作成日: 2014-11-24 最終更新日: 2016-01-20 作成:LOBSANG DROLMA

【罪を清めて善を行う】

紅葉シーズンの京都は、観光客であふれかえります。安楽寺も秋の特別公開中で、多くの参拝者が訪れていました。

前回から2ヶ月あけて行なわれた11月8日の近畿法話会、前回は帰依の原因とやり方について学びましたが、今回は帰依を実際に行なう際にどのように行なうのかという具体的なお話でした。

「帰依の実践」

帰依を行なう際、まず場を清めます。チベットの家では、仏間を別に設ける場合がほとんどですが、必ず別室でなければならないということはありません。場を清め、少し高い台の上に仏像を安置します。中心にお釈迦様の仏像を置き、その左右は他の仏や菩薩の仏像をおきます。また仏画を飾ってもよいでしょう。仏の身・口・意はそれぞれ、仏像・経典・仏塔によって表しますが、それら3つ全てを絶対揃えなければならないというわけではありません。
そして、仏像の前をきれいにして、果物などの供物をささげます。供物はあればそれを捧げればいいですが、何もない場合は心の中でささげましょう。これも必ず、物が必要というわけではありません。
そして、その前に、固すぎず、やわらかすぎない座を設えて座ります。あまりに座がやわらかすぎると眠くなってしまうので、注意が必要です。

「帰依の動機」

場の準備が整ったら、次は帰依を行なう動機です。「自分が有名になりたい」「他の人もやっているから私も…」などといった理由ではダメです。世間八法のためではなく、心を正して行いましょう。
今、我々は人間の身体を得ています。しかし人身とは非常に得難いものです。「今まで自分が誰にどのようなことをしてきたか」と考えてみますと、不十善ばかりをおこない、ほとんどが罪を積むような行動ばかりしてきました。今までいかに自分が三悪趣に落ちる原因ばかりを作ってきたのかを考えると、来世に対する恐怖しか生まれてきません。なんとかして、来世に地獄、餓鬼、畜生に生まれずにすむためにはどうすればいいのかと考えた時に、三宝に助けを求めるに至るのです。

「観想の方法」

まず、自身の左に父、右に母が座しており、その周囲に地獄、餓鬼、畜生、人、阿修羅、天という六道を輪廻する全ての衆生が座していると観想します。そしてそれら全ての生き物を、自身の今生の母と同じく、恩ある母親であると考えます。母親は子どものために苦労し、自身の命さえも顧みず大切に育んでくれた、自身にとって恩ある方です。輪廻には数限りがありませんので、無数に繰り返して来た輪廻のなかで、自身の母親になったことのない生き物はいません。そのように恩ある母であった全ての生き物たちが、楽を望み、苦しみを望まないことは等しく同じです。ですので一切衆生の苦しみが除かれるようにと、慈の心を起こします。そして、そのためにまずは自身が仏になろうという心を起こします。

以前おこなわれた法話会で、「母親が恩ある存在であるといっても、母親の中には悪い母親もいる」という質問が出たそうです。確かに、全ての母親が子どもに対して愛情があるとはいえません。数は少ないですが、そういう人もいるでしょう。しかし、たとえ自分に対して母親が怒ってばかりいたとしても、もしかしたら、自身のためを思って怒っていることも考えられます。子どもが勉強しないから親が怒っている場合もありますので、今の自分に対する態度ではなく、子を育てるためにどんなに努力してきたのかということについて考えましょう。父親も母親もどちらも恩ある人には違いありませんが、特に母親の恩について思いをめぐらせます。そのように一切衆生を母と思うことによって、他の生き物に害を加えようという気持ちが起こらなくなってきます。

一切衆生に対して大慈悲を起こすのが大乗の帰依です。このような帰依を行なう人を「大士」と呼びます。一方で、輪廻を恐れ、自身が輪廻から逃れたいと考えるのが小乗の帰依です。自分一人が逃れたいと考えるのは、一切衆生が輪廻から逃れらるようにと考えることに対して小さい考え方ですので、小乗と呼んでいます。このような帰依を行なう人を「中士」と呼びます。また、来世に三悪趣に生まれることを恐れて帰依を行なうような人を「小士」と呼びます。

「福田の観想」

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次に、自分の目の前の虚空に、座を観想します。座は獅子によって支えられ、階段のようになったものです。ダライ・ラマ法王が説法の時に座っておられる座を想像するとよいでしょう。その上に蓮と太陽と月によって荘厳された座があり、そのような心地よい座の上に根本ラマである釈尊が座っておられます。一つの顔に二つの手を持ち、三衣をまとい、右手は触地印、左手は甘露で満たされた鉢を持っておられます。その心臓には持金剛がおられ、青いフンの字があると観想します。

そのような釈尊の右手には弥勒菩薩を初めとする、広大行の伝統のラマたちが、一方の左手には文殊菩薩を初めとする甚深見の伝統のラマたちが座しておられます。釈尊の前には、自分に法を授けてくれる諸々の師が座しておられ、周りを護法尊や天女などが取り囲んでいると観想します。

これらの福田の仏やラマたち全てが自分の方を笑みをたたえてご覧になっており、それらの方々に対して、自身と自身を取り囲む父母、一切衆生が一緒になって「ラマに帰依します、仏に帰依します、法に帰依します、僧に帰依します」と唱えます。その際、全ての帰依を唱えてもいいですが、「ラマに帰依します」など、どれか一つだけを何度も唱えるのでもかまいません。そして、福田の側から甘露が流れでて、それが私たちの体を一杯に満たし、我々の罪が清められると同時に、仏の身口意の功徳の加持をいただいたと観想します。もしくは甘露ではなく、光明が福田から放たれ、それが私たちの眉間から入り込んで罪が清められたと観想します。

帰依を唱える際には、自分だけではなく、周りにいる全ての一切衆生と一緒に唱えます。敵の軍隊に立ち向かおうと思ったならば、一人だけではなく子どもや親戚、友人など全てをかき集めて対抗するのと同じように、一人ではなく皆で一緒に「一切衆生のために、菩提を得るまで帰依します」と唱えます。五体倒地であれ、読経であれ、なにか供養するのであれ、なにか善を行なうのは自分のためだけではなく、他の衆生のために仏となるためです。観想の最後は、回向をして終わりましょう。

このように福田から光が放たれ、父母を初めとする一切衆生に届いたことによって、無始の輪廻から積んだ罪が清められて、皆が仏なったため三悪趣が空になったと観想します。

以上が11月の法話会の内容でした。

(予定してた12月13日の説法は都合により中止となりました。次回のスケジュールは決まり次第ご案内します。)