2018.11.27

今世紀の仏教徒として日本人が取り組むべきこと

ダライ・ラマ法王談話 2018年11月22日 『平安・平和への祈り in 福岡』質疑応答 於 南岳山東長寺
訳・文責:野村正次郎
2018年11月22日、ダライ・ラマ法王は福岡をご訪問なさり、南岳山東長寺を拠所とする法要『平安・平和への祈り in 福岡』へとご参列なさり、近年の災害で亡くなられた方々のために追悼法要を行なってくださいました。以下その時の法王猊下の質疑応答部分を翻訳しましたので、ご参照ください。〔談話部分はこちら

質疑応答をなさるダライ・ラマ法王(撮影:Tenzin Choejor・写真:www.dalailama.com)

質疑応答

【質問】私は山口県から参りましたが、山口県の出身者として西川一三(1)、チベット名ロサン・サンポという方が居られます。彼は法王猊下がまだ十代の頃に昭和天皇と東條英機の親書を持参してチベットへ入ったとのことです。当時のことについて何かご記憶はございますでしょうか。

小さい時、ラサに彼の写真の写真がありましたが、詳しくは知りません。先代の十三世法王の時代から日本との関係は重視され、関係の構築に努力されしてきたように思います。

【質問】チベットは中国から侵略され、今日に至りますが何か対策は取られてますか。

1950年頃からカム地方からチャムドまで侵攻されました。チャムドに駐留していた中国軍は「軍隊」とは呼ばず「チベット平和解放部隊」と呼ばれていました。それらが駐留している状況のなか十七箇条の協定が結ばれました。中央人民政府とチベット地方政府との間に、十七箇条の和平協定(2)が締結され、彼らはそれを「チベット平和解放」と呼んでいます。当時から今日まで70年の間、時には強く抑圧されている時期があったり、抑圧が緩和されている時もありますが、その状況が続いています。現状はそのようになっていますが、チベット人の勇気と志には何ら変化はありません。

【質問】苦しみとは成長にとって必要なものなのでしょうか。必要だとするのなら、その苦しみの経験を慈悲へと変えるにはどうしたらいいでしょうか。

釈尊は成道してすぐに次のように説かれました。

甚深寂静 離戯論 無為光明
この甘露の如き法を私はここに得た。
しかし誰に説いても理解されないだろう
それ故に沈黙しそのまま森を住処としよう(3)

釈尊は、一般的な歴史観(4)に基づけば、当時の3000年続いてきた、インドの止観に関する精神哲学を検討し、6年間の苦行をなされました。また当時のインドの宗教的伝統があるなかで、ご自身で実践分析し、御自身の特別な体験である「ブッダになる」という偉業を成し遂げられています。しかし当時の一般的なインド社会ではそれは「甚深寂静にして…〔誰に説こうとも分からない〕」と説かれるものでした。

この偈について、私は「甚深寂静」という部分は初転法輪が表現され、「離戯論」(5)という部分で中転法輪、「無為光明」という部分で後転法輪を説かれたと解釈しています。釈尊が成道なされた直後に説かれたこの偈頌は、その後のすべての転法輪をまとめて示唆なさっていると思われます。

高麗版『方廣大莊嚴經』卷第十・大梵天王勸請品

釈尊はその後にバーラーナーシーの地で四諦法輪を転じられました。四聖諦を説かれる時には、まずは四聖諦とは何か、そしてそれをどうすべきなのか、その結果どうなるか、苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦について説かれています。ブッダの説法の基礎となるものはこれです。

私たちはみな、小さな虫や微生物(6)にいたるまで、苦しみたくない、幸せになりたいと願っています。では苦しみをなくすことは可能なのかといえば、それは可能なのです。苦しみは、原因と条件に依存して起こっています。原因と条件の根本には、先ほど申し上げた無明があります。無明というこの誤った認識は、もしも現実の事実を正しく理解できれば、その時誤解を払拭できるのです。これは心の本性として働いているものではないからなのです。

