拒んでも解脱する教え


作成日: 2015-04-29 最終更新日: 2016-01-20 作成:LOBSANG DROLMA

桜の花も散り、気がつけばあっという間に温かくなりました。チベット式に、お茶ポットを持って外へピクニックに出かけたくなるような気候ですね。

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前回までで帰依についての法話が終わり、今回からは尊者ツォンカパの『道の三要訣』についての説法が始まりました。この『道の三要訣』では、「出離」「菩提心」「空性を理解する智慧」について説かれています。

解脱や一切智者の境地を求める場合、必ず出離が必要です。出離とは何かというと、自分が輪廻の苦しみから離れたいと願う心です。一方、自分ではなく他の生き物が輪廻から逃れられればいいのにと願う心のことは慈悲と呼ばれます。「出離」と「悲心」は輪廻から逃れたいという思いは同じですが、その対象が「自分」か「他の一切衆生」かという違いがあります。
尊者ツォンカパは、法を信奉し、解脱を求める人に対してこの教えを説かれました。「有」つまりこの輪廻には真髄がないため、解脱するために出離を求めなさいと尊者ツォンカパは語られましたが、それは今の生活を捨てなさいとおっしゃったわけではありません。ダライ・ラマ法王も語っておられるように、慈悲や愛は仏教に関してのみならず、子と親、家庭、国家など人の集団において必ず必要なものです。この慈悲や愛がなくとも生活出来るかどうか考えてみてください。夫婦や親子関係に慈悲や愛がなくとも、お互いに信用することができるでしょうか?互いに信用し、疑いを生まずに生活するためには、やはり慈悲や愛が必要です。そして、そこから精進も出てきます。これは仏法を信仰するしないに関わらず必要ですので、「慈悲や愛は自分と関係ない」と考えることは間違いです。

ダライ・ラマ法王は
「チベット以外の国で法を説く際、チベットと同じように説いてはなりません」
と述べられています。チベットではみな仏教徒ですが、他の国では違います。原因を理解することが大切ですので、『これを信用しなさい』と頭ごなしに言うのではなく、知恵と合致した形で説く必要があります。

慈愛に満ちた人と、いつも怒ってばかりいる人を比べてみるとどうでしょうか?科学者たちは心が穏やかな人の方が病気が少ないと言っています。また、ご飯を食べる時も、心穏やかな時はおいしく感じ、怒っている時には味がわからないということはありませんか? 怒りを治めるのは慈しみによってです。 慈悲と怒り、この二つを持つことによって自他にどのような損得があるのか考えてみましょう。

至尊大師たちを頂礼せん

この文は著者、つまり尊者ツォンカパの法統にあたる諸師に対する礼拝を意味しています。尊者ツォンカパは尊者レンダーワと文殊菩薩を根本ラマとしてそれ以外にも多くのラマに師事しましたが、それらの諸師に対して身口意の三つで礼拝されています。ここで礼拝する必要ですが、一つには尊者ツォンカパの執筆が完成するため、二つには障害が起こらないようにするために必要なのです。
一般に礼拝の仕方には、顕教の礼拝と密教の礼拝の二つがあります。顕教の礼拝とは、体の五支部、すなわち頭、両手、両膝の5カ所を地に付ける形でする礼拝です。一方密教では必ずしもこの五支部を地に付ける必要はなく、心で信奉できていれば手を合わせるだけでも大丈夫です。

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(五支部を地面につける「五体投地」で寺を巡礼するチベット人。身長の長さだけ進むやり方と、自分の横幅分ずつ進むやり方がある)

勝者の教説の核心の義

勝者とは釈迦牟尼のことです。その教えを私たちは大乗と小乗に分けますが、大乗仏教徒であるチベットや日本、中国の仏教徒は「小乗は劣っている」と見下し、また小乗の側は「大乗は釈尊の教えではない」と言って批判します。そうではなく、ダライ・ラマ法王が先日の東京の説法でおっしゃったように「パーリー経典の教えを保持する人々」「サンスクリット経典の教えを保持する人々」とするのが良いでしょう。
勝者の教えの意味をまとめると、すなわち「出離」「菩提心」「空性を理解する智慧」の三つになるのです。牛乳のエッセンスがバターであるのと同じように、釈尊の教えの真髄はこの三つなのです。この道と方便によれば、必ず解脱し、一切智者の境地にいたることができるのです。そのため、

勝子たちが称讃する道
賢劫な解脱を求める者の門

となります。

これを可能な限り説明しよう

これは、尊者ツォンカパは賢者でありながら、自分はあまり知らないと謙遜して述べられた言葉です。そして短い言葉でわかりやすく述べようという誓願の文です。

法を説く側にも聞く側にも、それぞれ条件があります。それらをそれぞれ観察しなければなりません。灌頂などを受ける際には、条件の揃ったラマに頼る必要があります。世間的な名声や自分をえらく見せるためではなく、他人の利益のみを考えて行動する人である必要があります。また、自分より知識を持っている人でなければなりません。何も知らないのに適当なことを他人に教えてははむちゃくちゃになってしまいます。世間八法に染まっていない人。そういった条件が揃っているかどうか観察することが必要です。

