2026.07.22
རྣམ་འགྲེལ་ཐར་ལམ་གསལ་བྱེད་ལས། བདེན་བཞིའི་སྤྱི་དོན།

解脱への意志を培う:釈尊が説かれた四諦十六行相とは何か

『量評釈講釈 解脱道解明』第二量成就章:四諦通義
ギャルツァプジェ・ダルマリンチェン著/編訳:野村正次郎

J2 所説の教義たる四諦の決択

J2には、通義(K1)・各義(K2)の二つがある。

K1 四諦通義

これには四諦の定数(L1)・次第の確定(L2)・定義基体(L3)・実義を確定する量(L4)という四つがある。

L1 四諦の定数

解脱を求める者が確定すべき中心事項は、輪廻あるいは涅槃に帰属する二項(雑染品・清浄品)が定数であり、輪廻については因たる能縛である集諦・果たる所縛である苦諦の二項が定数である。また清浄品については輪廻からの解脱する方便たる因の道諦・解脱した果の滅諦の二項が定数であるので、輪廻への流入(流転門)・退出(還滅門)の因果で計四項が定数である。

L2 四聖諦の次第に関する規則

対象自身の観点で述べれば、集諦と道諦を第一に示し、それに続いて苦諦・滅諦を後で示すべきである。ここでは、主体たる現観の次第に則って、異なる順序で示さなくてはならない。すなわち、苦諦、集諦、滅諦、道諦となる。

はじめに輪廻全体・個別の過失を善く思惟することを通じて、それに対して離れんとする意思を発さなくてはならない。この意思が先になくしてその因を断とんとする意思も起きないからである。苦諦を厭離せんとする意思がある時、この苦を回避できるのか、原因は有るか、その因は常住であるのか無常であるのか、と集諦に対する分析を行う。この苦諦自体を刺さった棘が抜けるようには断てないことは明らかであるからである。この分析を通して業と雑染の両者がその原因であると理解し、それを断たんとする意思を発すので、第二番目に集諦を説くのである。集諦は断じることも可能であると思える時、苦が滅している滅は実現可能であると思えるようになるから、滅諦を第三番目に説くのである。そしてその実現も、道に依拠して修習を為すことに依存していると思われるので道諦を第四番目に説くのである

これに対して「最初の時点で苦諦を滅し得ると思える場合には、苦が滅していることも実現できるとも思えるので滅は第二番目に教示する方が正しいし、また集諦を断じ得ると思えた後には、苦を退けて滅し得るとも思えるので、集諦を苦諦よりも前に教示する方が正しい。また集諦を断じ得ると思える場合、それが無我の証解に依存しているとも思えるので、先にそちらの方を示すべきである。従って、このように述べる四諦の順序は確定できないのである。」と云うかもしれない。このことについて説明しておこう。

そもそも如何なる営為を実行するためには、事前に実行した場合に得られる利益を予想し、実行しない場合の損失も予想しておく必要がある。しかるにこの輪廻の全体と個々の過失を事前に思索しておき、その上で、その思索から輪廻は燃え盛る火坑も等しいと思えるようになった時でも、ただそこから離れたいと願うだけで解脱できるかどうか不明であるので、それが実現できると理解するために、集諦を次に説かなくてはならないのである。その上で、滅諦を第三番目に教示する方が正しい。道を最後に説かなくてはならないのは前述の通りである。こうした理由から、瑜伽行者の心相続に四諦を所縁としている見道が生じる時、この排列順に則って生じてゆくのである。

L3 四聖諦の定義基体

現在感じている腎臓の疼痛などの感覚は苦苦(苦受)であり、美食に執着し美味を満喫している感覚などは壊苦(楽受)であり、業・煩悩に支配された有漏蘊は何であれすべてが行苦(不苦不楽受)であり、これらすべては苦諦である。また一切の有漏の業と雑染は集諦であり、苦を滅した離は滅諦であり、無我を現量証解する智は道諦である。

