作成日: 2015-02-13 最終更新日: 2016-01-20 作成:LOBSANG DROLMA

【利点を知って信仰する】

ゲンチャンパがインドから戻って来られて、今年最初の法話会が行われました。まだまだ寒い京都ですが、ゲンチャンパが京都に来られた日は快晴でした。また、今回は安楽寺の本堂ではなく書院の方でストーブを焚いていただいての法話会でしたので、ほっこりと温かったです。

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帰依についての法話も終盤となり、今回は帰依する利点についてでした。

これまで学んできた通り、帰依をする対象である三法とは何かをまず私たちは理解する必要があります。しかし帰依にも大乗の帰依と小乗の帰依の2つがあります。これは考え方の違いで区別されます。

「仏に帰依します 法に帰依します 僧に帰依します」

という帰依自体は同じですが、動機に違いがあります。自分のことだけを考えて行う帰依、これは考え方が小さいため、小乗の帰依と呼ばれます。一方で、自分が楽を望むように他の生き物も楽を望んでいると理解し、一切衆生のために帰依しようと考えるのが大乗の帰依です。帰依自体は同じですが、一切衆生のために帰依を行う場合は自分自身もその中に含まれるため、自他ともにその対象となり、願いも無限となります。

三法に帰依してその庇護を願う時、自分が行う行為が法に適っている必要があります。もし人を殺したり騙したりするような悪い行動をするために三法に帰依したとしても、その行為は法と一致していないため、仏も助けてはくれません。無明をなくし、自他ともに利益があるような行いである場合にその加持が得られるのです。傲慢や他を疑い、見下すような行為は法に悖っています。

朝起きたとき、一切衆生のために成そうという動機を持つように心がけてみてください。そうすることで、自身の心も安らかとなり、傲慢や疑いなどの感情も治めることができます。心安らかになることによって、身体も健やかとなります。利他の気持ちを持つことによって心身ともに健全となり、今生でも来世でも幸せです。

仏教徒の目指すところは解脱と一切智者です。しかし、解脱を目指す時、自分だけが解脱したいと思っているうちは、我々が仏となることを妨げている二障のうち、煩悩障しか断てません。自利のみならず利他を求めることによって、所知障を断じて一切智者となるのです。例えば、説法をする者が「自分がえらくなりたい、有名になりたい」という動機のもとに法を語ったとしても、法に一致した行為とはなりません。

また、自分が解脱したいという思いでおこなっているうちは、決して所知障を断じられません。法を聞く側も同じです。聞法したその善根を自分のためだけのものと考えると功徳も限られ、少しの果しか得られません。反対に、一切衆生を幸せにするために解脱したいという動機を持っていたならば、いつか菩提に至ることができるのです。何を行うにしても、最初の動機が大切なのです。

心が安らかならば身体も健康であるということを、仏教者だけでなく、科学者たちも主張しています。反対に、自分のことだけを考えて心に疑いと苦しみを常に抱いていたならば、短命となってしまいます。これらのことを日々の生活の中で分析してみてください。自分のことだけを考えて、怒りを生じさせたならば心身はどうなるか。反対に慈悲や愛を考えて生活したならば心身はどのようになるか。

僧侶の中にも、「自分が賢くなりたい、有名になりたい」という思いのもと、問答や勉強を行っている者もいます。そうした者たちは、たとえ頭が良かったとしても、議論する段階になると、自分で考えることができません。反対に、利他の思いをもって修行に望んでいる僧侶は、自身の学んだことをしっかりと議論できることがままあります。また、学校で勉強する時にも、自分のためだけでなく他人、民族や国のために学ぼうと考えている者は、学んだ後に他を助けることができます。反対に、自分のことばかりを考えて学んでいたものは、小さな仕事しかできません。今まで他を助けてこなかったため、結局他も自分を助けてくれないのです。寺院であろうと学校であろうと、利他の思いを持てばどうなるのかということを分析してみてください。

仏教徒であるかどうかは、三法に帰依しているか、もしくはその見解で判断します。もし無我を主張するならばその人は仏教徒であると言えます。では、帰依する利点は何かというと、

①仏教徒になる
②全ての律儀の拠り処となる
③以前に積んだ罪障が滅する
④広大な功徳を積む
⑤悪趣に落ちない
⑥人と人非人の障害に害されない
⑦思った通りに成就する
⑧速やかに仏となる