一方で、聴聞する側にも条件があります。まず器としての三つの過失を持っていないことが必要です。
①下を向いた器
下向きに置かれた器にどんなに茶を注いでも中に入らないのと同じように、聴聞者が話に集中できなければ意味がありません。身体は法を聞いていても心が飛んでしまっていてはダメなのです。ですので、教えを集中して聞くことが重要です。
②汚れた器
器が上を向いており、中に茶を注ぐことが出来たとしても、器自体が汚れていたら茶もその汚れにまみれてしまいます。同様に、聴聞者は「人より物知りになりたい」「有名になりたい」といった汚れた気持ちで法を聞いてはダメなのです。聞いた教えを実践し、自分を利益するために聞くんだ!という気持ちで臨まなければなりません。
③割れた器
器が上を向いて奇麗であっても、ヒビが入っていては中身が漏れてしまいます。同様に何度教えを聞いても、後で復習しなければすぐに忘れてしまいます。教えを聞いたまま放っておくのではなく、何度も思惟して覚えておく必要があるのです。

また、法と説法者に対して6つの考えを持つことが必要です。

①自分を患者のように思う
②法を薬のように思う
③善知識を医者のように思う
④慎重に実践することを治療行為と思う
⑤法の状態で長くいようと思う
⑥善逝に対し聖者であると思う

苦しみを生じさせる貪・瞋・癡を心に持った自分を患者と考えます。そしてそれらを治す法を薬のように思い、法を説く善知識を自分の病を直す医者であると考えます。そして、法を実践することによりそれらの病を取り除き、そうした法の状態にできるだけ留まろうとするのです。そして善逝を五道を歩む聖者であると考えます。これらは例です。「自分は病気じゃないから意味ない」と考えるのではなく、我々はみな三毒に犯されている患者であると考えるのです。
我々は法を聞き、考え、それを修習して心に慣らしていきますが、その際に過失を取り除かなければなりません。

この『道の三要訣』は短いですが、意味は『道次第』の教えと同じことが説かれています。『道次第』では小士、中士、大士と呼ばれますが、これは出離、菩提心、空性に当たり、意味は全く同じです。

今生で解脱を望むならば、解脱の原因となる布施などどのような行いをしても、まずは出離の念を抱く必要があります。今生に対する執着を断つことによって解脱の思いが生じるからです。悪趣の苦しみ、三苦の苦しみを思って、「これはいらない」「これから離れたい」と思い解脱を求める心を起すためには、出離の思いが必要です。出離がなければ解脱を求める心は生じませんし、他の生き物までその考えが及びません。菩提心を起すためにも、出離の念が必要なのです。そして出離によって菩提心を起さなければ、解脱や一切智者の境地に至ることもできません。解脱するためには無明を取り除かなければなりませんが、そのためには無我を知る智慧が必要です。その智慧を起すためには、出離の念が必要ですし、出離の念なくして一切智者になることも出来ません。
しかし、出離の思いがなければ六波羅密などで善が積めないというわけではありません。業には福業とそうではない業があります。福業を積めば色界の神に生まれ変わりますし、そうではない業を積めば悪趣に堕ちます。善業を行えば利益はありますが、それはあくまでも輪廻内での業であり、解脱するための業ではないのです。解脱と一切智者を得るための業を積むには、かならず出離の念が必要なのです。
仏教を学び始めたばかりの人は、まずは解脱と一切智者を必要とする理由を考えてみてください。輪廻とは一体何か。輪廻があればどうなるのか。その悪い所を考えることによって、出離の念が生じます。朝から晩までずっと出離について考え続ける必要はありません。食事もとらずに出離ばかり考えていては大変なことになります。一日中ずっと出離だけを思って、心に苦しみや疑いを抱き、他は何も考えず、自分が正しくて他は間違っている、と疑うようになるのは間違いです。輪廻からの出離について、少しずつ考えていきましょう。

「出離」「菩提心」「空性を理解する智慧」の三つが揃わなければどうなるのでしょうか。いくら教誡を授かり六波羅蜜を実践しようとも、出離がなければ解脱にいたらないのです。
法王は先日の東京での灌頂の際に、菩提心と空性について説かれました。灌頂は密教の儀式ですが、空性の理解なく密教を実践しても解脱の道には至りません。密教に入っても、出る時も入る前と何も変わらず、いくら修習しても苦しみを感じるだけで何にもなりません。
しかし、「出離」「菩提心」「空性を理解する智慧」を持つことができたならば、たとえ「解脱などいらない」と言っても、解脱にいたります。これは原因が円満となれば必ずその果が生じるからです。釈尊は多くの教えを説かれましたが、その教えの中でこの三つの要訣に当てはまらない教えはないのです。これからこの重要な教えを学んでいきましょう。

これが4月18日に行われた法話会の内容でした。次回は5月9日です。