2020.11.07
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

出世間の絶妙な味わいの本質とは

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第4回
訳・文:野村正次郎

業が集めてきた故郷や家族や友たちの

すべてを残し遠く離れ処に去ってきた

然れどもし見知らぬ用もない友を集め

故意に堕落するのなら狂人の業となる

参来した聞思の業のため心を結べ いざ

4

釈尊の説かれた教えに触れ、私たちは仏弟子となり、生死の輪廻を超越した解脱と一切相智という学の極致を目指し、自己を見つめるとき、この私たちが無限の過去世からやってきて、無限の未来のためにいまを生きることができる、ということを知る。このような恵まれた環境を得ることは今回限りであり、この人生を決して無駄に生きてはならない。この人生にしても、過去世の善業の結果、素晴らしい故郷に私たちは生まれ落ち、やさしい家族や友人たちに囲まれていた。しかしながら、家族のため、現世のためばかりの日常に追われていては、釈尊のような仏の境地を得ることはできない。

釈尊は釈迦族の王家の王子に生まれ、ありとあらゆる学問芸能を極め、多くの妃に囲まれていたのにも関わらず、この輪廻における繁栄をいくら目指しても、生老病死の苦難を誰一人として逃れることはできない、ということを達観し、住み慣れた王宮と、親しい家族や友人たちをすべて残して、輪廻から解脱するために出離され、一心に解脱への門を目指して修行された。その釈尊の行状と同じように私たちもまた、現世や輪廻における繁栄だけを目指して暮らしていたのをやめ、家族や親しいものたちとは距離を置き、今回のこの人生を解脱への第一歩としなくてはならないのである。

いまここにこうして解脱への一歩を歩みはじめた私たちは、決してあの素晴らしい故郷や家族、そして心から信用できる友たちのことを振りかえるべきではない。それは私たちが故郷や家族を見捨てて、この輪廻から解脱しようと思った瞬間からはじまったのであり、いまさら決して別れの悲しみを味合わせた彼らをさらに悲しませるわけにもいかないのである。

解脱への道を歩みはじめるなら、さまざまな新しい仲間たちに囲まれる。出家すれば僧院には、さまざまな場所からさまざまな人が集まってきているのであり、出家しなくてても、在家の戒律などを授かり、法座へ参列した時、さまざまな人々が集まってきている。彼らは私たちと同じように様々な背景を捨ておいて、いまここに集まってきているのであり、私たちはひとりで孤独に耐えようとしなくても、俗世間では得られない、やさしい仲間に囲まれてここにいる。この新しい人たちは、いままで所属していた社会には得られなかった仲間であり、私たちと同じように仏の教えに触れ、仏の教えに従い解脱を目指している特別な仲間たちなのである。

しかし、この新しい仲間たちは、一体何のためにいるのだろうか。彼らは一緒におしゃべりをしたり、食事をしたり、散歩をするための仲間ではない。一緒にこの世で楽しく快適に過ごすための仲間でもない。たとえこの新しい仲間と仏の教えを共有できるとはいえ、この新しい仲間は、私たちを育ててくれた故郷や家族以上の愛や庇護を期待できる者でもない。故郷に残してきたのは、まだきちんと歩けない、文字の読み書きもできないような時から共に過ごした者たちである。

この新しい仲間は一見すると素晴らしい特別な存在に見えるかもしれないが、その内実は単なる見知らぬ用事もない人たちの集まりに過ぎない。いまここに私たちがいるのは、美味しい料理を食べるためでもないし、知らない人とお茶を飲み、どうでもよい社会の噂話や身の上をするためではない。

ここにやってきたのは解脱のためであり、ここにいるのは過去の偉大な如来や菩薩たちの言葉に耳を傾けて、その言葉通りに実践し、生老病死などの苦しみを完全に克服する解脱の境地へと歩むためである。あるいはまた、あの故郷にいた家族や友人だけではなく、すべての生きとし生けるものたちの、ありとあらゆる悲しみと苦しみが二度と起きないように、自分は無上正等覚を得ようとするためにここに私たちは存在している。

