2020.11.11
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

意識が対象領域となし得るもの

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第3回
訳・文:野村正次郎

所知・所量・所依成立・有

法・基体・縁起

所縁・有法・客体

これらは等価遍充であり、

分類の根たる有法である

3

仏教とは、知性の宗教である。釈尊は「ブッダ」となられた方であり、「ブッダ」とは、知るべき一切のものを正しく如実に知っている者ということを意味している。

通常我々は知るべき対象を正しく知らない。このことがすべての問題の原因となる。知るべき対象を正しく知ることができないことは無明と呼ばれ、それはすべての煩悩の根本原因となっている。この煩悩が原因となり、私たちは知を誤って働かせて、対象を誤認し、その誤認に基づいて、さらに様々な恣意的な思考を巡らせて、さまざまな問題を作り出し、自らが作り出した様々な問題によって一喜一憂して無限の苦悩の連鎖を味わうことになる。

しかるにこの苦しみの連鎖から逃れようとするのならば、苦しみを作り出す原因である煩悩と業を断じなければならない。苦しみの根本原因たる無明を断じることで、すべての苦しみは発生しない状態を生み出すことができるのであり、その状態を滅という。

それでは無明をどのように断じるのかといえば、これは金槌で壺を壊してしまうように何か存在しているものを無くそうとすることではない。これが私である、これが私のものであると誤って捉えている知に対して、それは私ではない、それは私のものではない、と逆の命題を捉える知によって、その正しくない知の代わりに正しい知を起こすようにすることで、煩悩を断じることができる。あるものに対してXであると捉えている知に対してXではない、という形式の把握をする知、これは対治と呼ばれるが、この対治を起こすことによって、すべての煩悩を断じることができるようになる。

しかるに、そもそも私たちの知が対象をどのように捉えているのか、対象とは如何なるものであり、それを捉える知は如何なるものであり、ある知がある対象を捉えている時、それはどのように対象を捉えているのか、ということは、仏教という知性の宗教のはじめの基本的な問いとなってくるのである。本偈ではこうした問いのうちの最初の問いである、そもそも私たちの知が対象を何らかのものとして捉えている時、その対象それ自体とは如何なるものなのか、ということを説いているものである。

知ろうとしている「所知」、正しい認識が計量しようとしている「所量」、正しい認識によって成立している「所依成立者」、正しい認識によって認識可能な「有」、各々のものがそれ自体であり続けている「法」、具体的に知や言葉の対象となり得る「基体」、それ自体を記号化することで成立している「縁起」、知がそれを対象化してそこに向かう「所縁」、それぞれの法をもつ「有法」、意識が対象領域とし得る「客体」、これらはすべて同義であり、等価遍充であり、これらがすべての知が分析の根拠とする基体であり法を有する「有法」であると本偈では述べている。ここではそれぞれのものの定義が述べられていないので、その定義を『セードゥダ』で確認しておけば、次のようになる。

「有の定義は有る。量によって認識されるもの、これがそれであるからである。有と所知と所依成立者と法などは同義である。所知の定義は有る。意識が客体とし得るものがそれであるからである。所依成立の定義は有る。量により成立しているものがそれであるからである。法の定義は有る。それ自体を保持しているもの、がそれであるからである。」

「客体の定義は有る。量が所量とするもの、がそれであるからである。客体・有・所量は同義である。」

『セードゥダ』

これらの定義は、ジェ・ツォンカパの『量七部入門』やケードゥプジェも『量七部荘厳』にも示されるほぼ同じ表現であり、これらが同義であるのは経量部以上の学説で共通して認められているものである。ただしここで「縁起」をこの所知・有・客体などと同義語であるとするのは、中観派の見解であり、それは『中論』に基づくものであるが、通常は有為縁起だけを問題とする場合が多く、その場合には縁起とは有為で無常な事物である。しかしここのように一切法は縁起である、という場合には、縁起は有為法・無為法の両方のものが想定されている。

またここでは同義であることを、「等価遍充」と表現しているが、そもそもXであればYである、という「遍充」(vyāpti, khyab pa)関係は、西欧の論理学における概念上の包摂関係と同じものではない。インド・チベットの論理学を考える場合に、重要となるのは、ある有法Sにおける法Xと法Yとの関係であり、この実在の事物自身の関係性を論理的な必然性をも表現できる「遍充」(vyāpti)と表現することは、重要事項であるが、詳細については後の偈で説明されている。