過失がこのように払拭可能であるからこそ「滅諦」というこれが説かれているのです「滅諦」は実現可能なもので、獲得可能なものですし、苦の原因を断じたことで苦しみを離れている状態は実現可能です。だからこそ、それを実現すべき対象、目的として、それを獲得させる「道」が説かれており、集諦のうちの煩悩集諦、そしてその根本である痴たる真実執着に対して対治として働くもの、それが「道」であり、それを修習することで滅諦が現証できると説かれているのです。これは非常にまとまっていて素晴らしい教えではないでしょうか。

まずは四諦とは何か、ということを説かれ、それに続けて、それをどうするべきか、ということについては

苦を知るべきである。
集を断じるべきである。
滅を現証すべきである。
道を修習すべきである。

と説かれています。さらに中転法輪へと導くために

苦は知るべきものであるが、知られるものは無い。集は断じるべきものであるが、断じるべきものは無い。滅は現証すべきものであるが、現証すべきものは無い。道は修習すべきでものであるが、修習すべきものは無い

とその為すべきことを為した結果も同時に説かれており、これが仏教の基礎となります。

その次に般若経で空性が詳しく説かれます。空性が説かれるているのと同時に、空の基体となる有法が言及され、それによって広大行道のすべてが説かれています。『現観荘厳論』には、日本語訳もあるので、それを学ぶといいでしょう(7)。そこでは十地・五道・六波羅蜜等は一体何か、ということが『現観荘厳論』(Abhisamayālaṅkāra)ですべて明らかにされています。これらは般若経で、空の基体として言及され、基体・道・果に関する実相が説かれるのです。般若経には口承の伝統的として「直接説示された空性次第」と「隠密義たる現観次第」と言われます。「直接説示された空性次第」(དངོས་བསྟན་སྟོང་ཉིད་ཀྱི་རིམ་པ་)は龍樹(Nāgārjuna)が明らかになされたものですし、「密義たる現観次第」(སྦད་དོན་མངོན་རྟོགས་ཀྱི་རིམ་པ་)は、弥勒の口伝に基づいて無着(Asaṅga)が明らかになされています。

その次の後転法輪ですが、その代表的なものとしては『解深密経』があります。これは般若経で「色は無い。声は無い。香は無い。味は無い。…」で説かれる言葉をその言葉通りに受け取ると不都合だと感じる者たちに対して「〔相無自性・生無自性・勝義無自性の〕三無自性を意図して〔中転法輪で〕無自性が説かれた」とする唯識派の思想を説かれています。そして後転法輪で説かれた経典としてさらに『如来蔵経』等の種類のものがありますが、弥勒が『宝性論』で説明しようとした根本経典であるこれは、心の明知の規定がどのようなものなのか、ということが説かれたものです。中転法輪では「客体たる光明」が説かれたのに対して、後転法輪では、「主体の光明」が説かれたのです(8)

宗教というものは、おそらく四千年前にインドで発祥したものが最初ではないかと思います。すべての宗教は慈悲を説いており、それは人間にとって役立つものです。思想面や実践面では、創造主を認める宗教的と創造主を認めない宗教との二つの伝統があり、また思想や実践の面では様々な違いがあります。たとえばサーンキヤ学派やニルグランタ派(9)や仏教では、創造神を認めていません。釈尊ご自身も次のように説かれています。

牟尼たちは罪業を洗い流すのでもなく
彼らは手で衆生の苦を取り除くわけでもない
彼らの覚りが他者に与えられることもない
法性の真実を説くことで解脱させる(10)

チベットでインドから仏教をチベット語に翻訳したもののうち釈尊ご自身のお言葉である「仏説部」(カンギュル)のみだけでも100巻ほどあります。そして龍樹等によって注釈され著された「論疏部」(テンギュル)が225巻ほどあります。その大部分はサンスクリット語から翻訳したものです。パーリ語からのものもあります。そしてチベット人の学者たち自身が仏教について著された注釈書群は、おそらく10,000巻以上あります。

