EP0305 滅諦と無明


Created: 2006-11-04 Last updated: 2016-09-20 Author:野村 正次郎

滅諦というのはこれ自体は一体どのようなものでしょうか。

龍樹とその後継者によると滅諦とは勝義諦であるとしています。チベットの学者の中でも若干異なる説もありますが、勝義諦のなかでも、法性であるとされています。

滅諦とは煩悩を浄化した心の本性のことである

龍樹は『中論』で次のように説いています。

業と煩悩が尽きることで解脱する
業と煩悩は分別より生じるものである
それらは戯論より起こっている
空性により滅すだろう

この偈の最後の部分ですが、「空性を理解する智慧によって戯論が滅する」とする解釈とサンスクリット語特有の別解釈では「空性において戯論が滅する」という解釈との二つがあります。「空性において」という解釈の場合には、戯論の寂滅する場が心の法性ですので、「心性において解脱する」という意味になります。「空性において滅する」というように解釈すればこのような意味になります。

この場合「滅諦」とは、対治が生じた事で所断を断じた状態、離れている場それが心の法性です。このようなことから「滅諦」の究極の指示対象は「心の法性」「心性」を指しています。壺の法性、柱の法性、木や草等の法性が有りますが、「滅諦」という場合に意味される法性とは、垢を伴った心の法性、この煩悩を伴った心の法性のことです。

垢にまみれた心の上にあるすべての垢に対する対治が生じた力でその心が浄化された時、この時、心の本性は清浄なものとなります。「滅諦」とはこの心の法性の状態です。

それでは滅諦を心の法性とする場合、その心の法性の上にある垢は何によって浄化されるのでしょうか。「空性により滅する」とある様に空性を観想することで、心性が清浄となる心性において垢が寂滅するのです。これは何故可能かと言えば、いろいろ考えられます。

龍樹の先ほどの文章では「業と煩悩が尽き解脱する」と業と煩悩が無くなり、業を新たに積まず、業をもたらす煩悩も無い。煩悩を根こそぎ断ち切り無くなったこの状態を「解脱」と呼んでいるのです。

「業と煩悩は分別より」と言っていますが、輪廻の原因となる業、これは煩悩に由来します。煩悩、貪・瞋等の煩悩は煩悩三毒のなかの貪・瞋という煩悩は、非如理作意である分別から起こっているのです。「非如理作意の分別」これは三毒のなかの痴である真実把握これの戯論より起こるのです。「業と煩悩が尽き解脱する業と煩悩は分別より起こる。それらは戯論より起こる」業と煩悩 非如理作為の分別 「それらは」真実把握である「戯論より起こる」と説かれるのです。

戯論を寂滅する空性理解

真実把握の戯論は空性を理解する知により滅せられるのであり、無くすことができるのです。何故ならば、真実把握の戯論と無我理解の智 この二つは同じ対象を見ていながら捉え方が相反するからです。真実把握の戯論は真実であると捉える知です。無我を理解する智は真実把握が捉える通りのものは全く存在しないとその逆を正反対に捉えており、真実把握の捉え方とは相反する知なのです。この二つの知は捉え方が相反しています。

一般に先程言いましたが、例えば、暑い、 寒い、というこの二つの感覚は段階的反比例の関係にあります。暑さの感覚が増大すると寒さの感覚が反比例して小さくなります。寒さの感覚が増大するに従い、それに反比例して暑さの感覚は小さくなるものです。このような関係にあります。

これに対して明暗の場合には、両立し得ない対立関係にあります。明るくなるとその瞬間に暗くなくなり、明るさが無くなれば直ちに暗くなります。同様に我々の心の中にも、相反する捉え方が有ります。例えば ある同じ人を見て、同時にその同じ人に対し好きだという感情と嫌いだという感情は同時に存在できません。何故かと言えば捉え方が相反するからです。好きだという感情はその人を好きだ、愛おしい、この人のために何かしたいと思わせます。嫌いだという感情は その人をいやだ 憎らしいと思わせ、嫌悪感を起こすものです。前者はその人と離れたくないという感情ですが、後者は離れたい、背を向けたい、そういう感情です。前者は欲望を増加させ離れたくないと思わせ、後者は離れたい 背を向けたいと思わせます。この二つの感情は相反してます。相反しているので同時には存在し得ないのです。

無我を理解する智と我執との二つはこの場合と同様に捉え方が相反しています。単にそれだけなら、捉え方が相反することが原因で、真実把握が無我を理解する知を損なう危険があります。ですがそうはなりません何故かと言えば真実把握という これは転倒した意識です。これは習慣化したもので過去の習気によって、迷乱の習気によって、我であると捉えているのに過ぎません。

