2020.11.05
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

無敵の慈愛の軍陣にいるということ

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第4回
訳・文:野村正次郎

魔を降伏させる陣にては何らの恐怖もない

無敵の勇士 天地と地上の最勝の師である

その眼差は常に戦慄した衆生に注がれている

私たちを導き給う君よ 私は御足へ礼拝せん

4

暴力と狂気、殺戮や略奪、これらは私たち人類が歩んできた暗黒の歴史である。今日の日本では、その光景を私たちはあまり眼にすることがなくなったが、少し前までは私たちが住んでいるこの場所にも殺されたばかりの赤く黒い血が滴る屍体が転がっていた。私たちはその生々しい現実に目を背け通り過ごしてきたのである。

釈尊が魔軍を偉大なる慈悲の軍勢で降伏させた故事や、死や煩悩、そしてこの肉体や他化自在天の神々さえも魔であると呼び、その魔の敵軍を制圧したものを阿羅漢と呼んできたリアリティを現代の日本では感じにくくはなり、それはとても良いことであるが、残念なことに私たちの暗黒面の歴史は極めて根深く、愛や慈悲、そして平和や倫理というものを私たちの狂気と向き合わずに語ることなど不可能であろう。

今日私たちは剣や弓を眼にする機会は少なくなった。街に出かけ、拳銃や散弾銃を買うことも禁じられているので、いまはできない。街の安全は拳銃を携帯した警察官たちが守ってくれているが、彼らが私たちを撃つことはないだろうし、島国の周りの海の向こうから、恐ろしい形相をした軍隊が攻めてきて、私たちの家族を殺してしまうこともない。警察官たちは笑顔で自転車に乗っていて、恐ろしくはないので、何か困ったことがあれば、どうでもいい道案内をしてもらうために交番で道順を聞いたりしている。しかし警察官たちがそんなやさしく接してくれる社会は、実は特殊な社会なのである。

世界にはいまも警察官が普通の民衆を理由もなく尋問し、気に入らないことがあれば手錠をかけて暴行をしている社会が山のようにある。私たちは警察署へと連れていかれ、無理やりに自白させられ、支払うべき賄賂が払えなければ、腹いせに鉄の鎖や先端が鋭くなく尖った棒で足首や手首を串刺しにされる。暴力は狂気の沙汰で、倫理的に正しくないことなど誰もが知っているが、彼らには倫理など無縁のものであり、人間とも思えない形相で暴力を愉しんで嘲笑っている者すらいる。いまもチベットやウイグルでは残念ながらこうしたことが続いており、国際社会も何もできないし、屍体の山が積まれても、トラックでこっそり運んで、まだ息をしている人間を地中に埋めて、誰も彼らが生きていたことなど分からなくなってしまっている。

戦争や武器によって、この私たちの世界が滅亡していくことはすべての宗教で説かれているが、そのはじまりが暴力や虐待、そして互いの猜疑心によるものであることもまたすべての宗教で説かれている。同時に愛や慈悲、そして協調と平和の精神もまた人類が希求してきた悲願であることは、人類が大切にしてきた古典を紐解けば明らかである。

人類は剣や弓、そして銃や爆弾や生物兵器によって他者を殺戮するためのありとあらゆる研究をしてきた。それらが如何に非人間的なものなのか、それらが如何に他者に苦痛を与えるものなのか、その想像を人類ができないわけではない。しかしながらそのような想像は一瞬にして心から消え、私たちは自己中心的な煩悩と業の深さから、より殺傷能力の高い武器を開発し、より効率的に他者が享受しているものを搾取するためのありとあらゆる方法を考案してきたのである。私たちは自己中心的な指導者を好んできたのであり、自分たちの集団が他者の集団よりもより多くの利益を享受できることばかりに注意を払い生きてきた。気に入らない人種や動物がいれば、そのような存在すらも否定してくなり、すべての気に入らない者たちがまるで息をしていない物質のように扱い、抹殺しようとしてきたのである。残念ながら、これらが私たちの真の姿であり、私たちはこれらの狂気と戦いつづけていかなくてはいけない。現在の感染拡大の問題は、差別を生み出し、人々を分断させている。ひとりひとりの感染者がどれだけの苦しみを味わい、どれだけの差別を受けているのかなど、ほとんど考える余裕のない人ばかりである。しかし私たちは知っていることもある。この狂気や暴力は、私たち自身を破滅にしか導いていかないのであり、その方向を歩むのならば、私たちがもっとも愛するものたちの屍が積まれた山の大地に住むしかない、ということである。それは狂気や暴力を心の闇に抱えた私たちですら望んでいる世界ではない。

本偈では、弥勒仏の側に私たちがいるということがどのようなことなのか、ということを説いているものである。慈愛の軍勢で釈尊がすべての魔の軍隊を制圧したように、恐怖や暴力、戦争などを唯一制圧することのできる弥勒仏の軍勢とは、他者の幸福を願い苦痛を望まない偉大なる慈愛の軍勢に他ならない。その精神によって集まった勢力が張っている戦陣のなかに生きているのなら、そのなかでは決して猜疑心を持つ必要もなく、お互いに愛情を交わすことが約束され、恐怖を決して味わうことのない安心した暮らしを営むことができる。慈愛の軍勢は、暴力や狂気の勢力によっては決して打ち負かされることもなく、その軍勢を率いる指導者たる弥勒仏のやさしい眼差は、疲弊した衆生たちに常に降り注いでいるのであり、私たちは慈愛に包まれて、見守りつづけられている。時に暴力や狂気に負けてしまうのでは、という危惧が心によぎるとも、常に正しい道が示し、私たちを引率してくれる指導者を私たちは仰いでいる。弥勒仏とともに生きるということはそのようなことであり、その慈愛の深さを感じるため、私たちは自分たちの心に潜み、私たちを蝕んでいるこの深い闇と狂気を見つめ直すことからはじめるべきであろう。

慈愛の軍勢を率いる弥勒仏はいつでも我々を助けられるよう座っているか立っている姿である
(c) Himalayan Art Resources

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