【質問】本日、阿弥陀如来の極楽浄土へ成仏するための往生祈願文をお唱えして下さったとのことですが、その方々は輪廻から脱したと考えていいでしょうか、その場合には、その方々は、自分たちの行為によってではなく、我々の祈りや願いによって、それが叶ったと考えるといいでしょうか。

基本的には〔死者の〕各人の個々の業に依存していることです。しかし〔祈願によって他者が〕直近の縁を作り出すことも可能です。

たとえばいつも罪業ばかり積んでいる人が、直近の動機がもしも善いもので、その直近の縁の力で、もともと悪趣へ転生する予定の人が、善趣へと転生する場合も有り得ます。もちろん業果の微細な次第は、一切智者(仏)のみぞ知るところですから、それについて語るのは困難です。

しかし、本日のように私たちが祈願を為したことが、それらの縁を形成する可能性は必ず有ります。また基本的に各人の業に依存することですが、人間であれ、どのような生物であれ、すべての有情たちは、その心相続に、無限の過去世から積集してきた業の習気が〔無限に〕存在していますので、善業の習気が全く無いという場合もまた決して存在しません。

不善業の習気が非常に沢山あっても、こうした縁が形成され、既に積集した善業の習気を異熟させることを目的とした、その果を生じさせるために善意による行為によって、その縁を形成することができるのです。悪趣に転生するための不善業が何千もあったとしても、一つだけ善業がある時に、その善業を異熟させるため、善業たる縁を作り出し、そのことによって善果を生起させることは可能なのです。

【質問】法王猊下はこの地球に生まれて来られてよかったとお考えですか。そして次も喜んでこの娑婆世界にお戻りいただけるのでしょうか。

私が常日頃祈っているのは、龍樹が『宝行王正論』で

地 水 火 風
野の薬草 そして樹々のように
常に一切有情たちが私を恣にし
妨げられず利用できますように

有情たちを自分の命のように愛し
自分よりも彼らをもっと愛せますように
私に彼らの積んだ罪業が異熟し
私の善のすべてが彼らに異熟しますように

たとえ僅かの衆生であっても
彼等が解脱していないその限り
彼等のために無上菩提を得ても
留まり続けることができますように(11)(V k.83-85)

と説かれているものです。

【質問】人間の幸福には物質的なものと精神的なものとのバランスが必要かと思われます。昨今の経済グローバリズムは精神世界を蝕んでおり、所謂格差社会が生み出されていると思います。そのようななかで、果たして宗教が、経済のグローバリズムが貧富の格差を作り出していることに対して、どの程度対抗できるとお考えでしょうか。宗教者はそれに匹敵するような精神的世界を構築できるでしょうか。悩ましい状況ですが、ご指導をいただけますようお願いします。

おっしゃることは事実だと思います。現代文明の知識は主に西欧から流布しているもので、近現代の教育は、物質的発展のみを目的としてきました。みなさま日本の場合もそれは例外ではなく、日本人のみなさまも、常に西欧に対してばかり、常に関心をもち意識してきたのだと思います。欧米で流行している知識を身につけることで物質的発展ばかりを目指し、現代文明の知識に基づいて、物質的な生活、物質的な文化を築いてきたのではないでしょうか。しかしこうした文明に生きる人たちには、精神が混乱してしまっている人たちが大変多くいることも確かです。物質的な発展ばかりを目指し、精神文明と関係した心の平安について学んだことがない人が多いのです。

たとえばキリスト教では神に祈りを捧げるだけで、止観のような自らの精神を変革しようとはしません。精神文明と関係する学問で思考するのは、インドに由来する文明です。歴史的に日本は仏教国で、中国もまた仏教国ですし、現在の中国には信教の自由が保障されていませんが、台湾や日本の状況ではそれは良いものです。だからこそ、日本人のみなさんは精神文化と関係する心の平安の実現法についてもっと関心を払うべきだと思います。

