2020.10.28
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

二百八十二億人の明日へ

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第3回
訳・文:野村正次郎

君は透明な湖に百の花弁を開いている

それはまた陽光によってさらに発光する

君は澄んだ霽空で星たちを護っている

それがまた茉莉花の園に光を注いでいる

君は相好の眩しい光の環の中心にいて

君を視つめる衆生の心を瞬時に奪っている

大慈の主 君へ 幾世でも私は跪かん

どうぞ私の頭頂を荘厳し給わんように

3

今日という名で呼ばれる現在を私たちは生きているが、これはいつも必ず明日という未来へと向かいつつあるものである。眠りから目醒め、今日という日を迎えた時、明日へと向かう今日という日をどう過ごそうかなと静かに考えてみる。一日というこの現象は、壮大な自然のドラマとともにある。孤独でちいさな私たちのドラマもその一場面である。

朝の光とともに、泥まみれの底なしの湖の、透明な水の澄みきった姿は照らし出されている。濁った泥に根を張っている美しい蓮華の花弁は、威風堂々と大きな花弁を美しく開いている。太陽の光が強く蓮華を照らせば照らすほど、蓮華の花の威風堂々とした姿は、ひとつひとつの花弁の輝度を高めてゆき、眩しいほどの威光を今日という一日にもたらしている。

その今日という一日の日が沈んでいく頃に、西の空を赤く染めている太陽の細君である白い月が反対側から昇ってくる。辺りは夕闇から静かで暗い夜へと変わっていくが、太陽の細君である月光は澄み切った夜の空で、小さな星たちが消えてしまわないように守っているように、偉大な姿を見せてくれる。月影に薫る純白の茉莉花が照らしだされ、深く暗い闇ではなく、静寂に囁く反響を奏でながら、明日という日のために月影が注ぐ大地の上に、静かな白い薫りが立ち込めた楽園をつくりだしている。

この壮大な一日のドラマが毎日繰り返されている。地上では愚かな人間たちがどんな下らない乱暴なことを言い合っていても、この一日のドラマは明日をどう生きるべきか、という私たちの陳腐な問いに対して、圧倒的な光の塊となって静かに応答している。私たちがそれをじっと視つめるとき、その問いには、これからの方向性の答えがあり、私たちはたとえ死んでしまって見知らぬところに生まれても、彼らの偉大な愛情はいまと同じようにこの地上に降り注いでいる。

禅宗では「明歴々露堂々」というが、秋の夜は時には寂しく絶望という魔がさすこともあるかもしれないが、そんなに捨てたものではない。チベットのように長く厳しい冬がこれからやってきても、必ずやさしく薫る春風は吹く。今日という日はなかなか上手くいかないかも知れないが、決して恐れる必要はない。何故ならば、昨日までもそんなにうまくやってきた訳でないからである。

昔谷川俊太郎さんが詠んでいたように、私たちのいるここは、日本のなかで、この日本は地球のなかにあり、この地球は宇宙のなかにあり、そして私たちは二十億光年の孤独に住んでいるが、とりあえずくしゃみでもするしかない。肌寒い秋の日は、とりあえず寝床から起きて、くしゃみでもして、今日という日は、少し温かい服を箪笥から出してきて過ごしてみるといいだろう。

私たちの今日には釈尊の教えが示されており、私たちの明日には弥勒仏が必ずやってくる。弥勒仏の初転法輪は九十六億人、第二転法輪は九十四億人、第三転法輪は、九十二億人の弟子がいるという。私たちいまの地上の七十億人の人類は、この二百八十二億人の弟子のひとりになれればいい訳である。もちろん他の衆生たちもいるので多少狭き門のような気もするが、いま幸いに釈尊の教化の対象の七十億人の人類のひとりなので、二百八十二億人の仏門はそれほど狭くもない気もしてくるものである。


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