輪廻の苦しみの中に飛び込むことをやめる


Created: 2015-06-30 Last updated: 2016-01-20 Author:LOBSANG DROLMA

梅雨真っ只中の京都。雨降りでの法話会になるかなと心配していましたが、当日はなんとか雨に降られることなく済みました。雨だと外出は億劫になりますが、雨に濡れた緑は美しいですね。

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今回はツォンカパの『道の三要訣』について3回目の法話でした。

清浄な厭離心が無ければ有海の
楽果の追求が静まる術は無く
有に渇きを覚え 再び身を受けて
束縛されるので 初めに厭離を求めよ

厭離心とは出離心と同じ意味です。厭離心には清浄な厭離心清浄ではない厭離心の2つがあると言われます。厭離心を起こすためには、まず輪廻の苦しみを理解することが必要です。時には三苦を望まず時には望むというのでは清浄な厭離心とは言えません。いついかなる時であったも輪廻の苦しみを見て、それを望まず解脱を得たいと望み続ける心が清浄な厭離心です。それも自分のために解脱を得たいと望むならば声聞、独覚の資糧道に入ったのです。一方で他の衆生のために解脱を望もうとするならば大乗の資糧道に入ることになります。初心者は最初から清浄な厭離心を起こすことは難しいため、徐々に厭離心を強めていくことが重要です。

有海とは、執着によって積まれた業が海の水のように限りがないことを意味しています。
楽には「有漏の楽」「無漏の楽」の2つがあります。有漏の楽とは、業と煩悩に端を発した楽、無漏の楽とは、業と煩悩によらない楽のことです。楽果の追求が静まる術はなくというところの楽果とは、有漏の楽のことです。もし有漏の楽ではなく無漏の楽が欲しいならば、出離を求めなければなりません。我々は業と煩悩によって輪廻を繰り返しています。そこから逃げたいならば必ず出離が必要なのです。

輪廻の苦しみを楽と思ってしまうと、それに執着してそこから逃げようとは思えません。蛾は明かりに集まる習性がありますが、蛾が灯明の火を見て危険と思わずに飛び込み焼け死んでしまうと同じように、私たちも輪廻の苦しみを楽と思ってそこに飛び込んでしまうのです。

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我々が輪廻を繰り返す根本は何かといえば我執によってです。豚が泥に執着して寝転ぶように、また愚かな人が監獄のような自由のない場所を快適と思って入り込むように、我々は無明によって執着を起こし、輪廻から逃れたいと思わないため輪廻に束縛されてしまうのです。

いくら業があっても、条件がそろわなければ果を受けることはありません。たとえ種があったとしても、土や水、太陽や肥料といった諸条件がそろわなければ芽が生えることがないのと同じように、業があるだけで果を受けることはありません。果を受けるためには、執着する「有」とそれを選び取る「取」が必要なのです。地獄にはたくさんの種類がありますが、火で焼かれるような灼熱地獄に堕ちるには、火に執着しそれを選び取ることが必要です。また、凍える冷寒地獄に堕ちた場合も、やはり寒さに執着しそれを選び取ったのです。生から生へと我々は生まれ変わっていきますが、その時も有と取によって生を選びとっているのです。逆にいえば、生前に悪業を積んでいたとしても、有と取がなければその果が結ばないのです。

出離が必要な理由を、尊者ツォンカパは師のレンダーワに宛てた手紙の中で、「布施や持戒、忍辱といった六波羅蜜を行じたとしても、出離の道とならず、単に善趣に生まれる理由を作るだけだ」と書かれています。解脱を得るためには、必ず出離が必要なのです。

暇やゆとりは得難く 寿命も余裕は無い
これを思えば 現世の期待は退けられる
業果は欺くことなく 輪廻は苦しみである
何度も思えば 来世への期待も退けられる

我々は今生で有暇具足の恵まれた人身を得て生まれてきました。人に生まれ、目、耳、鼻などの器官が働き、頭がはたらき、法に信仰があり、また信仰があるだけでなく釈尊の教えが守られている地に生まれてくる。また食のためだけではなく、仏法を学ぶ時間を備えた恵まれた状態に生まれてきたのです。このような人身の得難さは、100年に一度水面に顔をだす亀が、ちょうど海面に顔を出した時に、水面を漂っていた輪っかに首をつっこむのと同じほど低い確率であると言われます。そして、そのような奇跡的な確率で得た人身は脆く壊れやすく、いつ死んでしまうかわかりません。

今生と来世を比べてみると、今生は一度限りですが、来世は限りなく続くのです。そう考えると、今生のことばかり考えることがいかに間違ったことかがわかります。しかしそうは言っても、今生を全く無視しろと言っているわけではありません。昔、「物乞いミラレーパ」と呼ばれた男がいました。ミラレーパとは11世紀のチベットで活躍した有名な行者ですが、その生活は質素そのもので、イラクサばかり食べていたため体が青くなってしまったという逸話があるほどです。そんなミラレーパの伝記を読んだある男が、ミラレーパの生き方に深く感銘し、自分の財産を全てなげうって瞑想修行を行おうとしました。しかし、財産を捨てた数日後、食べるものも着るものもなくて困り果て、男は物乞いとなりました。その男を揶揄して人々は男を物乞いミラレーパと読んだそうです。来世を考えることは大切ですが、そのことは今生の生活を全て捨てろと言っているわけではありません。今生も大切ですが、それが全てではないのです。

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聖者ミラレーパ あばらが浮き出ている

我々は生きて行くために仕事をしなければなりません。その際には、よい動機をもって行うことが大切です。たとえば教師ならば、学生の将来のことを考えたり、医者ならば患者の苦しみを取り除こうと考えるなどして一生懸命仕事に励めば、善い業を積むことができるのです。なにごとも動機が大切です。就寝前に帰依や発心、慈悲といったことを考えながら眠りにつくと、寝ている間に善を積むことができると言われます。また、善を回向することも大切です。何か善い業を積んだとしても、一度怒ってしまうとその業は無くなってしまいます。しかし、回向しておけばその善い業が無くなることはありません。たとえ泥棒が入っても、お金を銀行にあずけておけば盗まれることがないのと同じようなものです。

今生のことだけ考え、いくら金を貯めたとしても、死ぬときには役にたちません。たとえ物乞いをして生活したとしても、生前に善業を積んでいれば死ぬことに恐れはありません。反対にいくら金持ちであっても生前悪い行いをしていたならば、死に際して迷い苦しむことでしょう。死ぬときは法以外役に立ちません。善業を積めば善い結果が生まれ、悪業を積めば悪い結果が生まれます。善業から悪い結果、悪業から善い結果が生まれることはありえません。それは米から麦が生えることはなく、麦から米が生えてこないのと同じです。米が欲しければ米を、麦が欲しければ麦を蒔かなければなりません。

一切衆生のために解脱を得ようと考えるならば、出離が必ず必要です。そして出離を起こすためには来世への期待をなくす必要があります。そして来世への期待をなくすためには、今生への中着をなくすことが必要なのです。今生への執着、来世への期待、出離、一切衆生のための解脱は、準々に達成されるのです。

我々はいつか死ぬのはわかっていると言いながら、「今死ぬことはないだろう」「今日死ぬことはないだろう」と考えます。老人が死に近く、若者はまだ寿命があるといっても、それも絶対ではありません。常に無常を思い起こし、三悪趣の苦しみを考えて、得難い人身を無駄にしないようにしましょう。

以上が6月20日に行われた法話会の内容です。次回は7月18日です。


 

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