2021.08.28
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

すべての欲望が叶う時に訪れる悲劇

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第20回
訳・文: 野村正次郎

美しい肢体と宝飾品で身を飾り

美しい宮殿の楽園に住んでいる

永く望んだ希望のすべてが叶い

上趣の神の栄華を極め遊戯する

しかし死相が射し込んできたいま

これまでずっと心を魅了されてきた

数々の美しい天女たち 楽園の宮廷

甘露の料理や服飾品は失われてゆく

もう若き息子たちとも離れてゆく

望まないが別れの時が来てしまった

この身体にてここに生まれた快楽すら

感じられないほどの強烈な苦痛である

悲しみの業果の炎によって身体は焦げてゆく

幾世にも積んだ善業がいまはもう尽きていく

過去の努力の果を満喫したのも終わりである

享楽的に放逸し悪趣への準備だけ万端である

いまもう一度あの悪趣へと転生し堕ちていく

24

人生が終わりを告げる時、すべてのものを捨て、すべての人に別れを告げる。眠るように静かに死んでゆき、多少なりとも積んできた善業を頼りに、来世はきっといいことがあるだろう、そう思って死んでゆく。見えていたものは見えなくなり、聞こえていたものは聞こえなくなる。意識が朦朧とし、霧のなかに姿が消えるように死んでゆく。

再び意識が戻ったとき、幸運なことに神として生まれていた。この体は、実に美しく光り輝いている。手足のバランスや体のすべての部分も最高で何一つ気に入らないところなどない。何も飾らなくても圧倒的な姿なのだが、宝石も無尽蔵にあるので、宝飾品で自分を飾り立てる。人間であった時などこんなことはできなかった。働かなくて献上品の山がなくなることもない。

かつてはとても狭いところに住んでいた。人間の時には、紙や木や石や泥でできていた粗末な建物に暮らしていた。自然災害も多かったし、すぐ壊れてしまう家という名の狭苦しい箱の中に閉じこもり、うずくまって生活しなくてはならなかった。しかしいま、私ひとりだけのこの宮殿も立派な宮殿であり、人間の大王の宮殿よりもはるかに素晴らしい。美術館や博物館で見たことがあるような調度品が何気なく置かれているが、その柱も輝かしい宝石でできている。構造もやはり神業のなせる仕事であり、ここで暮らす食事も寝床もすべてが最高のものである。思えば何度も生まれ変わり、こんな快適を待ち望んでいたのである。遠く離れた惑星でちいさなものが微かに揺れているのを見ることができるし、その微かな振動が起こす可愛らしい音を聞くこともできる。ここは天国で快楽が尽きることもない。すべてが永遠のように思われるし、寿命も何千年、何万年、何劫とあり、その期間死ぬ心配や病気になる心配もないので、寿命がつきるまでの間は、とりあえず安泰である。

外にでかけてみると美しい庭園で、常に美しい旋律を奏でる楽団が美しい音楽を奏でている。毎日宴会が催されているが時々は気分を変えて、空中飛行能力をつかって、どこにも飛んでゆける。友達の神々のところへ行っては、愉快なおしゃべりをし、美味を尽くしたどんなにご馳走を堪能しても健康を壊すこともない。毎日何千年も、何万年も遊んで暮らせるのである。

神々に生まれ変わることができた者たちにとって、ここは楽園以外に何でもないのであるが、ここに特有の苦しみが存在している。まずここは、一応天国ではあるが、実はそれほど特別なわけではない。ここにいることは永遠に続くものではなく、必ずいつか死なないといけない。寿命が決まっているので死期も決まっているが、こんなに楽しい生活が終わりを告げること自体が随分と悲しくてやりきれない苦しみそのものなのである。

