2021.12.14
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

三界すべてに薫る衣を羽織る者たちに

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第28回
訳・文: 野村正次郎

世間を導ける最勝の地位に至るまで

どんな生を受けるともそのすべてで

梵行の清浄円満な出家の所依を得て

大乗の種姓が覚醒してゆかんことを

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一切衆生を利益するということは、彼らが迷い悶え苦しむことがないようになることに、私たちひとりひとりが積極的に貢献するということである。しかしいまの私たちには、すべての衆生の幸福に直接関与することができる能力はない。いまの私たちを含めてこの世間のすべて者は無我の真実を直観できないから、これが私である、これが私のものである、とこの身体とその延長線上にあるものに過剰に執着し、ここに損害が与えられそうに懸念する者を異常なまで嫌悪し、憎悪している。この迷いの根本は無我の真実に疎い、無始以来私たちと共にある無明という厄介な心であり、無明の闇に包まれている限り、私たちは他者の無明を取り払うことなどできない。

私たちの愛すべきものたちは暗い闇に覆われており、私たちもまたその闇のなかの灯火となることはできない。盲人である私たちが他の者たちをどこへ導くことができるというのだろうか、この闇に灯明をともしてやさしく彼らを導いていけるのは、少なくともこの無明の闇を払拭できるようになった出世間の聖者たちだけなのであり、すべての衆生たちが求めるすべてを与えることができる最勝なる地位にあるものは、ただすべての障礙を克服して、一切の知るべきことを如実に知る無上正等覚の境地を得たものだけである。いま足りない知性を巡らせて、小賢しいことをやったからといえ、すべての衆生を苦しみから救うことなどできやしない。私たちはだからこそ、自らが仏となるための遠い道のりを一歩ずつ着実に歩んでいかなくてはならない。

如来の境位を実現するためには、三阿僧祇劫の資糧の積集という非常に長い期間の修行が必要になる。この難行を完遂してはじめて、壊れゆくこの大地に煩悶する衆生の導き手となることができる。私たちはこれから先如何なる生をどこに受けようとも、決して回り道することなく、如来の境地へと一心不乱に進んでいかなくてはならない。

如来の境地を目指す者は、如何なる生を受けるとも、常にこれからはいまと同じような人身を得て、よき環境にも恵まれて暇とゆとりに恵まれて、その上で、かつてのすべての如来・阿羅漢・菩薩たちが歩んだように、自らの性欲を克服し、どの生涯においても独身者たるを貫き通す「梵行者」とならなくてはならない。というのも自分の心を律すことができなければ、他者の心を律して導く者となることなど不可能であるからなのである。

まずは自分の心を律するためには、その規範たる戒律を正しく授かり、授かった律儀を自分の生命よりも大切なものとして厳正に遵守していかなければならない。如来から授かったこの戒律の一部を守ればよく、一部は守らなくてはよい、と勝手な解釈をしてはならない。殺生をしない、嘘はつかない、といったことだけであとはやりたい放題に生きるのは、梵行者とは言えない。在家の信者にすら釈尊は、八斎戒と呼ばれるものを説かれている。それは不殺生・不偸盗・不淫・不妄語・不飲酒・午後は食事をしない非時不食・歌舞音曲に耽溺し、装飾品などで身体を飾らない不得歌舞作楽塗身香油戒、二の腕の高さより高い寝台で寝ない、というこの八つの条項であり、在家の信者ですら、これを時に応じて遵守して梵行者として暮らすためのトレーニングを積んでいるのだから、出家者が具足戒を遵守し、戒学処を清浄に身につけるというすべての功徳の土台を自分自身に毎回構築しておかなければ、禅定の功徳がここに生じることもないし、聞思修を繰り返し智慧の功徳がここに生じることなどもないのである。

