2018.11.24

すべての苦しみから解放されるため、般若心経を唱える

ダライ・ラマ法王談話 2018年11月22日 『平安・平和への祈り in 福岡』 於 南岳山東長寺
訳・文責:野村正次郎
2018年11月22日、ダライ・ラマ法王は福岡をご訪問なさり、南岳山東長寺を拠所とする法要『平安・平和への祈り in 福岡』へとご参列なさり、近年の災害で亡くなられた方々のために『般若心経』『極楽往生請願文』を読誦される追悼法要を行なってくださいました。以下その時の法王猊下の談話を翻訳しましたので、ご参照ください。
ダライ・ラマ法王のお側に席をもうけて頂いたゴペル・リンポチェとアボ(写真・共同通信)

本日、有名なこの御堂で一同に会し、みなさまと般若心経や摩尼真言を誦える機会をもてましたのは、大変素晴らしい機会でした。我々チベット人職衆もみなさまと同じように『般若心経』を誦えました。次に、この地域で最近発生した災害で亡くなられた方々のために、彼らが極楽浄土へと往生することを主な目的とし、さらには彼らの心の空性の証解や菩提心といった功徳が生じること、そのために善悪の道を正しく示してくれる善知識へ彼ら来るべき世においても正しく師事することができて、罪苦に支配されないよう祈りつつ、『極楽往生祈願文1』を唱えました。

この『極楽往生祈願文』は十四世紀のチベットのジェ・ツォンカパが著されたものです。彼はチベットにおけるラマたちのなかでも、偉大なる学者にして持戒者で、その学識は、ナーランダー僧院の賢者たちに匹敵します。

この願文に関する私自身の気持ちを少しお話ししておきますと、物故者の追悼祈願の際、この願文を唱えるのはチベットでは大変普及してます。追悼法要における導師となるものは、『極楽往生祈願文』を暗唱しなくてはならないことになっています。私も出家したばかりの七歳頃、導師を勤めなくてはならないこととなり、この願文暗唱しなくてはいけませんでした。その時には随分と緊張したことを覚えています。その法要では職衆の僧侶も一万人ほどおりましたし、私も大勢の僧侶の中心でたったひとりで暗唱しなくていけませんでした。当時はマイクなどもありませんので、別席の経頭が唱えるのについていくわけにもいきません。途中で思い出せなくなってしまい、止まっても誰にも気づかれませんが、七歳でこの願文を暗唱しなくてはならず、大変緊張ししたのです。ですからいまも私はこの願文を唱えるたびに、常にその時の緊張感が蘇ってきますし、今日も経文を唱えながらそう感じたところです。

ジェ・ツォンカパ は『了義未了義判別論・善説心髄』と呼ばれる、中観思想や唯識思想に関する詳細な著作2を残されています。近年ベナレスのサンスクリット語学の教授とチベット人のゲシェーが共同でヒンディー語訳しています3。監修者のトリパティ教授4は、私の知人で、サンスクリット学者ですので、私は彼に「みなさんは『善説心髄』を翻訳しましたが、その著書のチベット人はナーランダー僧院の学者たちに匹敵すると思いますか。」と質問しました。彼が応えてくれるには、「『善説心髄』の著者であるチベット人は、ナーランダー僧院の学者たちに匹敵するということだけに留まるような方ではありません。ナーランダー僧院の学者たちのなかでも最高峰の学者だと思います。」とのことでした。彼がそう語ってくれるほど、ジェ・ツォンカパ は偉大な学者ですし、その方が書かれたのがこの『極楽往生祈願文』なのです。

本日の供養法要は、主に最近の地震や豪雨災害といった非時の外縁の苦を経験をした方々のために行ったものです。そしてここで『般若心経』を読誦したことには、とても大切な意味があります。仏教にはそれ以外に儀軌もありますが5、『般若心経』を唱えて追悼祈願をすることには特別な意味がありますので、それをお話ししておきます。

仏教は、四聖諦を説き、苦を説くものです。苦には苦苦・壊苦・行苦の三つが説かれていますが、苦しみというものは、原因がなくして偶然起こったものではありません。苦しみというものは、私たちを不快にさせて、私たちに悩ませるものです。そして私たちだけではなく、他者をも不快にさせて、悩ませるものです。そして、そのようなことが起こることには、原因があるのであって、原因によってそれらは起こっています。その原因を「非徳業」(有漏悪業)と呼んでいます。

