2020.07.04
ལེགས་པར་བཤད་པའི་ཆུའི་བསྟན་བཅོས་ལུགས་གཉིས་རླབས་ཕྲེང་བརྒྱ་ལྡན་

希有な存在を死後も継続するためにいまを生きる

『水の教え・波打つ数の二つの教え』を読む・第94回
訳・文:野村正次郎

生まれる門は六趣の無辺にあるけれど

八有暇を全うするのは稀有なことである

河は無数に流れているけれど

八つの功徳のひとつずつに過ぎない

94

須弥山から持辺山に至るまでの七つの内海や、極楽浄土などの仏国土を流れている水には、八つの良い性質があり、それは清涼で、美味であり、軽やかであり、まろやかな味であり、澄んでおり、悪臭もなく、飲んだ時に喉を損わず、胃腸を損なわない、という美しい水であると言われれている。そのような美しい水で満たされていることから、その七つの海には龍たちも安心して遊び戯れていることから、その海のことは「遊戯海」とも呼ばれる。このような美しい水がある場所は大変稀少なものであり、通常良い水が流れているとされている河であってもそれらの功徳をすべて備えていることはない。

これと同じように三界輪廻のなかで、善知識に師事して求道する者は、八つのゆとり(有暇)と十の良い条件を備えた(十具足)人間に生まれている者である。

「八有暇」とは、「八難」を逃れ、ゆとりのある状態を指している。「八難」とは、(1)誤った見解をもっていること、(2)畜生に生まれていること、(3)餓鬼に生まれるていること、(4)地獄に生まれていること、(5)仏法に触れることのできない辺境の地に生まれていること、(6)宗教弾圧の国に生まれていること、(7)精神障害や言語障害をもっていること、(8)長寿天に生まれていることの八つを指している。地獄は熱さや寒さで修行をする余裕がなく、餓鬼は飢えと乾きでその余裕がなく、畜生に生まれるならば捕食をせざるを得なかったり、言語能力がなかったりし修行をする余裕がなく、辺境の地に生まれれば、仏法に触れる機会もなく現世の利益だけを考えて人生を過ごさなくてはならず、宗教弾圧の地域においては出家もすることができず、言語能力がなければ聞思修もできず、長寿天に生まれていれば、快楽に耽溺するあまりに修行をする余裕がない。

「十具足」とは何かといえば、それは5つの自己の環境要因(自具足)と、5つの外部の環境要因(他具足)に分けることができるが、自己の状態としては、(1)人であること、(2)仏法のある中央の地に生まれていること、(3)精神障害や言語障害や生来の身体障害がないこと、(4)両親を殺すなどの無間罪を犯してないこと、(5)三蔵に対する信仰をもっていることの五つのことを指している。5つの外部環境要因とは、(6)如来が降臨していること(7)諸仏や諸師が仏法を説いていること、(8)仏法が滅亡していないこと(9)賢者の行いに見習って行動する権利が保障されていること、(10)修行者に対する敬意が社会にあり、生活支援があること、という5つの環境要因が必要となる。

ジェ・ツォンカパは『菩提道次第論』において、これらの「八有暇十具足を備えた人身という所依」を得ていること自体が一大事であり、これらの所依を得ている限り、来世以降のことを目標とした修行を直ちに始めることができる、と述べている。畜生や神などに生まれ現世利益のために一時的に善業を修めることはできるが、この人身は、その所依において来世以降に解脱・一切相智を目指して修行に継続的に励むことができる、という決定的な殊勝性を備えていると述べている。「有暇は得難く寿命も余裕がない」ということを考えて、現世利益への期待感や希望を捨て、来世以降のことに励んではじめて、それは修行であるといえるということも、そこでは述べられている。ジェ・ツォンカパたちの伝統的な解釈によれば、現世利益のために祈祷をしたり、灌頂を受けたり、瞑想などに励むことは、これは宗教とはいえないし、仏教でもない。仏教とは、少なくとも来世以降も再びこの有暇具足を得て、最終的には解脱と一切相智にいたるための精神の発展を目指したものでなければならない、ということを強調している。

しかるに、たとえば、旅行をするのが好きなので巡礼をしたり、健康のためにヨガを習ったり、最近流行っているのでマインドフル瞑想を体験したり、精進料理を食べて座禅体験をすることや、美術館や博物館に行って仏教美術を鑑賞したり、仏教の思想史や哲学を学んで、学術的に研究することも、すべては自由であるし、それらは善業であることは確かであるが、それらはあくまでも現世利益なのであって、これは仏教の文脈上は、仏教を実践していることではないのである。仏教を実践する、ということは現世利益の希望や期待をすべて捨て、最低でも来世以降に再び「八有暇十具足を備えた人身という所依」を得ることを目標として行う「後生の一大事」に励むことにほかならないのである。

このような意識は、チベットの人たちの心に深く根付いている意識である。チベット人たちは歳をとり老いていくに従って、来世に再び観音菩薩に祝福されたチベットの地に、観音菩薩の所化として再び生まれたいと心より願いつつ、毎日観音菩薩の真言を唱えたりする。そしてその純粋な気持ちを継続するために、はやくに家族に財産を譲り、老後は祈りの生活へと移行する。自分たちが長生きしますようにと祈るのではなく、観音菩薩の化身であるダライ・ラマ法王が長寿でありますように、そして観音菩薩の慈悲の力で一切衆生が救済されますようにと祈るのである。

世界でもっとも天空に近い場所に生まれ、ヒマラヤの清涼なる雪解け水を飲み育った人たちは、そうやって人生を、死後の希有な自分を考えながら生きている。そのような場所に生まれていること自体が、何か特別なことであることはきっと事実であろう。

本記事は現在世界的に拡大している新型コロナウイルス感染症の早期終結を祈願し、毎日1偈チベットの箴言を翻訳して連載して、配信しているものです。


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