母親が蒔いてくれた良き心が芽吹くための種


Created: 2014-06-10 Last updated: 2016-04-29 Author:LOBSANG DROLMA

約2年ぶりに近畿法話会が開催されました。場所は、京都、哲学の道から一本山際に入ったところにある安楽寺です。当日は天気もよく、新緑がとても美しかったです。

第一回目の今回は、仏教の基礎的なお話でした。

まずは、仏教とそれ以外の宗教との違いの説明から始まりました。

キリスト教やイスラム教では全知全能の神を信仰しますが、仏教で信仰する釈尊は、もとから福徳を備えていたわけではありません。私たちと同じ状態から、福徳を積み、過失を滅し、智慧によって煩悩を無くしていって、仏となられたのです。

では、私たちはどうして仏教を信仰するのでしょうか?まずは、その理由を知ることが大切です。ただ単に信仰するのではなく、仏教を学べば、他にも利益があり、自分にも利益があるということを知れば、信仰心も更に強くなります。

私たちはみんな幸せを望み、苦しみがなくなることを望んでいます。それはどんな生き物でも同じですが、そのやり方が仏教には説かれているのです。

楽を望み、苦を厭うというのは、人も畜生も同じですが、人と畜生では思考に大きな違いがあります。畜生は目の前のことにしか関心が向きません。今お腹がすいたから食べる。目の前に敵がいるから今喧嘩する。しかし、人間は畜生と違って目の前のことだけではなく、将来のことも考えることができますので、今ある幸せや苦しみの原因というものを考えることができるのです。

楽と苦しみには、身体的なものと精神的なもととがあります。そして、これらは全く独立しているのではなく、お互いに影響しあいますし、一般的に精神的な苦楽の方が、身体的な苦楽よりも強力です。例えば、身体的には不調であったとしても、楽しい遊びをしていて心が満たされている時には、その不調さえも忘れてしまうことがあります。このことからもわかるように、精神的な苦楽の方が強力であり、これらはどうして起こるのかというその理由を考えることが重要です。

そして具体的にどうすればいいのかと言いますと、その道が既に釈尊によって示されているのです。

慈悲・誠実・精進

ここで慈悲ついて考えてみましょう。「悲」とは「他人が苦しみから逃れられればいい」と思うこと、「慈」は「他人が幸せになればいい」と思うことです。そのような気持ちを他人に対して持てば、私たちはまず相手に対して「誠実」になるでしょう。そして、利他のためにがんばろうと思って「精進」します。

慈悲、誠実さ、精進といったものが生じると、心がいつも穏やかとなり、怒りや傲慢さが小さくなっていきます。これを子どもに照らし合わせて考えてみましょう。もしも子どもが両親から慈しみをもらい、愛情によって育てられたなら、誠実な子どもに育ちます。そして今だけではなく将来に向けてがんばろうと努力し、利他を考えることができるようになります。このように子どもがまっすぐに育てば、家庭もよくなるし、学校や地域との関係もよくなります。そして、それらの固まりである、国、さらには世界全体が安定し、平和となっていくでしょう。

しかし、反対に、慈悲がなければ、どのようになってしまうのでしょうか?慈悲の反対は怒りや傲慢、人を見下すといった状態です。もしも、そのような環境で親が子どもを育てたならば、子どもも怒りっぽく、よく嘘をつき、他人を見下すようになってしまうでしょう。子どもがそうなれば、家庭も乱れ、学校や社会との関係も悪くなります。すると、国全体に平和がなくなり、世界全体で争いが起きるようになってしまうでしょう。

特に子どもにとっては、母親の存在が大切です。子どもがお腹にいるときから、母親がゆったりした気持ちでいることが大切ですね。ダライ・ラマ法王も、「良き心が芽吹くための種は、母親が蒔いてくれた」とおっしゃっておられます。

こうした慈悲や愛といったものは、仏教だけではなく他の宗教にも共通して説かれます。また、最近では科学者もこのことを認めています。また、心穏やかな人は病気になりにくく、また長生きしやすいし、仮に病気になったとしても治りやすいということを彼らは主張しています。

「愛」

「愛」には執着をともなった愛と、ともなわない愛とがあります。

執着をともなった愛は不確かでもろいものです。例えば、恋人たちが付合い始めた当初は愛を囁き合っていたにも関わらず、数年経つと疑いが生じ、争い、お互いが信じられなくなるということがあります。これは、彼らの愛に執着がともなっており、愛の理由をよく考えていないからです。

一方、執着をともなわない愛は、自分より他を愛する、といった愛のことです。私が苦しいのと同じように他人が苦しいということがわかり、他の苦しみをなんとか無くしたいと思う愛のことです。この愛によって、結果的に自分も苦しみがなくなり、楽となることができます。

これら、慈悲や愛について、まずは考えて少しずつ心に慣らしていくことが必要です。一日中ずっと慈悲や愛について考えている必要はありません。日々少しずつ、例えば朝起きたときにこれらのことを思い起こしてみるとよいでしょう。釈尊も、最初から悟られていたわけではありません。最初は大変かもしれませんが、少しずつおこなえばきっと成就することができます。

慈悲なく、怒りに身を任せて他人を苦しめようとすれば、結果として苦しみが生じます。仏教では因果応報が説かれています。チベット人が日常の会話で「これは因果だからしかたないね」と話すような、運命論やあきらめのことではなく、行為のことをさします。例えば、商人が昼間一生懸命努力して物を売るという行為をしたとします。するとその日の終わりには沢山の売上という結果を得るでしょう。人は身体と言葉と心の三つによって行為します。そのときに十善を行えば結果は楽が、不十善を行えば結果は苦が生じます。このことは決してかわりません。日本の交通ルールでは、赤信号では止まれ、青信号では進めです。このことは誰でも知っていますよね?因果もこれと同じです。怒りがあれば結果は苦しみ、慈悲があれば結果は楽であるということは決まっていることなので、信号のルールと同じように忘れずに守ることが必要なのです。

以上が、5月に行われたゲンチャンパの説法の内容でした。7月は仏教の入り口である帰依についてです。