という8つがあります。

①仏教徒になる

インドのアティーシャやシャーンティパが「帰依によって仏教徒となる」と語られている通り、三法に帰依することによって仏教徒となります。アティーシャはラ・ラマ=イエシェーウーが苦労してチベットに招聘しました。彼は弟子たちに合った教えとして、帰依と因果の法についての教えを授けました。それは、医者が患者の病気に合った薬を処方するのと同じことです。その当時のチベットでは、密教を勉強して自分が賢者だと言う者もいましたが、アティーシャは帰依がなければ仏教徒ではないと語り、弟子たちに帰依の教えを説いたのです。そのためアティーシャは、「帰依の人」「因果の人」の名で呼ばれました。

②全ての律儀の拠り処となる

大小どのような種を蒔くにしても、種が芽吹くためには大地が必要なように、戒律を保持するためには必ず帰依が必要です。別解脱戒、菩薩戒、三昧耶戒とそれぞれ違う戒律がありますが、これらを授かるためにはまず帰依が不可欠です。

③以前に積んだ罪障が滅する

帰依をしたことにより、来世に豚という畜生の境涯に生まれ変わるはずだった人が神に生まれ変わったと言われます。悪を積んだとしても帰依したことにより罪が清められ、悪趣に堕ちる因が清浄となったために、来世は人、阿修羅、天といった恵まれた境涯に生まれます。

④広大な功徳を積む

帰依の対象である三法は計り知ることのできない存在です。そのため、それに対する帰依も計り知ることができません。するとそこから生まれてくる果も計り知れないものとなります。海は水の蔵ですが、海にどれだけの水があるなどとは誰もいうことが出来ません。一切衆生は無限なため、一切衆生を苦しみから逃したいと思っておこなう帰依もまた、無限の帰依となります。

⑤悪趣に落ちない

帰依によって、今生も人という恵まれた境地ではありますが、来世は神に生まれます。帰依したことにより、普通悪趣に生まれませんが、仮に悪趣に生まれたとしても短い生でその苦しい人生を終わることができます。

⑥人と人非人の障害に害されない

自然崇拝のように山や太陽、月などに帰依しても苦しみから逃れることはできないため、これは正しい帰依とは言えません。正しい帰依とは、三法に心の底から帰依するのです。それによって、人や人ではない者たちの障害が防がれます。アショーカ王は、航海中に龍の妨害を受けましたが、正しい帰依を行ったために龍に害されることなく、反対に龍を調伏して自身の眷属としました。またある人に対して外道が呪術をかけてきましたが、正しい帰依を行ったために、その人は害されることなく、反対に呪術をかけた人に呪術が返っていったといわれます。

⑦思った通りに成就する

法に適った行為をするとき、帰依をして、障害無く成功するようにまず祈願します。そうすることによって思い通りに事を成し遂げ、苦がなく楽が成就します。

⑧速やかに仏となる

法を行うための時間がないことを「無暇」といいますが、帰依することによって無暇を克服して有暇具足となり、長くかからずに輪廻から解脱して成仏することができます。涅槃にも一時的な涅槃と究極的な涅槃の2つがあります。煩悩障のみを断じた声聞や独覚が得るのは一時的な涅槃です。煩悩障と所知障の2つを断じたものが究極的な涅槃です。

このように帰依の利点を理解していれば、「やらなければならない…」というのではなく、自ずから帰依を行うようになります。暑さに苦しむ象が人に追い立てられることなくとも、自分で水場に歩いていくように、起きてする帰依を唱えることができるようになります。

帰依と同時に因果の法を理解する必要があります。苦しみを生む原因を捨て、楽を生む原因を作ることによって、良い因を積んで行きます。自身の積んだ悪業を清めることによって、悪趣に堕ちる原因がなくなります。そして善の因を積めば、自ずと果としての楽がやってきます。帰依しながら悪業を積んでいてはいけません。帰依は因果の教えと一致している必要があります。十不善を断ち、良い行いに出来るだけ努めます。

もし、仏に帰依するならば、梵天などのような世俗の神に帰依してはなりません。一時的な仕事を成就するために頼るのはかまいませんが、心の底から帰依するのは仏です。次に、法に帰依するならば衆生に対して愛のない行為をしてはなりません。殺したり、生け贄として捧げるのではなく、益する思いで守り育まなければなりません。また、僧に帰依するならば外道とともに行ってはなりません。これは一緒に歩いたり、お茶を飲んではならないというのではなく、外道の教えに従ってはならない、ということです。

帰依には本当に利益があるのだろうか、と疑っている間は帰依することによって得られる利益も小さいのです。信仰を持って心から信じることが重要です。

以上が2月7日に行われた法話会の内容でした。次回の法話会は3月14日です。