2021.11.21
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

やさしさの使徒であり続けるため

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第27回
訳・文: 野村正次郎

代わりに得たこの純粋な善資のすべてにより

これから先ここで永く流転しながら在る時も

千万の苦難に悶え 安らげる猶予もない時も

何人たりとも見捨てぬ救護者となれるように

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如来を礼拝し、心づくしの供物を捧げ、諸尊に喜んでいただけるようにする。如来は衆生を導く指導者であり、救済者である。だからこそ、彼らに私たちは、これから先どんな場所に転生しようとも、どんな境涯を受けるとも、彼らの偉大なる活動が行われるその場に近づけるように、彼らを礼拝し、心づくしの供物を捧げる。この供養という営みは、私たちがいま行うことができる絶対的に善なる営みであり、その営みを通じて、私たちの心は安らぎ、静かに清らかなものへと変化してゆく。

いまの私たちは釈尊の不肖な弟子に過ぎない。釈尊が示した解脱と一切相智の境位への道を不退転に歩んでいるとも言い難い。日々の出来事が私たちを教法の失念へと誘惑し、不吉な微笑で近づいてくる魔の囁きに心は常に揺さぶられている。時にはそんな日常を省みて、無始以来の悪業のすべてを懺悔してみても、強力に刻み込まれている過去世の悪業の力に翻弄されなくなるわけでもなく、私たちが少しだけ善いことをしたとしても、一瞬にしてこの世界が変わるわけでもない。私たちは大きく変わることもできないまま、ただひたすら刻一刻、死魔へと私近づいてゆく。これから先どうなるか。この古い身体を捨てるべき時は必ずやって来る。その時には、いまここで見た、ここで感じたすべてのことを思い出としても思い起こせるかどうかも分からない。

答えのない未来が待ち構え、予測できないところへと生を転がり落ちていく。次の生は短命かもしれない。あるいはまた次の生は地獄で数万年も苦しまなくちゃならないのかもしれない。今朝もこの街に啼く嫌われ者のあの黒い鴉のように厄介者扱いされるかもしれない。たとえ素晴らしい人間の生を再び得ることができたとしても、今回と同じように次の人生もかなり紆余曲折と起伏ばかりであろう。いまもいいことばかりでないからこそ、次もきっとそれほどのものではないだろう。きっと次回もまた厄介事を解決するため奔走しなければならないのである。しかしこんな不条理な生を生きているのは私たちだけではない。見渡せばもっと酷い状況にいる人ばかりであり、むしろ自分たちよりも酷い状況にある生物の方が圧倒的多数である。私たちよりも貧しく、悲しく、寄る辺ない境涯にいる人たち、そんな彼らに私たちができることは沢山ある。私たちにも彼らの生に劇的な変化をもたらすこともできる。

最初は小さな善業でも抵抗がある。そんなことをやって何になるんだと言われるかもしれない。しかしこの世界をほんの少しでもよくするため、この生を有意義に過ごすため、私たちは小さなことからはじめてみる。雨に溺れそうな蟻を助けたり、困っている人にやさしく声をかけたり、不機嫌な人に微笑みで接したり、いろんなことができる。どんな小さな生命も同じひとつずつの生命である。生命のあるものはすべて幸せを望んでおり、苦しみを好まない。だから自分たちや自分たちの愛する者が幸せに過ごせるため、ここにはひとつひとつのやさしさの奇蹟が絶対に必要なのである。そのやさしさが如来の姿をとるとき、それは弥勒仏となるのであり、私たちが他人のやさしさを感じるとき、弥勒仏の大慈を感じ取ることができることができるようになるのである。

すべての生命が安らかに幸せに過ごすために如来を供養し、そこで得た功徳にさらに新しい功徳を重ねてゆく。弥勒仏の最初の所化となるべくいまここにいる私たちにできること、それは彼と同じように小さなひとつの生命も決して軽んじない、すべての衆生の救護者たらんとする決意を固めることである。本偈は善資を衆生済度に廻向し、菩提心を固め菩薩行に精進する、ジェ・ツォンカパの決意の表明である。


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