2025.11.28
སྒྲོལ་མ་ཕྱག་འཚལ་ཉེར་གཅིག་གི་ཏི་ཀ་

生命の色である緑色の身体を持たれる救済の君

『二十一多羅多羅尊礼讃経註釈宝蔓』
ダライ・ラマ་1世ゲンドゥンドゥプ著/訳・文:野村正次郎
ターラー菩薩

〔経文〕『二十一多羅多羅尊礼讃経』

唵、主尊聖母多羅尊を礼拝せんおん・じぇつんま・ぱくぱ・どるまら・ちゃーつぇるろ。

〔註釈〕『二十一多羅多羅尊礼讃経註釈宝蔓』

おん」とは帰依する・供養する・不浄を清めん、ということである。「じぇ」とは、三世一切諸仏を産み出される仏母の中で最勝なる者である、ということである。「尊母つんま」とは、外側には別解脱戒を具足し、内側には菩薩戒を具足し、秘密裏には密戒を具足しているということである。「ぱく」とは見所断である不善から遠行なされ、輪廻と解脱を超越しているということである。「」というのは、一切有情を親疎なく衆生利益を平等に為されるということである。「多羅尊どるま」とは、苦海から救済なされる方、ということである。「ちゃく」とは業・煩悩の罪障を清掃するということである。「つぇる」とは身口意の三つで敬い奉る、ということを意味している。

〔解題〕

ここの本文は、この二十一多羅尊に対する讃のすべてを総括する形で釈尊が文殊菩薩に説かれたものであり、この二十一多羅尊は仏説であり、四部怛特羅のなかでは作怛特羅に属するものであるとも言えるが、無上瑜伽怛特羅に属するものであるとも言える、というのが伝統的な解釈である。

釈尊は文殊師利法王子に対して、多羅菩薩を紹介して「文殊師利よ、この仏母は、過去・現在・未来の一切の諸仏の母である。文殊よ、だからこそ過去現在未来の諸仏が礼讃するこの偈頌をあなたは心に留めなさい」と根本呪と合わせて説いた礼讃偈の冒頭の文がこの文となる。

本註釈では、「唵」の一字で、帰依・供養・不浄の浄化を表していると注記しているので、私たちは、「唵」の一字を唱えながら、三世十方の諸仏にこの輪廻から救済して下さいと請願する帰依心を起こし、同時に自己所有のものを提供する財物の供養・行動・言動・思考によって多羅菩薩を礼拝する身口意の供養・多羅菩薩や諸仏の教え通りに実践するという三種の供養をし、それらの所業により、自分をはじめとする無限の衆生たちが無始以来積集してきた悪業を清めん、と思わなければならない、ということを註釈している。

ここの部分は、二十一多羅尊に対する礼讃文の冒頭部分でありダライ・ラマ一世ゲンドゥンドゥプが「総説」にあたるものであると註記するように、礼讃文を二遍、三遍、七遍と繰り返し唱えて念誦する場合には、この冒頭部分から繰り返すこととなる。この偈は総括の偈であるため二十一多羅尊に対する礼讃をすべて唱え念誦することが出来ない場合には、この短い冒頭部分のみをゆっくり観想しながら、繰り返し唱えることも可能である、ということとなる。

多羅菩薩をどのように観想したらよいのか、ということは本註釈に明らかなように、まずは多羅菩薩が護持されている戒体から想像する。

すなわち、多羅菩薩はあらゆる女尊のなかでも最勝なるお方であり、その方は、我々の眼にできる形では、具足戒である比丘尼の戒律を護持されている方であり、その御心には私たち一切衆生を仏の境地に至らしめるために仏とならんとする願心の菩提心と六波羅蜜と四摂事を実践し続けるという行心の菩提心から構成されている菩提心による三聚浄戒を護持している菩薩戒があり、我々の心には現れない秘密に三昧耶戒を護持されているのである。

そのような戒体を護持されている聖者・聖母は他にもたくさんおられるが、そのなかでも彼らが凡夫ではなく、「聖者・聖母」と呼ばれるその理由は、一切法を無我であると現観できる煩悩障を断じた存在であり、輪廻から解脱している出世間の聖者位を実現している声聞・独覚の聖者ではなく、解脱して寂静涅槃に止まって無限の衆生を救済できないのではなく、菩薩聖者として常に無限の化身を衆生の必要性に応じて化現し救済活動を十六歳くらいの美しい女性の姿で行われ、そのお名前も「苦しみの海から救う方」と名付けられている方であると思う。

そのような方を礼拝するのは、私たちの方であるが、多羅菩薩の灌頂や許可を授かっている者であれば、本師と無区別である多羅菩薩の智薩埵を本住処である補陀落宮からお招きし自身に融解するという本尊瑜伽を行うことができるが、灌頂や許可を授かっていない者であっても、浄三業の真言を唱えて、一切法無我空性を観想し、その無我空性を思う意識そのものをもって、いまいる現前の虚空に多羅菩薩いらっしゃると意識を転換させることで、多羅菩薩とその眷属、仏菩薩たちの福田を勧請して礼拝すればよい。

「礼拝」は私たちが行うものであるが、その礼拝とは、ただ単に合掌し低頭するといった動作だけで行うのではなく、自分が無始以来積んできた業・煩悩の罪障、すなわち四聖諦の集諦にあたるものを本日これから死んでいくにあたって、清掃しておかなければならない、そしてその清掃活動も行動・言動・思考によって行わなければならない、と思わなければならないのである。

この冒頭部分の礼讃文を通じて瑜伽行を行うのであれば、主尊である緑多羅尊から行うべきであり、他の二十一尊を記憶から呼び起こすことが出来なくても、緑多羅尊だけでも思い起こすことができればよいだろう。緑多羅尊の緑色は、私たちの周りに現在もある樹々の彩りと同じ色である。それは私たちの生命に活気を与え、その生命の樹々の緑色を感じる力があれば、輪廻に疲弊し、苦しみに喘いでいても元気を取り戻すことができる。私たち人間をはじめとして生物に自然の薬草であれ、豊かさをもたらせてくれる存在は緑色をしている。そしてその緑色の身体をもち、「救います」「助けます」という動詞の音声であるタームという音声からのすべての多羅尊は生起する。

ここの冒頭部分の短い部分は、そのような私たちの思いと三世諸仏の救済活動そのものとの正しい関わり方を説いたものである。「唵、主尊聖母多羅尊を礼拝せん」を唱えるのには十秒もかからないが、この文章は仏世尊が文殊菩薩に対して多羅菩薩をこのように礼讃しなさい、このことばを覚えておきなさい、と教えてくださった大変ありがたい文章である。本日チベット暦の十月八日はこれからゴペル・リンポチェがこのような仏説の文章や儀軌に基づいて、曼荼羅を四度供養して、多羅菩薩と諸尊に日本のみなさんの無病息災・諸願成就・商売繁盛などを祈願してくださる月例の多羅菩薩の縁日である。本記事を読んでくださるすべての方に多羅菩薩と諸尊のご加護があるように願ってやまない。

緑多羅四曼荼羅供

日本別院では、毎月緑ターラー菩薩を補蛇落浄土から招請し、供養マンダラを4つ捧げ、一切の諸仏の活動を促すためのお願いをします。その時にあわせて皆様のお願いごともお祈りします。

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緑多羅四曼荼羅供

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