神々と生まれきたその瞬間から、美しい天女たちに囲まれていたのである。宮殿や庭園はとても美しく、料理も宝飾品もすべてもっていたが、このすべてをまた捨てていかなくてはならないのである。年若く元気な息子や娘たち、家族ともまた別れていかなければならない時がやってくる。これまで楽しくやってきたからこそ、この分かっていたが避けることができない死の到来は、いまのこの快楽のすべてが何も感じられなくなるほど辛い出来事なのである。

死期が近づいていくにつれ、自分のこの享楽的な生活と何不自由ないこの肉体は滅びていく。この神としての肉体を得るために、何度も転生して苦労してやっと得たこの境地ももう終わりなのである。あまりにも楽しすぎたし、何一つ飽きることもなかったからこそ、何千年、何万年、何劫と生きていたけどほんの一瞬であった。人間の時のように苦労や悩みも大きなものではないので、他の衆生たちに思いやりをもつとか、他者のためになることなど何一つ実現してこなかった。つまりいまより冴えない生活がこの先待っていることだけは確実なのである。この神々の境地よりもよくない境涯へと生まれ変わるのは確実である。このようにせっかく神々には生まれても、四苦八苦などのすべての苦しみから逃れた訳ではなかったこと、このことを最後の最後に気づくわけである。

またこのつらい死の到来について諦めてしまうこともある程度はできる。しかし神々に生まれたからといってすべての神々が平等な訳ではない。かつての人間社会よりも明確な階級社会が存在しており、圧倒的にすぐれた神々に対しては常に気を配り、彼らがいる前では大人しくしておかなくてはならない。それだけではなく、神々に戦いを常に挑んでくる阿修羅たちがいるので、時には体を切られたり、神々であっても殺されたりすることもある。そのようなことを知ると、この神々の肉体をもって生まれること、実はこれは全く大したことではない、ということが分かるのである。

神々に生まれたこと、これはただ輪廻のなかで比較的に苦しみが少ない恵まれた境地に生まれたというだけにすぎないのである。この生命は永遠ではなく、必ず死んでゆく。いままで持っていた光り輝く肉体も光を失い、至極の美味をもつ食事も美味しく感じなくなる。いままで芳しく匂っていた美しい花も何の匂いも感じられなくなってしまった。というのも、ここから去らなければならない、というこのことがあまりにも辛いからなのである。

神々として生まれたら分かることがある。それは神々へ転生することが決して望むべきことではなかったということである。私たちは天国に生まれるために努力するべきではなかったのである。如来が説かれているようにこの輪廻には何の期待ももつべきではなかったのである。ここから逃れて解脱の城市を目指すべきであったのであり、間違って享楽的な天国へと来ようと思ったことは実は間違いであったのである。しかし何故こんな楽園に生まれてしまったのだろうか。それはやはり私たちが煩悩に負け、いつももっと楽しいこと、もっと欲望の対象を多く享受し、もっと高級なものを享受したいと望んでしまっていたからにほかならないのである。

仏教徒として私たちが望むべきもの、それは天国に生まれることではない。天国や楽園の神々は決して羨むべき存在ではなく、むしろ如来たちにとっては憐れむべき存在なのである。すべての欲望の対象を享受できる六欲天へと転生しても実は何もいいことはない。こんなところに生まれたという欲を出すべきではなかったのであり、そのような欲望が叶ったとしても大したことではないのである。そしてすべての欲望が叶う境地にいるからこそ、死や別れ、そして身分差別などといった自分たちにはどうしようもない、決して叶わないことが確固として存在し、それが享楽的に生きているからこそ、余計に辛く強烈に感じるという神々特有の苦悩がある。以上が欲望の対象がすべて叶う六欲天という神々へ転生することの苦悩と悲劇の内容であり、それについてここで表現されている。これは人間であるということが如何に貴重なことであり、決して享楽的な神の境地を目指すべきではなく、私たち仏教徒は涅槃こそが究極の寂静の境地であるということを啓蒙するものである。

私たちが求めているものは果たして宮廷で何ひとつ不自由なく暮らすことなのか

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