L4 実義を確定する量

これには十六邪見の確認(M1)、それらに対立者である真実の十六行相の確認(M2)がある。

M1 十六邪見の確認

苦に対する邪見は、①浄・②楽・③常・④我の四つであり、集に対する邪見は、⑤苦を無因とするもの、無縁因とするものという二つがあるが、後者にさらに、⑥単一因のみを因とするもの、⑦自在天などの先行する他者の意志による創造であるとするもの、⑧本質は常住だが暫定的に変化しているとするものがある。滅に対する邪見は、⑨解脱等を畢竟無とするもの、⑩特定の有漏の一部を解脱とするもの、⑪特定の苦の一部を妙勝とするもの、⑫苦の滅尽は可能だが退け続ける必要があるとするものである。道諦に対する邪見は、⑬解脱道を畢竟無とするもの、⑭無我の修習を道として不適切だとするもの、⑮特定の静慮を解脱道とするもの、⑯苦とは本質的に不可避であることから道等は無いとするものである。

M2 これらに対立する真実の十六行相の確認

苦苦が有法である。①無常である。暫定的に生じるからである。②苦である。業と煩悩に支配されているからである。③空である。支配者たる我である別異な対象は無いからである。④無我である。自在なる我たるものとして成立していないからである。(苦諦:無常・苦・空・無我)

集の行相とは、有漏業と渇愛が有法である。⑤因の行相である。増上果たる苦の源であるからである。⑥集なのである。それは様々な一切のものを繰り返し発生させるものであるからである。⑦生である。それを強力に発生させるものであるからである。⑧縁の行相である。増上果たる苦の俱有縁であるからである。(集諦:因・集・生・縁)

滅の行相とは、対治力で苦を永遠に断尽した離が有法である。それは⑨滅の行相である。苦を断じている離であるからである。⑩寂滅の行相である。煩悩を断じている離であるからである。⑪妙勝の行相である。利楽たる解脱であるからである。⑫離の行相である。不退転な解脱であるからである。(滅諦:滅・寂・妙・離)

道行相とは、無我を現量証解する智が有法である。⑬道の行相である。解脱へ至らせる道であるからである。⑭如理の行相である。煩悩の直接の対治を為すものであるからである。⑮行の行相である。心の究竟実相を現量証解する智であるからである。⑯出の行相である。苦を再度退けなくともよい特性を生み出す対治であるからである。(道諦:道・如・行・出)

苦・集二つの八行相について本頌は個々に区切って説くが、滅・道の八行相についても本偈の該当箇所を個々に特定できるのは明らかであろう。阿闍梨デーヴェンドラブッディは「滅の行相・道の行相については直接言及しているので、それ以外の六行相は解ると意図されて、直接には明言なさらずに説かれたのである」(PVP, 62a5-7)と解釈なされている。

概して、分析力ある者となるための過程である、輪廻への流転門・還滅門の次第を思索することで、すべての輪廻を厭離し解脱を求める意思を如何に発動すべきなのか、ということを講釈しているものには様々にあるが、そのなかでも本典は最勝のものであることは明らかである。

しかるに本典を聴聞し思索しようとする善知識たちは、ただ外見のみを見繕うだけでなく、輪廻のその全体と個々のものの過失をしっかりと思索して、これを何とか厭離したいと思い、解脱を求めんとする意思を何としてでも発さなくてはならいのである。そのようにした上で、戒学処を基礎に心学処(定学処・慧学処)もできる限り勤修し、その上で本章(量成就章)所説の人無我や次章(現量章)所説の法無我を、正理を用いて正しく決択し、修習していかなくてはならないのである。

このようなことが出来るのなら、論書を聞思することも有意義であることになり、各人が自身の有暇具足の所依を有効活用する実践ができるということになるので、だからこそこれらの次第をしっかりと勤修しなくてはならないのである。

このようにすることもなく、ただ財産・報酬・名声を少しでも得んとして罪犯で相続しているものを浪費しているのならば、暗誦せんとする経文は覚えられないし、思索しようとしても意義を見出せず、修習しようとしても心相続に発ることもあり得ないのであり、たとえ一生を聞思に努めていると自慢していても、心の内実は享楽に右往左往し、執着に強弱をつけ、大小の悲痛で落胆し、ただ呑気に生きる農民とどこも変らない者となり下がってしまう。それ故に、道とは、ただ意識の対象化とするだけに留まらず、その意識それ自体が発動するように出来る限り勤修すべきなのであり、強制的に敢えて行じねばならないのである。