戒・定・慧の学処は、すべての仏弟子たちが学ぶべきものであり、声聞乗であろうとも、独覚乗であろうとも、菩薩乗であろうとも、如来のすべての教説に共通している、心の調御法の土台となるもの、それは戒学処なのである。一切衆生済度という巨大な目的を実現するために仏道修行に精進する大乗の者であらんとするからこそ、単に自らが解脱の常楽を享受するためだけに修行している声聞・独覚ですら遵守している別解脱戒の戒体護持は当然のこと、「如来の家族、如来の嫡子」と呼ばれ、「菩薩摩訶薩」と呼ばれるのに相応しい人間となるためには、この別解脱戒に加えて、まず常に自分の心に六波羅蜜の功徳が生じて損なわないように常に心がけなければならない。これは摂善法戒と呼ばれるものであるが、さらには、いまだ仏位を成就できていない時にでも、自らが戒体護持をしながら、自己の所有物を惜しみなく必要な衆生に与える布施、六波羅蜜などをやさしい言葉づかいで語りかける愛語、それを受け入れさせる利行、それに従って自らも行動する同事、という四摂事を実践し、有情の現世・来世の利益を適宜成就する饒益有情戒というこの三聚浄戒を自らの生命よりも大切なものとして遵守できてはじめて菩薩と呼ばれるのである。

戒とは、外見上、他の衆生を傷つけていないということでは決していない。戒とは他のすべての生きとし生ける者たちに、決して危害を与えまい、そのような可能性があることから心を完全に退け、それを忌み禁じようとするその思いにほかならない。この思いが発展してゆきはじめて戒波羅蜜というものは実現できるのであって、戒とは私たちが他の衆生に対してどう接しようか、というその姿勢にほかならないからこそ、他人がどうしているのかとは全く無関係な私たちひとりひとりの個人的な問題なのである。もちろんこの五濁悪世において、戒体護持が困難になっていくことは、すでに釈尊ご自身が「後世の比丘のなかには、律義を持たぬ者が多くなる。彼らは多くを聴聞したと語るが律や讃を評判のためにしているのに過ぎないのであり、彼らは戒を追求している訳ではない」と『三昧王経』で説かれている通りである。今日戒体護持ができない者が増えていくことは、すべての衆生のもつ煩悩の病というものが如何に深刻な問題であるのかを物語っており、だからこそ、より一層、仏法を正しく教えてくれる師たちの言葉に触れることのできた私たちは、釈尊在世の時よりも一層厳正に戒体護持に努めなければならない。自らの煩悩に敗北しそうになるという個人的な問題は自分にあるのであり、時代や住んでいる場所、社会のせいで自分は戒体護持ができないというのは単なる自分の問題を社会のせいにした責任転嫁の言い訳に過ぎないのであろう。

戒体護持というこの私たちの個人的な態度が損なわれてしまうのならば、他者を利する活動をどんなにしようともその効果が薄いのであり、どんな時にもすべての衆生の幸せを実現しようと思うのならば、他の衆生に対するこの決意を緩めてはならないのである。戒律こそが、私たちの身体を飾る最高の装飾品であり、戒律という香水をつけていれば、それは三界すべてに心地よく薫るものであり、梵行の出家者に最も似合う衣であると馬鳴菩薩も説かれており、菩薩が身につけている最勝なる衣とは戒波羅蜜のことにほかならない。

すべての生きとしいける者を救済せんとする大乗の教えを釈尊から授かり、その教えをいまはすべて実践できてはいないたちは私たちが、これから先の未来、仏位を成就するその時まで、繰り返し人身を得て、梵行者となり、菩薩として、如来の一族であるという大乗の種姓を覚醒させていかなければならない。釈尊の教えをいまだ完遂できない不肖の弟子である私たちがいまどうあろうとしているのか、ここに弥勒仏の視線は常に降り注いでいる。本偈は、そのようなやさしい弥勒仏の視線のもと、私たちが他の一切衆生に対してどのような態度を取ろうとしているのか、ということの決意と姿勢をジェ・ツォンカパが表明したものであり、本記事ではジェ・ツォンカパの『菩提道次第広論』の記述を補い再構成してみた。

デプン・ゴマン学堂の亡命後の最古参の比丘、故ウーセル・ディプセル師(僧籍番号 no.1 )

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