精神文明と関係する心の平安を実現するためには必ずしも宗教や信条をもつ必要はありません。インドには「セクラー」(secular)という考え方があり(12)、これはすべての宗教や信条に対して、平等に敬意を払うのと同様に、宗教や信条を持たない人たちに対しても敬意を払わなくてはならないという、インドの考え方です。

この考えは、この世界の70億人のすべての人に応用することが出来るものです。宗教・信条をもつ人だけに限定してしまえば、世界70億の人口には数10億人のそれを持たない人々が居ますし、人間として幸福を追求する権利をもっています。世界中の様々な場所で私はこのことに関心を示して下さる方に「外側の世界ばかりについて思いを巡らせるのをやめましょう。もっと内側へと視点を向けて、心や精神にもっと関心を払わなくてはいけません」そう重要性を強調してきました。

現代の量子物理学(13)を例にしますと、それは西欧から広まったものですが、元々量子科学は、インドで広まっていたとも言うこともできます。ある知人のインド人の原子物理学者は「量子物理学は西欧人にとっては目新しいものかも知れないが、インドには2500年前の昔から有る。」と言っていましたが、これは真実だと私は思います。量子物理学は、既に唯識派の思想で明確に説かれているものです。最近中国人科学者が、量子物理学に関心をもつ人は、思考を行う際、その導入部分で働かせる分別知の把握力が、関心を持っていない人に比較すれば弱い傾向にある、という趣旨の論文を発表しており、私もそれを眼にしました(14)が、この興味深い例のように、量子物理学に基づいて、私たちの思考に変革をもたらす方法もあるのでしょうし、それは大変素晴らしいことです。特定の宗教と関係しない、大変良い事例かと思います。

仏教では、心を変革する方法が、驚くほど膨大に説かれています。キリスト教をはじめとする創造神を認める宗教では、創造神に対し祈りを捧げる方法以外に、自己の心を止観等の方法で変革することは説かれませんが、アジアでは止観などの方法で心に変革を起こすことが伝統的に説かれているのです。日本にもこの伝統はもちろんありますし、皆様もこれにもっと関心を払うべきだと思います。

創造主を認める宗教は、創造神に対し祈りを捧げます。神のことを「父」として考えます。そしてこの世界の70億の人間は、唯一の「父」の「子」であるとしています。深く考えるとこれはとても有意義な教えなのです。「父」なる神は愛を本質としています。ですのでその「子」である私たちもまた、互いに愛し合う必要があると教えていますし、その教えは大変素晴らしいものです(15)。しかしながら、哲学的な思想や実践面での説明をしなくてはいけないのならば、やはりインドの伝統宗教の方がはるかに詳しく広大に取り組んできたと言わざるを得ません。

これは私がいつも語っていることですが、私たち仏教徒は今日「21世紀の仏教徒」とならなくてはなりません。チベット人にも、中国人にも同じように伝えています。みなさん日本人にも同じように伝えたいです。

私たちは「21世紀の仏教徒」とならなければいけない、ということはどういうことなのでしょうか。それは教義を学習し、仏教の思想や実践が一体どのようなものなのかを理解し、その上で、仏教に対する信仰をもたなくてはならないということです。それができるのが、「21世紀の仏教徒」と言えると思います。

仏教徒として、たとえ信仰があっても、仏教が何かを知ろうとせず、仏教を学ぶこともなくそのままならば、私たちはこれまでの過去の時代の人たちと何ら変わらないことになってしまいます。仏典には「鋭根の随法行者」「鈍根の随信行者」という言い方があります(16)が、「鋭根の随法行者」がもつ信仰が、現代の私たちに必要なものだと思います。逆にたとえ随信行者と呼ばれるような信心をもっていたとしても、それは確実なものとはいえません。鋭根の随法行者であるべきなのです。

私はすべての宗教に対し敬意を払い、宗教間の調和と共存を大切に思っています。しかしながら、今日のこの世界にある様々な伝統宗教のなかで、科学者と共に議論をし、お互いに意識を向上させることが可能なのは、一般的に仏教だけなのであり、しかもそのなかでもナーランダー僧院の伝統仏教以外に他のどんな宗教でもそれは出来ないと思っています(17)