この心の奥にあるこの我執が顕れる限りのものそれに基づき、それを真実であると考えています。

しかし一般に顕れ通りに存在するとは限りません。顕れる通りに事実はその通りに必ずしも有る訳ではありません。顕現と事実が異なるのはいつもある事ですね。勝義の実相でなくても常識的なことでも、顕れと事実が異なる事はよくあります。顕れと事実が異なるつまり不一致です。例えば、人の場合、見た目は友達のように見えますが、本当は友達ではなかったそんな事はよくありますね。また逆に見た目は感じ悪く 変人に見えても、実際は 素晴らしく良い人そんな事もありますよね。このように顕れと事実が異なるのはよくありますね。

同様に実相を考える時、“顕れ通りには実在してない”これがポイントです。真実把握とは何かと言えば、内外のすべての現象が我々に見える時、その対象の側から有る様に顕れています。真実把握とは対象の側から顕れる通りに捉える知です。これは顕れ以外に真実を探ろうとはしません。顕れるそのままが真実であると考える、その様な意識なのです。これとは逆に無我を理解する智は、顕れには拘わらず、そのものの本質は何かそのことを追究し、考察して見出した真の姿、本質、それを捉える知です。真実把握は、顕れる面にこだわっています。後者は 顕れる面にこだわらずその本質を探究しています。前者の知には 顕れる通りの真実である根拠が見出せません。何となくそう見えるというだけで、それ以上の根拠はないのです。これに対し 無我を理解する知はよく検証すればする程、その根拠は強くなり確固としたものになります。真実把握の戯論と無我を理解する智の二つは捉え方が相反するだけでなく、一方には裏付ける根拠が無く、もう一方にはそれが裏付けの根拠が無い その意識は、いくら反復修習して、無限に発展する可能性がありません。逆に 裏付けの根拠がある知は、無限に発展する可能性があり、その知を修習すればする程より強い確信となります。真実であれば、検証する分より明らかになりますが、真実でなければ検証するだけその誤りが徐々に露呈し虚偽であることが段々明らかになるでしょう。

このようなわけで相反する二つの意識は、一方が他方を損なうものです。対立関係にあり、そのような性質がある上に一方には裏付けの根拠がありもう一方にそれが無ければ、裏付けの根拠が有る方が常に優勢になります。例えば科学者が物質を検証する場合には、見た目だけにこだわらず、その物質の本質を探究しようとします。

ですから詳しく検証して最終的に見出された結果は、真実である事になります。真実はこのように得られるもので、検証した結果ではない、見た目の印象だけの判断は、間違いも多くなりますよね。これと同じ事です。

このような訳で「それらは戯論から起こるが空性によって滅するだろう」滅する理由はここにあります。空性において滅するだろうこの解釈は、垢が滅す場である心の本性を表現し、それは滅諦を現前するものです。滅諦を現前するものは、「空性により滅する」という解釈で空性を理解する智によって真実把握は滅するこう表現されるのです。これらが意味されています。

「滅諦」と「道諦」これは空性と関係し説明されるものです。滅諦の方は、心の法性が所断をすべて浄化した状態これが滅諦です。これに対して道諦とは、そのような心の法性を理解している知のことです。直観している知です。

このように四諦とは何かその各々を理解した後に、それらの取捨選択をどうするかと言えば

苦を知るべきである
集を断ずべきである
滅を証すべきである
道を修すべきである

「証する」とは「滅」を現前に獲得することです。「道」 即ち空性理解の智を、“起こしなさい”という事です。「道を修すべきである」

それでは、この四諦について、苦諦を知り、苦諦を知ることで、苦諦から離れたいと思い、それから離れる為に、“集を断ずべきである”と集を断ずべきことを知り、では集は断じる事が可能なのか否かと言うと、煩悩の根源たる痴 真実把握、この痴 真実把握は、すべては真実であると捉える意識のことです。

この意識を断じる事が果たして出来るのか否かはこの真実であるという意識が誤りなのか否かに懸ってます。それを検討すべきです。こう考える事で“滅諦”とは何かを理解し、この真実であるという意識が誤りであると分かります。それ故に これを断じる事が可能だと知るのです。断じる事が可能でありそれは達成可能なのです。こうして“滅を証する”つまり実現したいと思うのです。

そして“滅”という一切の苦を妨げて離れたこの境地、これは実現可能であるので、それを実現するために、空性 即ち心の法性を直観し理解する“道”を“修すべきである”このように説かれたのです。

この通り修したその結果

苦を知るべきでありそれ以上知るべきものは無い
集を断ずべきでありそれ以上断ずべきものは無い
滅を証すべきでありそれ以上証すべきものは無い
道を修すべきでありそれ以上修すべきものは無い

これは一度、断証を究竟すれば、再び 断じたり 証する必要がないという事です。断証を極めるとそうなるのです。このような四諦の教えは仏教の基礎の様なものです。大乗のすべての教えも四諦に纏める事ができます。秘密金剛乗の法も四諦説に基づいて修すべきものです。