また同義ということは、あるものが、xであれば、y であるという述語上の遍充関係を述べるものであり、x, y, zが等価遍充であるということは、あるものがxであれば、それはすべてyであり、zであり、あるものがyであるときそれはxでもあり、zでもあるという相互に論理的な必然性、すなわち相互に遍充する関係をもっているものであるということを意味している。

ここで重要なのは、有とは正しい知が認識可能なもののことであり、無とはその逆であり、正しい知が認識不可能なものであると定義されていることである。これはたとえば井筒俊彦によって東洋的「本質」である「未分節」と呼ばれた、有無を離れた第三の質量をもった次元、老荘思想の「玄」や「道」あるいは、「有でもあり無でもあるもの」「有でもなく、無でもないもの」といった存在性が確定していない第三の項は全く想定不可能であるということである。

「空」を、「有でもあり、無でもあるもの」「有でもなく、無でもないもの」といった言語的な破綻によって表現することは、我が国の仏教学者にも良く見られ、実際にそうした表現は、ナーガールジュナの『中論』(Madhyamakakārikā)やアールヤデーヴァの『四百論』(Catuḥśatakakārikā)をはじめとする論書に頻出していることも確かである。般若心経の有名な「色即是空・空即是色・色不異空・空不異色」といった表現も、通常の言語の意味空間を破綻させることで、ある質量をもった「有でもなく、無でもないもの」ではない第三の次元である「無自性空」「縁起」を表現しようとする傾向は、かなり一般的である。しかしこうした言語的な破綻を故意に作り出す表現は、インド・チベットの論理学では、論理的に正しくなく、存在性が確定している限りそれは必ず有であり、所知であり、知が客体化して対象領域とすることができる対象である、という原則を逸脱することはない。これに対して非存在性が量によって確定しているものは、必ず無であり、所知ではなく、知が決して対象領域とすることができないものであり、有無は完全に相反し両者であるもの・両者でないものという項は存在しない。

このことは無限定に「有でもなく、無でもないもの」という表現がなされている時に、それは常にある限定を伴った有無、すなわち、aとして有るもの、あるいは主体Sにとって有るものかどうか、という問題として考えなければいけないということになるのであり、中観派が表現する「有でもなく、無でもないもの」とは「勝義有でもなく、世俗無・言説無でもない」と述語部分に付加された限定が意味上付加されているという厳格な規則を決して逸脱してはいけない、ということになる。有無をどのように定義するのか、ということは、ダルマキールティの『量評釈自注』に詳しくそれが正しい認識によって認識されていないものは無であり、その逆のものが有であると論理的に説明されるのであり、中観派や唯識派の思想表現としての勝義有・世俗有の場合でも、この考え方が同じように適用されて考えられなければならない。しかるにインド・チベットの論理学の伝統を保有する文脈では、有・無はあくまでも相反概念であり、「有でもなく、無でもないもの」という第三の項は想定不能であり、有名な般若心経で説かれている「色即是空・空即是色・色不異空・空不異色」(rūpaṃ śūnyatā, śūnyataiva rūpam. rūpānna pṛthak śūnyatā, śūnyatāyā na pṛthag rūpam.)に関してもそこにすべて「五蘊もまた自性空である」(pañca skandhāṃstāṃśca svabhāvaśūnyān samanupaśyati. 五蘊皆空 )の「自性」(svabhāva)という限定語が意味上結合されるべきであると解釈し、唯識派であれ、中観派であれ、ある存在が存在している、という表現がなされる場合に、その存在そのものが限定を付加されているものなのか、あるいは無限定に単に存在していると述べているのか、この峻別は哲学的な存在論を議論する上で、極めて重要な話題となる。

いずれにしても、ここではすべての法、知が対象領域としているすべての対象とは、どのようなものであり、それはどのような名称によって表現されるのか、そしてそれがすべての法の分類の根となるものであることを本偈では説明している。ここで「所知」とは、知るべきものであり、知られる対象であり、知ろうとしているものであるが、そのすべてを正しく直接知覚しながら知っている知が仏の知にほかならない。ここでは法数を数えて分析を行う基体であり、それらがどのような概念と同義の関係にあるのか、ということを完結に提示しているに過ぎないが、実際にこれらの概念が同義であることを論証するための仏教論理学の多くの典籍を紐解いて、分析的な思考を繰り返さなければならないが、最終的にそれらの議論が拠って立っている基本原則は、これらがすべて同義であり、それぞれの視点の違いによって表現の違いが起こっているのに過ぎない、ということを正しく理解していることによって理解を深めていくことができるものとなるのである。

ダルマキールティ(法称)はディグナーガの『集量論』の注釈『量評釈』をはじめとする七部の論理学書を書いて仏教論理学を大成した。

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