ダライ・ラマ法王は常に科学者たちとの対話を大切にされている

ヒマラヤ山脈の周辺にはチベット仏教を信仰する人たちが住んでいます。彼らにも、度々「21世紀の仏教徒」となる必要性を説いてきました。そのことからか、近年ある活動をはじめることとなりました。それはヒマラヤ地域にある寺院に、寺院の規模の大小を問うことなくすべての寺院に、その地域の仏教徒が仏教とは何かを学ぶためのカリキュラムを整備する活動です。彼らはそのために小さな委員会を立ち上げ、私も彼らに会う機会がありましたので、心からの称賛を述べました。

もし私の発言が余計なことだと思われたら申し訳ありませんが、余計なことでないと感じられるのならば、みなさんの日本の寺院でも、継続的に教室を開くといいでしょう。たとえば般若心経の意味を解説し、仏教とはどのようなものなのかを議論していけば、きっと役に立つと思います。

将来的にみなさんが「般若心経は唱えていますが、意味は全然分かっていません」と言わなくてよくなればいいなと思います。意味について語ることができるのならば、きっとそれは役にたつことだと思います。

魚養写『大般若経』奈良国立博物館

みなさんがもしもその意味を語る必要がないのなら、サンスクリット語原文で唱えればいいのであって、わざわざ日本語に翻訳する必要はないでしょう(18)。私たちチベット人は、勉強をするために、サンスクリット語だけをそのまま唱えるのではなく、すべてをチベット語へと翻訳したんです。そのことによって自分たちの言語で書かれているからこそ、学ぶ機会があるのです。サンスクリット語だけで唱えたのでよいのなら、真言を唱える時にはサンスクリット語で唱えていますが、意味は全く分かっていません。たとえば勝楽尊の根本真言を唱える時に「オーム・カラカラ・クルクル・バンダ・バンダ・ターサヤ・ターサヤ…」と口にはしてますが、聞いても意味は分からないままなんです(19)

今日の学校教育では身体的な衛生学が必要であるとされていますが、それと同じように精神的な衛生学が極めて大切だと思います。

本日はありがとうございました。本寺の御住職をはじめ、会衆のみなさまと法会を共にする機会を頂戴いたしました。心より御礼申し上げます。また来臨の皆様も大いなる関心をもってお集まりいただきましたこと、御礼申し上げます。

談話部分はこちら

注釈   [ + ]

