのは私だけではないのである。私だって多少はそんなことを望んでもいいではないか、そんな思いは避けがたい。仏教は涅槃寂静の境地を説いているが、こんな本能には逆らえない。こんなのは良くないとわかっている。向かうべき道はこちら側ではないのも知っている。しかしいまのこの肉体は、そんなつまらないことばかりを成し遂げるために、毎日疲労困憊して、少しずつ老いて死を目掛けて一直線に進んでいる。

弥勒仏よ、私は正直に告白させていただきたい。私たちは所詮人間の皮をかぶっただけの家畜に過ぎないものである。誰かに飼育されていなければ何もできない。愚かな者ばかりの群れから離れてひとりでしっかりと生きていく術もまだ身につけていない。美味しそうな草があれば、とりあえずそれを食べておかないと、そんな恐怖にいつも怯えて暮らしている。人身という宝の船に乗ってはいるけれども、飼い主から自由に放たれて、ひとりで何か意味があることなんか決してできない。ひたすらこれまで本能に任せて生きてきたように、いま人間の皮を着ることができているけれども、私たちはもう何年も何十年もこんな風に過ごしてきてしまった。

弥勒仏よ、あなたは私たちの群れを導く御方である。私たちは大人しくあなたのことばに従う。あなたが示す方向へと旅をする。だからどうぞ、あなたのやさしい眼差が私たちを見つめ続けてくださるように。私たちは旅路の群れから離れないように、そして決して危険に晒されないように。この告白をしているあなたは如来の愛の結晶である。何ひとつ取り繕うことも隠すこともなく、私は心の叫びのすべてを告白する。この慟哭があなたにきっと届きますように。そしてこの船に乗っている私たちの生命が何とかなりますように。

本偈はこんなジェ・ツォンカパの悲痛の慟哭を吐露したものである。

大人しい家畜の羊は、飼い主に見放されては生きてはいけない

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