解脱道の異品を解脱道としてしまう四顛倒が何かを確認し、阿闍梨がそれを滅する根拠をはじめ解脱と一切智を事実の力に基づく正理によってどのように立証するのかは、これから解説したい。

解題

本和訳は、チベット暦2153年火午歳6月4日、令和8年7月19日に開催した定例法話会にて教主釈迦牟尼如来の初転法輪際に因んで四聖諦の概括をゴペル・リンポチェ・ガワン・ニェンダー師が講伝を行った際、配布した資料の草訳を講義の内容を反映して修正したものである。

該当箇所はダルマキールティが『量評釈本偈』にて世尊が量たる方であることを証明するために、量たる方であるのは救護者であるからであり、救護者であるのは四聖諦を説かれることからである、という逆順の立証を行う部分の冒頭の「四諦を説き給うのである」という部分に対する評釈をジェ・ツォンカパ大師の高弟であるギャルツァプジェ・ダルマリンチェンが行った『量評釈講釈 解脱道解明』の四諦通義にあたる部分である。

『量評釈解脱道解明』は、ゲルク派では伝統的に『量評釈』を学ぶ際の標準となる教科書であり、ガンデン、デプン、セラの三大総本山に在籍する学僧たちは、毎年開催される「ジャン冬法会」というものに参加し、『量評釈』の本偈を暗誦し、問答を通じて学んでいかなくてはならない。各学堂の定める学級を修了した学僧は、その後ゲルク派共通試験に六年間参加して、その試験にすべて合格したら「ゲシェー・ラランパ」の学位を取得することができる。デプン・ゴマン学堂の僧侶の場合には、学堂の定める学級は16学級あるので、ジャン冬法会はあるとしても合計で20年間ほどは『量評釈』を『量評釈解脱道解明』を通じて学ばなくてはならない。

四聖諦については、『量評釈』のほかにも『現観荘厳論』『入中論』『阿毘達磨倶舎論』にもあることもあり、上記の四諦十六行相の内容は常時学んでおかなくてはならないものである。本該当箇所は、非常に簡潔に四聖諦の定数・順序・具体的に何を四聖諦と呼ぶのかの定義基体、それに対する十六の誤解とその逆の命題である十六行相を簡潔な命題にまとめており、私たちはここで説かれている内容さらにこの十六の命題をひとつひとつ丁寧に考えることによって、釈尊が説かれた四諦十六行相とは如何なるものなのか、ということを理解することができる。

毘婆沙部の教義に基けば、修行者が道の所縁である四諦十六行相を現観する際もひとつずつ、あたかも山羊が橋を渡る時に順々に現観して聖者位を実現していく、とのことであり、我々のように真実を未だ現観できていない凡夫の場合には、まずこの四聖諦とは何か、聖者にとっての真実が何故四つあり、それは何故、苦集滅道という順序で説かれているのであり、その苦集滅道と呼ばれるものは具体的に何なのか、個々の四つずつの命題がなんであり、その命題を帰結させる論拠は何なのか、という上記に示されている内容を理解してはじめて、釈尊の教えの根本を理解することができるようになる。

ここで訳した最後の部分には、得難い人身を得て、逢い難い仏法に出会えた我々が、これを考えてはじめて、分析力のある者となれ、仏教を実践している者であるということが単なる自負ではなく、可能となるということが説かれている。ダルマキールティは四聖諦の教えこそが、仏が救済者であることを理解させるものであると説いているが、これは四聖諦の教えが分からなければ、三世十方の如来が救済者であることも分からないということを意味している。

ダライ・ラマ法王も「仏教」という言葉を聞いて、四聖諦をイメージできなくてはならない、と教えていらっしゃるし、私たち21世紀に生きる者は、仏教の教義を理解して、客観的な分析を行った上で、信仰を育てていかなくてはならないと何度も教えていらっしゃる。ここでギャルツァプジェが説かれるように、四聖諦を理解することで、私たちは解脱への意志を培うことができるのであり、ここに訳出した内容こそが如来の救済そのものであると言っても過言ではない。本和訳が私たち日本人があらためて釈尊の教えてくださった、私たちの救済とは一体何か、ということを理解する上での指標となれば幸いである。

訳者識


RELATED POSTS