1. 西川一三(にしかわかずみ・1918-2008)は日本の諜報部員として、東條英機より潜入の命令を受けて、1945年にモンゴル人僧侶を偽ってラサに潜入。日本の敗戦後もデプンに僧侶として修行をしながらそのまま滞在して、木村肥佐生などの協力を得て潜入を続けたが、1949年にインドで逮捕され、1950年に帰国する。彼の回想録は『秘境西域八年の潜行』(中公文庫)として出版されている。
2. 「中央人民政府和西蔵地方政府関於和平解放西蔵辨法的協議」
3. Lalitavistara, XXV k.1 (Vaidya ed. p 286): gambhīra śānto virajaḥ prabhāsvaraḥ prāpto mi dharmo hyamṛto ‘saṃskṛtaḥ / deśeya cāhaṃ na parasya jāne yannūna tūṣṇī pavane vaseyam //
『方廣大莊嚴經』卷第十・大梵天王勸請品第二十五:「我得甘露無爲法。甚深寂靜離塵垢。一切衆生無能了。是故靜處默然住。」
4. 大乗の伝統的な史観では、釈尊は成道の相を示現したのであり、この閻浮提世界で摩耶夫人のもとに受胎され降誕される以前より、成道しているとされている。ただしそのような釈尊の伝記は浄業の衆生にしか顕現しないものであり、一般的史観(つまり現在の通常の史実)としては、ブッダガヤで成仏したとされている。
5. ここで法王が引用する「離戯論」とする詩頌のテキストは現行のサンスクリット原典ならびに漢訳では「塵を離れたもの」(viraja)となっており異同がある。チベット撰述文献では「離戯論」とする偈文の方がより有名である。この詩頌は、特に鹿野苑で行われた初転法輪の説法よりも前に、釈尊が語ったことから、所謂『解深密経』で説かれる初転法輪より前の法輪であり、釈尊は四諦法輪よりも時間的に前に法輪を転じられたのではないのか、という議論をする際に問題となる詩頌である。
6. ダライ・ラマ法王の発言の原語は「བུ་སྲིན་」と仰っており、それは文字通りにいうと、昆虫と体内に寄生している微生物のことを指している。ここで例示されているのは、サイズが小さく、そこに感情や意思などといった心の存在が分かりにくく、「有情」として考えにくい小さなバクテリアのようなものに至るまで植物以外のすべての生きとし生けるものということを意味している。
7. 『現観荘厳論』の和訳ならびにそのハリバドラによる『小註』に対する我が国の代表的な研究としては次のようなものがある。
・真野龍海『現観荘厳論の研究』1972年。
・同『般若波羅蜜多の研究』山喜房仏書林、1992年。
・兵藤一夫『般若経釈 現観荘厳論の研究』文永堂、2000年。
・谷口富士夫『現観体験の研究』山喜房仏書林、2002年。
8. 客体たる光明というのは、一切法の真実である空性のことを表している。それに対して主体たる光明というのは、空を理解する知のことを表している。前者は「異門勝義」と呼ばれ勝義諦であるが、後者は「随順勝義」と呼ばれ、勝義諦ではない。
9. ニルグランタ学派とは釈尊とほぼ同時代のマハーヴィーラを開祖とするジャイナ教のことである。厳格な空衣派(裸行派) と穏健な白衣派という二派があることが知られており、裸体・沈黙・五灸などの苦行に基づいて過去に為した一切の業を尽し、業を新たに積まないことで、一切の世間の上方にある「一切世間の集積所」と呼ばれる、白い傘を逆にしたような形の場所へ赴き、そこに住することを「解脱」としている。現在でもグジャラート、ラジャスタン、ムンバイなどを中心に約450万人の信徒を有している。
10. Udānavarga XII Mārgavarga に対するPrajñāvarman注Udānavargavivaraṇa (Derge no. 5601 Tu 72b5-6)に引用されるこの仏説とされているこの偈は、チベット仏教では大変有名な偈であり、ジェ・ツォンカパも『菩提道次第広論』で引用している。『全訳ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドプ倶舎論注『解脱道解明』』(現銀谷史明/ガワン・ウースン・ゴンタ訳。起心書房、2017年)によって典拠が確認されている。(第一章注12)
11. 『寶行王正論 』出家正行品第五(大正No. 1656 眞諦譯):如地水火風。野藥及林樹。如他欲受用。願我自忍受。願我他所愛。如念自壽命。願我念衆生。萬倍勝自愛。願彼所作惡。於我果報熟。是我所行善。於彼果報熟。一人未解脱。於有隨生道。願我爲彼住。不先取菩提。