この人生は得難く、この学問は簡単に成就できるものではない。しかしながら新しい仲間と怠惰に過ごし、解脱や一切智への歩みを止めて、無駄話をしている暇など一切ないのである。学問の府へときたのならば、学問をしなくてはならないのであり、それをしないのなら、いっそのこと早く故郷に戻り社会のために尽くさないといけないのである。ここにいま私たちがいるのは、聞思の学問のためなのであり、僧院で暮らすことは僧院の精進食事を楽しむためでもないし、新しい知識を得て、実学を現世で応用しようとするためでもない。ここに来たからには初志貫徹しなければならないのであり、決して現世利益のための新しい人間関係を楽しむためではないのである。

こうしたことは本偈ではこのことを説いているが、前偈では、仏教に関する学問を志したのならば、いますぐここでその学問を行わないといけないし、先延ばししてはいけない、ということが説かれていたのに対して、ここでは出世間の学問を志したのにも関わらず、それを行わずに他のことに執われてしまい、別のことばかりに関心を寄せ、怠惰に暮らしていることを戒めている。両者はいずれもが精進の対立概念たる懈怠にほかならない。

本偈で説かれるように、寺院を巡礼するのは、自分の心を見つめ直してよりよい人間になるためであり、法話に耳を傾けるのは、落語や漫才を聴くような娯楽のためでもない。しかしながら本来の目的ではないものを楽しもうとする我々の煩悩は根深く、寺院や僧院に行けば、心が洗われるとか、精進料理を食べてリフレッシュできるとか、常に間違った方向を目指している、甘い罠に嵌ってしまっている。煩悩の甘い罠にかかった私たちは様々に正当化しようとするが、そのすべては単なる言い訳に過ぎないものでしかないのである。

デプン僧院の大集会殿(デプン・ツォクチェン)では、ゴマン学堂とロセルリン学堂の両方の僧侶たちが集まり、早朝からマンジャ(大法要)が行われる。マンジャで支給されるバター茶は、バターの濃度も高く、発酵度の高い茶葉を使っているから、薄紅色のバター茶であり、これが絶妙な味である。インドにケンスル・リンポチェを訪ねていくと、先生の自坊はデプン・ツォクチェンの隣であったからか大法要がある日には、毎朝そのお茶をいただくことができる。この絶妙なお茶は、お寺で支給される実に美味なパンと大変良く合い、リンポチェに「このお茶みたいに美味しいバター茶はほかにはありませんね。これはデプンの名物ですよ。いつもこんな美味しいバター茶なら、バター茶に慣れていない日本人でも楽しめますよね」と語るとリンポチェが教えてくれたことがある。それは「僧院のお茶の本質は火である」ということである。

昔ジェ・ツォンカパの母親は僧院のお茶が大変美味しいので、そのお茶を飲みにしょっちゅうジェを訪ねてきたらしい。ある日、母親のその行動をみるに見かねて、ジェは母親に「僧院のお茶の本質は火であるので、沢山飲むと火傷するので、それを目的にここに来るのは良くないですよ」と誡めたところ、ジェの母親は、「そんなことはないでしょ。こんなに美味しいお茶は家では飲めませんよ」というので、ジェ・ツォンカパはすぐに怖畏金剛尊を成就して、母親が大事に抱えていた茶碗のなかのお茶をその本質である火に変えてしまった。火傷しそうになった母親は、そこではじめて、自分が僧院のお茶の美味しさの秘密は、仏の境地を目指す者たちが、善意から集まった稀有なる材料で作られたものであり、それは正しく仏教を実践する者たちだけが、火傷をしないで飲むことができるものだということを思い知り、以後はお茶を飲むために僧院にやってくるのは間違いであると深く認識したとのことである。

本末転倒にならずに、仏の道を歩んでいるのならば、ついでに美味しいお茶も味わえる。まじめに修行をしようという気持ちで座禅をするのならば、禅堂の美味しい典座も味わえることになる。デプン大集会殿のあの薄紅色の美味しいお茶も、五大聖典と向き合い、仏典で説かれている釈尊の教えを極めようとする限り、稀有なる素材でつくられて私たちはそれを飲むことができる。しかし、それらの逆は決してない。私たち仏教徒にとってインドやチベットのすべての文明は、釈尊を追想し、仏の境地を目指している限りにおいて、その豊潤な興を与えてくれるものであり、聞思の行を全うしようとする限り、決して俗世間では出会えない、心安らかで叡智をもつ人々に囲まれるものなのであり、その逆はないのである。

僧院で法要のためにお茶を配るのは若手の仕事である(現在の写真ではありません)

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