2022.07.25
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

悪業・無記・積み重ねるもの

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第29回
訳・文:野村正次郎

身口意の不善は十あり、

煩悩障と所知障の二障、

見道・修道所断の二所断等、

これらは雑染不善品である。

有覆・無覆が無記であり、

個々に分ければ無数にある。

最初の句は、現行版の本文には「身口意の善は十」とあるが、前掲の訳にもあるようにすでに十善については言及しているので、ここでは意に沿わない結果をもたらすことを明確に予告可能な「不善」を数える方が、論理的な読解であるという註釈者の解釈に従っておく。ここは不善を二障・二所断として列挙しているが、それをはじめとして雑染品たる十二支縁起や苦諦・集諦なども雑染であり、不善品に属していることが含意されている。

不善の代表的なものは、十善の逆の業である十不善であるが、殺生・偸盗・邪婬という三つの身不善業すなわち悪しき行動、妄語・綺語・悪口・両舌の四つの語不善業、すなわち悪しき言動、慳貪・瞋恚・邪見の三つの意不善業、すなわち悪しき考えである。これがまずは悪の代表者である。

次に輪廻へと拘束し解脱を妨げるものである煩悩障と如来の一切相智を実現することを妨げているものである所知障のことを二障といい、大乗の学説ではこの二障を断じることを修習の中心としているが、毘婆沙部と経量部という小乗の学派では、所断を染汚無明と不染汚無明とに分けて、前者は煩悩の発生源となるものであるが、後者は煩悩の発生源とはならないものであるとし、これが一切相智を実現することを妨げているとするので、毘婆沙部と経量部では「所知障」という表現を認めていない。唯識派の場合には、人我執とその種子・根本六煩悩・二十隨煩悩などが煩悩障であり、法我執とその習気を所知障であるとし、声聞・独覚の二乗は前者を所断の中心とし、菩薩乗は後者を所断の中心とすると解釈する。これに対して中観自立派の場合には、人我執とは煩悩障であり、法我執とは所知障である、と主張し、中観帰謬派の場合には、微細な人我執・法我執は両方ともが煩悩障であり、その種子を含めたものが、煩悩障であるとするが、煩悩障の習気が所知障であり、煩悩障のそのすべては菩薩の第七遠行地の終わりまでに断じて、第八不動地以降に所知障の断滅が開始できるとする。このように学派によって多少解釈は異なるものの、輪廻への再生の原因となり、輪廻からの解脱を妨げるものを断じることができるのは、見道以降であるのは仏教のすべての学派に共通している学説であり、小乗の学説では「所知障」という表現は使わないものも、仏の境地を実現することを妨げる不染汚無明を認めているので、障・所断には解脱もしくは仏位を妨げる二種類があることは共通しており、それらを無我の真実を現観する見道・修道において断じてゆく、という不善の克服法の全体像は一致しているということができる。

また意に沿う結果をもたらすか、意に沿わない結果をもたらすか、明白に予測することができないものを「無記」というが、この場合の善不善に分類できる有記と無記というのは、そのもの自体が生成する結果が善果なのか悪果なのか、すなわち幸せなのか苦しみなのかが明確に予測できないという予測可能性を区別したものである。この無記を分類すると有覆無記と無覆無記との二つに分類することができ、有覆・無覆とは、予測不可能性が煩悩で覆われており知ることができない不明瞭な場合と予測不可能性は明白である知ることができる場合との区別を表しており、前者を煩悩とともにあるものであるので「染汚」と呼ばれ、後者は煩悩とともにはないので「不染汚」であり、たとえば心・心所などは有覆無記であり、名詞の集合・語句の集合・文字の集合などは無覆無記であり、無記にはさらに結果との関係で自性・相属・随逐・発起の四種の区別をすることができ、善・不善ではない無記には無限にさまざまなものを同定することができる。

善・不善(悪)・無記の区別を正しく学んでいくことは、仏教を学んでより多くの善を実現し、より多くの不善を慎んでいくために必要なことであり、所謂「諸悪莫作、衆善奉行」ということを行う仏教の基本的な実践に必須の事項であるが、通常私たちは「あれは善いものだ」「これは悪いものだ」「これはどうでもいいものだ」と考えている場合に、この正しい善・悪・無記の区別ができているのか、と言われるとそうでもない。私たちは「慈善団体に所属しているあの人間は善人である」「悪徳業者に所属しているあの人間は悪人である」「あの動物は人間に対して危害を加えるので悪い動物である」「あの動物はかわいらしいので善い動物である」といった自分勝手なラベリングばかりをしているが、そもそも「業者」「団体」「人間」「動物」などは無記であるので、善でも悪でもなく、善である心や悪である心は存在していても、「善人」や「悪人」といった考え方自体が誤った判断なのであり、ある人の行動や言動や考え方が善や悪であることはあっても、人それ自体は業ではないので、善悪であることはなく、それにも関わらずそれを自己中心的な善悪へと帰属させようとするこの意志こそが悪業である、ということに気づいていない場合が多い。こうした悪しき意志は、明確に悪果たる苦しみを生み出す自性不善であり、世間を破滅へと導いてゆくほとんどの問題は、こうした悪しき意志によるにほかならない。

不善なる悪しき意志とそれによって引き起こる衆生の行動や言動が、他の衆生の苦しみや問題を作り出していることは確かなる事実であり、自分や他人、そしてものごとを善なる方向へと変えてゆきたいのならば、善を多く作り出し、不善をなるべく減らしていくことしか方法はない。そしてそのためには、常に冷静に客観的に善悪無記を区別できる知性を身につけていく必要がある。そしてそれを身につけるためには、善知識から多くの法を聴聞し、それを自ら思索し、実践していくしか方法はないのである。

チベットの昔の偉大なゲシェーが毎日朝、今日は衆生たちのために善をできるだけ行おうと決意し、夜寝る前にどれだけ善業を行ったのか、どれだけ悪業を行ったのかを、白い石と黒い石で一日を振り返って数えてゆき、眠りにつくまでに、一日の悪業を反省し仏前で懺悔し、明日こそは他者のために善業をもっとやろうと思いながら、静かに眠りについていったといわれている。睡眠は無記であり、そのような善なる思いをもって眠りにつくのならば、その睡眠の時間は善業を積集している時間へと変えることができると言われている。善悪無記の峻別をいつも正しくできるようになるのは、そんなに簡単なことではない。しかし、少しずつでもやらなければできるようにはならないだろうし、今日のように戦争やさまざまな問題に私たちが直面している時には、何かよい変化を期待しながら、すこしずつでもそんな単純なことをやってみるのは悪いことではなく、善いことである。善は幸いであり他者に幸せを生み出してくれるものである。その反対に不善や悪は他者を不幸に落としめるものであり、不幸を味わうのは、他者だけではなく自分である。善悪や業果を知ることを極めて困難で難しいことであると言われてはいるが、毎日石で数えるようなことから積み重ねてゆくと、そのうちにきっと善い結果を迎えることができるだろう。

人知れず積み重ねられた供物の石

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