12. 「セクラリズム」は通常「世俗主義」「政教分離主義」とも翻訳されるが、法王が「世俗」という場合には、「勝義」と対になる概念として、仏教用語として使用するので、これを「世俗」という言葉を「セクラリズム」の訳語として使用することは憚れる。「セクラリズム」はインドではアショーカ王の時代から、すべての宗教を同等に取り扱う考え方のひとつである。インドにおけるセクラリズムは独自のあり方を取っており、政府や教育機関が「無宗教の立場を取る」というものとも異なっている。ダライ・ラマ法王は、「超宗教的倫理」(secular ethics)というものを近年説いており、それは多様性を認め、特定の宗教に依存しない、人類が共通して持つべき倫理観が必要であるということを近年説かれている。
13. 通訳は「量子力学」(quantam mechanics)と訳しているが、ダライ・ラマ法王の発言は”quantam physics”であり、該当する日本語は「量子物理学」である。「量子力学」はシュレーディンガーの波動方程式やハイゼンベルクの運動方程式を基礎に置く物理の数理的理論のことを指し、一般に「量子物理学」とはより広範囲の応用理論のことを指す用語である。ただしダライ・ラマ法王が「量子物理学」とおっしゃっている場合の”physics”という語の使用は、ひろく形而下の自然科学という意味で使用されているように思われる。Cf. 朝永振一郎『量子力学』I IIみすず書房、1952年。
14. 具体的にどの論文かすぐに特定できないが、今回の来日の前にダライ・ラマ法王は、ダラムサラでノーベル化学賞の受賞者である李遠哲教授をはじめとする中国人科学者とも三日間の対談を行っている。量子論に対して大変深く巨みを持っておられ、MIND & LIFE INSTITUTEの主催する科学者との対話をはじめとし、インドで開催された量子論と中観思想との対話など、積極的に量子論との対話をこれまで行ってこられた。それらの成果はダライ・ラマ法王ご自身の著作として、The Universe in a Single Atom. Morgan Road Books, 2005.などが出版されている。
15. ダライ・ラマ法王の発言は、キリスト教的な世界観に立てば、絶対者である神は愛を本質として、70億の人間はその子達であるからこそ、神が人を愛するように、人間同士も同じ神の子として隣人を愛さなくてはならないという教えは、大変素晴らしいと評価するものである。それは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなた方は互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのようにあなた方も互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)という聖書の記述と同趣旨であるといえる。
16. 「随法(行)者」(dharmānusārin)「随信(行)者」(śraddhānusārin)という分類は、部派仏教の時代からあるものであり、パーリ仏典などにも確認される預流の聖者の分類のひとつであり『瑜伽師地論』などにも見られるものである。有名な記述としては『阿毘達磨倶舎論』(Abhidharmakośa)賢聖品のk.29が挙げられる。『全訳ダライ・ラマ一世ゲンドゥンドプ倶舎論注『解脱道解明』』(現銀谷史明/ガワン・ウースン・ゴンタ訳。起心書房、2017年)では次のように説かれている。「その見道十五刹那に住する鈍根のものは、随信行者である。なぜならば、他者を信じ、その人の言葉に随順してたい諦現観する者であるからである。それに住する利根の者は、随法行者である。なぜならば、他者の力を借りないで法たる教説に随順して諦現観する者であるからである。」
17. ダライ・ラマ法王は常にナーランダー僧院で蓄積されてきた仏教の知的体系を、現実世界の事物の実態や精神に関する自然科学的な分野、形而上学的な哲学的分野、そして宗教としての実践に関する分野という三つの分野に分けて考えることを推奨し、前二者は科学者や哲学者との対話や共同作業が可能なものであるとして提示できるものであり、また仏教では創造神による無からの創造を認めない哲学的な立場であるからこそそれが可能であるということを繰り返し説かれている。
18. 母国語にするのは、意味されている内容について考え、語ることが大切であるからという理由であり、意味を考えずに文字づらだけを唱えるのならば、サンスクリット原典を翻訳する必要がないことになってしまう、というのが法王のシニカルな発言の趣旨である。
19. 密教における真言念誦の際には、マントラをサンスクリット語で唱えなければならないが、それだけではなかなか意味は分からないままになってしまう、ということを例に冗談で法王は挙げている。真言それ自体は、音声そのものに力があり、翻訳不可能である、神の言葉であるサンスクリット語の各母音と子音の連なりそのものが秘密の意味を持っており、本尊として生起した修行者が真言念誦を行う場合には、自然言語を話す凡俗の顕現を排し、本尊の語る言葉であるサンスクリット語で唱えなければならない。これについては日本でもチベットでも同じであり、我が国において梵字悉曇学があるのはこのことが最大の理由となっている。