2006.11.04

EP0306 四大学派と三乗

このように仏世尊の初転法輪は、仏教の基礎を説いたものです。見、思想の観点では、四つの学派が有ります。行、方便 実践の観点で、三乗が有ります。

四大学派

四学派と言う場合、人無我だけで、法無我についての規定を説くことは無く、人無我だけを説き修道論を主張する学派、これが毘婆沙部と経量部です。勿論その二つは若干異なりますが、一般的な方針については殆ど同じと言えるでしょう。これに対して法無我を主張する学派には、中観派と唯識派この二つが有ります。

三乗とは何か

思想的観点に基づかないで、実践の観点では三乗へと分けられます。声聞乗と独覚乗 そして菩薩乗つまり大乗これら三乗が有ります。思想的には毘婆沙部だが、菩提心を持つので「大乗」である場合も有ります。例えば 声聞、独覚の聖者は思想的には中観派になります。何故ならば、微細法無我を理解しないと「聖者」とはいえないからです。ですから思想的には中観派となるのですが、実践面では菩提心を持たないので、自利の解脱だけを追求する者声聞 独覚であるのです。

すべての苦しみを考え、それを考えることでそこから解脱したいと思い、自分が苦から解放されたいこう思う心を 「厭離心」と謂います。この心だけを抱いて空性理解を“止”の力を借り修習してゆくことで、煩悩に対抗して、最終的に阿羅漢果を得るそういう事もあります。“小乗の道”とはこのようなものです。“小乗の道”と“果”はこのようなものです。

すべての苦しみを考えて、苦から解放されたい煩悩という敵から解放されたい、先こう自分で思いその後で そのように自分が思うのと同じく、他の有情のことを考えてこの無辺無数の有情たちは煩悩という敵に支配され、もし煩悩から解脱していても、未だ煩悩の残した習気所知障に支配されている、この一切衆生を観て、この一切衆生が苦とその因から解放されればよいと思い、この目的を達成出来るのはブッダしかいないので、この無辺の有情たちが全て苦とその因から離れるために、自分が一切相智ブッダの位を得ねばならない この意識は、利他を目的とする、菩提を求める意識、これを“菩提心”と謂います。この発心を抱きながら空性の理解を禅定の力を借り修習してゆき、更にはあらゆる種の方便、布施・戒・忍等のすべての波羅蜜と共に空性理解を修習していきます。“一切勝具の空性”と言うのはこの事を表しています。このように空性を修習しながら、煩悩障だけでなく所知障にも対抗して、このような二障とその習気を両方断じて、究極の“離”の境地“大菩提”と呼ばれるもの、このような“大菩提”の境地を現証する事、“大乗”の道と果なのです。“大乗の法輪”とはこのようなものです。

大乗の二乗:波羅蜜乗・金剛乗

大乗には更に二つの乗が有ります。一切相智、勝者の位を獲得するための因、因と言っていいと思いますが、果である仏地の形相に応じた道を修習するのでなく、因である六波羅蜜を実践する 、因である方便と智慧を実践する事だけを学ぶのがこれが“因波羅蜜乗”です。

因である方便と智慧それを実践し更に因の特別な修習法、果の形相、果の仏地にある仏身・仏語・仏意・仏業等それらに対応する同じ形相を現段階から修習していますぐに果地の形相を修習する方法が有ります。「果地の四清浄」すなわち処清浄・身清浄・受清浄・業清浄これらの四清浄、それに対応する形相の道を現段階から信解により修習する方法、これが「金剛乗」「秘密真言教」と謂われるものなのです。

この「金剛乗」 の「金剛」とは「壊れない」という事です。二つに「壊れない」というのは次のようなことを意味しています。そもそも因波羅蜜乗においては、方便と智慧は別異なものとされています。別異なものである方便と智慧が想定されていますので、「方便を伴う智慧」と「智慧を伴う方便」というものが可能なだけなのであって、両者であるもの、即ち無差別なものというものを想定することは出来ません。「方便智慧の双運」という言い方はありますが、これは片方が一方を伴っているというだけであり、一方だけを実践するのでなく、両方を修習する事を意味します。

密教の場合には「金剛」「不壊」 とは特殊な方便・智慧 即ち方便である本尊瑜伽と智慧である空性理解の智、この両方が単体の意識で兼ね備えているもの、この方便と智慧の無差別なものこれが説かれています。ですが主として高次の密教道の段階として、方便でも智慧でもある「無差別道」は可能となるのです。

この様な知を実現する可能性は存在するからこそ、密教の四部タントラのそのすべてで、信解による方便智慧の無差別瑜伽の修習が説かれているのです。

方便は本尊瑜伽で、智慧は空性理解の智慧とし空性を理解の所取相を本尊として生起させ、この空性より生じた諸尊を対象として、この特殊な性質を持つ諸尊の身体を所縁として、空性を修習する事が説かれているのです。これが方便と智慧の無差別なものであり、これが両者が無差別な“金剛薩埵の瑜伽”なのです。そしてこれが“密教道”です。


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