2020.11.02
གུང་ཐང་བསླབ་བྱ་ནོར་བུའི་གླིང་དུ་བགྲོད་པའི་ལམ་ཡིག་

私たちはいまここでどう生きているのか

仏典の学習法『参学への道標』を読む・第3回
訳・文:野村正次郎

有暇の所依を得て勝者の教えに出逢っている

正しい善師に師事し 友と法を共有している

こんなに恵まれた機会を得るのは稀有である

何度も得られるものではないから大義がある

先送りはもうやめて 大義を全うせよ いざ

3

現世利益を目的としている世間の実学は、学問に志して、学問を追求し、学問を極め、その成果を活用する場所や時期に限定がある。これはおそらく実学というものが、あくまでも社会的なものであり、他者との比較による相対的価値で評価されるものだからだろう。だからこそ、この学問は他人よりもなるべく早期に着手し、なるべく早くある程度の学習成果を実現した方がよいのであり、学問を活用するためには、社会や市場の動向に合わせていることが重要であり、適切な時期と場所で、現世の需要に見合った成果が発揮されなくてはならない。

これに対して仏教に関する学問は、基本的に出世間の学問であり、学ぶべき時は「いますぐ」であり、活用すべき時も「いますぐ」であり、活用すべき場所も「いまここ」である。この出世間の学問は時と場所や社会を選ぶことなく、絶対的な評価をもっている。だからこそ「いますぐ」に仏教に関する学問に従事しないで、時と場所を変えなければできないと先送りし延期することは、無意味な生を営むことにほかならず、それは懈怠であり、誤った考えということになる。とはいえ、仏教に関する学問が目指すものは、解脱や一切相智であり、いますぐに実現できるようなことでもない。少なくとも仏教に関する学問は今生での成果を期待するわけでもないし、最低でも死後の後生のことを目的としているから、社会の需要に即時的な価値をもつ即効性のあるものでもない。さらに仏位ともなると三阿僧祇劫もかかって実現すべきものである。学問の成果を社会に還元できるのは、途方もなく先の話のような気もしてくるのも実情である。しかしながら仏典では常に戒・定・慧の三学にしろ、聞思修にしろ、いますぐ取りかからなくてはならない即時的な課題とされているのであり、これは一体何故なのだろうか。仏教に関する学問に関する即時性・緊急性・重要性を理解することは本偈の主旨でもあるので、ここでこの即時性・緊急性がどのようことを意味しているのかを考えてみたい。

すでに以前『水の教え』で見てきたように、この議論は「八有暇十具足を備えた人身」という修行をするための必要条件を私たちが既に得ている、という現状確認である。その上で「そのような機会は稀有である」とこの現状を未来において今後必ず得られるということ困難である、という現状の評価を理由とし「いまのこの貴重な機会をいますぐ活用すべきであり、今生を意味のあるものにしなければならない」という学問への即時的な従事の必要性の認識に至るものである。この認識プロセスをまずは、現状の確認、現状の未来における再現性の確率の低さの認識、現状の即時的有効活用の緊急性・重大性の認識という三つのプロセスに分けて、ひとつひとつのプロセスは一体何を行おうとしているのかをここでは考えてみよう。

最初の現状認識は「八有暇十具足を備えた人身」に対するものである。これは仏教を学ぶための自己の環境要因と外部の環境要因とが整っていることへの認識である。この認識は「いまのこの私」と「私がいまいる場所」を思うことによって得られるものである。私たちは地獄・餓鬼・畜生・長寿天に生まれていないのであり、人間である、というこのことにはじまり、身体・言語・精神に生まれつき障害がなく、修行をするために必要な機能を備えた状態にあり、五逆などの無間を犯していない。こうした自己の環境要因を振り返る時、自分自身の現状が過去世において善業を為した結果として得られたものであるということを同時に知ることになる。また外部の環境要因を検討し、如来が降臨していること、諸仏や諸師が仏法を説いていること、仏法が滅亡していないこと、賢者の行いに見習って行動する権利が保障されていること、修行者に対する敬意が社会にある、といったことを考えることは「私がいまいるこの場所」が過去世における善業によって仏縁に恵まれた場所であるという認識にほかならない。こうした現状認識は、あくまでも個人的な過去の履歴をもとにした現状認識にほかならないのであり、「仏縁のある場」に「いまのこの私」がいるという認識は、現世利益の学問を行うために必要な「いまの社会のなかでの私」という認識とは全く異質なものである。現世利益の学問への意思は、生後から死までの期間に限定した認識により動機づけられるものであるが、出世間の学問は、生前の無限の過去世から、仏位を得るまでの無限の未来へと視点をおくものであり、現在という時がどこにあるのか、ということのタイムスパンが大きく異なっている。出世間の学問に取り組むために現状を知るということは、過去世の結果としての自己の現状と、過去世の結果として享受している現在の環境要因を認識することなのであり、そのような長い時の流れのなかで「いままで私は何をしてきて、いまどこにどういるのか」と認識することにほかならないのである。

次にこの現状は、来世以降の未来において現状を再現することが困難であるという認識をしなければならない。これは「いまここにいるこの私」が「これからどんな場にいきどんなものとなるのか」という現状分析に基づく未来予想である。とはいえ、この未来予想もまた、過去の遍歴の回想よりなる現状認識と同じ「八有暇十具足」の再現性の問いかけであって、未来のために別の特別な項目を考える必要はない。論理的にも現在から未来を推測する正しい認識といったものは存在しないことから、未来を推測するということは、現在が未来において期待する結果を生み出すための原因総体を具備した状態かどうか、検討することでもある。つまり「仏縁のある場」に「いまのこの私」がいるが、将来も「仏縁のある場」に「いまのこの私」が必ず転生できるだけの充分な原因が具備した状態にあるかどうか、という現状の営為の再検討と課題設定をここでは行っているのである。現状が未来のために原因総体を具備することに努めていない、他の雑事にかまけている状態なら、現状の再現性は確率的に低下してしまい、明るい未来は期待できないので、これまでの過去にやってきた善業以上に善業を積集し、「いまここにいる私」が将来も「またここにいる私」となれるように努めなければいけない。これが現状の課題への即時的な取り組みであり、その取り組みをすぐに行わなければならない、と思うようになることが、出世間の学問の緊急性と重大性の認識へと至るということなのである。

いまの私たちは無限の過去から連なってきたものであり、この未来は私たちのいま現在の個人的な取り組みにかかっている。いますぐここで仏教に関する学問を行うことは、過去の善業の修習を継続し、如意宝珠よりも貴重な人身を得た私たちが、自己の現状を認識し、他の衆生と接する時にはなるべく他者を傷つけないよう、小さなことであれ、他者に役立つという善業を継続するという生の態度の表明にほかならない。この生の基本的姿勢は、どんなことをしていようとも、どんな時であろうとも、そしてどんな者と交わろうとも、継続できるのであり、このような即時的な基本的態度は、場所や時期を限定することなく、必ず常に他者を即時的に利益しているものであり、だからこそ、この学びには絶対的な価値があるのである。私たちがいますぐに行うことのできる仏教の学問とは、何かのために何かをどこかで学ぶことなのではない。それは善の態度を表明しつつ生きるということなのであり、私たちがいまここでどう生きるのか、という生の態度の問題にほかならない。だからこそこの学問は自己の生そのものの問題であり、決して自分の人生を先延ばしにできないように、先延ばしにすることができないのであろう。

仏典を学ぶということは、私たちがどう生きようとするのかということである

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