「非福業」が「苦苦」をもたらすように、〔人天に生まれることなどの〕「増上生円満」と呼ばれるものは壊苦であり、これは「福業」(有漏善業)に起因します。また〔色界・無色界などの〕「上界における無記受6」は「不動業」に起因し、苦苦は「非福業」や「罪業」に起因します。「罪業」は、主として心を律していないことを因として、その根本には「煩悩」があります。煩悩には三毒があり、その中心は「痴」です。「痴」たる真実執着は単なる無知や分からないということではなく、それは転倒した誤った理解のことを指しています。そしてその対治が空観です。

諸法実相を転倒して理解する誤った認識が根源となっており、それを原因として苦しみをもたらす業を積むことになります。これが苦の原因、つまり「集諦」と呼ばれる、業と煩悩の二者です。苦因に対する究極の対治が空観です。『般若心経』は「色即是空。空即是空。色不異空。空不異色。」と空性を、二諦に関連しながら説いていますが、この空性を修習すれば、すべての苦しみの原因として活動している無明を弱体化させることができ、煩悩の直接の対治となる訳です。

このような理由から苦しみの渦中にいる者たちに対し祈りを捧げる時、『般若心経』で説かれていることに思いを巡らせることが重要な意味を持っている、ということができます。そしてそれは実際に効果があります。同時に私たち自身の個人的な苦しみに関する問題も、自分自身に苦の発生を抑制し、、苦から解放されるために最大の効果を期待するものとして、空性を思うことは極めて重要です。同時に、自分自身のことに留まらず、無辺無量の一切の衆生たちのことを思い、他者を利す究極の志たる、自己よりも他者を愛す菩提心を空観と統合しなくてはなりません。もしこの二つを統合させて各自が実践するのならば、短期的には個人的な快楽を期待することができますし、長期的には幸福を実現することができます。そして最終的には一切智者の境位を獲得することができるのです。他者の立場にたって考えても『極楽往生祈願文』の本文にもあるような、自分が思い出すことができる限りの隣人たちや知人たちに対して、必ず利益があるといえます。

こうした理由からも、本日『般若心経』をみなさんと共に唱えることができたことは、大変素晴らしい機会であったと思います。心より御礼申し上げます。何かご質問などがありましたら、お答えしたいと思います。

質疑応答部分に続く

  1. ジェ・ツォンカパによる阿弥陀如来の西方極楽浄土往生に関する著作の請願部分だけを『極楽往生祈願文』という。Cf. ツルティム・ケサン/小谷信千代「チベットの浄土教」『浄土仏教の思想』第三巻、講談社、1993年。 ↩︎
  2. ジェ・ツォンカパ ・ロサンタクパが一四〇七年に著した主著のひとつ。文殊菩薩の啓示によって書かれたこの書は、仏陀の教えのそのすべての了義・未了義を判別するのに『解深密経』に基づく唯識派の立場と『無尽慧経』に基づく中観派の立場とに分け、それぞれの思想を詳しく解説している。 ↩︎
  3. Neyarth-Nitartha Vibhangsastra Subhasitasar of Sumatikirti Tsong Khapa, transl. into Hindi and ed. by Yeshe Thabkhey. Central University of Tibetan Studies, Sarnath, 1998 ↩︎
  4. THE DALAI LAMA TIBETO-INDOLOGICAL SERIESを監修しているProf. Ramshakar Tripathi教授のことであろう。Tripathi教授はダライ・ラマ法王と共同で著作を出したり、経量部の思想をチベットに伝わる伝承をもとに再構築する研究などを行なっており、大変有名である。 ↩︎
  5. チベット仏教で葬儀や追善法要を行う際には、般若心経はそれほど一般的なものではなく、薬師如来の儀軌や八大祈願文、さらに転移法(ポワ)などが密教の儀式としては普及している。 ↩︎
  6. ここでダライ・ラマ法王が説いている福業・非福業・不動業といった三業は『阿毘達磨倶舎論』や『瑜伽師地論』などで詳しく説かれるものである。 ↩︎


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