2021.08.06
ཀུན་མཁྱེན་བསྡུས་གྲྭའི་རྩ་ཚིག་

目覚めの時、はじめに意識するもの

クンケン・ジャムヤンシェーパ『仏教論理学概論・正理蔵』を読む・第16回
訳・文:野村正次郎

蘊とは色受想行識の五蘊のことである。

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五蘊の「蘊」とは麦や米の畑で収穫したものを積み重ねていくように、仕分けをして積み重ねたものことであり、因果関係にあるすべてのものを仕分けするならば、色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つが有り、色蘊は物質であり、識蘊は精神や心のことであるが、それ以外のものが受蘊・想蘊・行蘊の三つに仕分けされることになる。

五蘊とは「有漏の取蘊」とも表現され、煩悩と業によって発生している私たちを構成しているものである。「取蘊」という言葉は、素材を集積し仕分けしたもの、ということであるが、この場合に「取」というのは、前世などから積集してきた業によって現在の私たちの存在があるのであり、またこの存在は死後、いまとは別の素材を用いて別の人格ないしは生物として継続していくので、現在私たちがもっているこの物質的な肉体は、消費されて再利用できない状態となるが、別の物質的な素材を利用して、生命体を維持して、来世の生物へと私たちは転生していく。

これはもうすこし分かりやすくいうのならば、私たちは衣服を着るように、物質でできたこの身体をもって維持しているが、これはあくまでも外面用に誂えたものであって、物質でできたこの身体が来世に継続するわけではなく、着替えをし、電車や船を乗り換えるのと同じように、別の身体へと生まれ変わっていくが、あくまでも交換している部品は身体のみであり、ほかの受蘊・想蘊・行蘊・識蘊などは来世へと継続していくものも多くある。しかるにちょうど衣服にも良し悪しがあり、その衣服のスタイルによって、他の衆生たちとの関わりでよい待遇を受けたり、ひどい待遇を受けたりするのと同じように、私たちの身体がどんな身体をしているのか、ということによって、好待遇を受けたり、ひどい待遇を受けたりすることがあり、この人格の素材となる五蘊それ自体は苦しみでも快楽でもないけれども、この中立的な価値のものそれ自体は、ブッダや聖者たちから見れば、苦しみそのものである、ということになる。何故ならば、もしもそのような身体あるいは人格をもたないなら、好待遇を受けたり、ひどい待遇を受けたりすることもないので常に心は平安に過ごすことができるからである。このようなことからこれらの私たちを構成する素材である、私たちの物理的身体や精神それ自体が苦にほかならず、これを「行苦」と表現するのである。

五蘊は、私たちが何でできているのか、それは身体と精神とできているが、その精神にも、対象を知るだけの精神そのものである知、すなわち識蘊と、この精神の活動の結果として私たちに起こる感情や思考をひとつの塊であると考えることをやめさせて、経験を受蘊として、それが一体何かを表象する印象である想蘊、そしてそれ以外の心の動きであり、業である行蘊に分けて、私たちの感情や思考をきちんと仕分けし、その仕分けしたものが「五蘊」ということになる。

この私たちの生命体を構成している素材である五蘊は、私たちにもっとも身近な存在であり、私たちはそれを身にまとっている。これは五蘊という服を私たちが着ているといってもよいだろう。衣服が色褪せほつれるならば、そこを繕うように、この身体や精神にも定期的な修繕が必要で、そのための健康管理や精神衛生は我々の生にとって必要なことである。しかし物質的身体である色蘊はあくまでも五蘊のうちの五分の一、つまり私たちの二割程度に過ぎないものである。残りの八割は物質ではない精神的なものである。だからこそ、物質とそれによってもたらされるすべての出来事よりも、煩悩や業、そしてそれによって起こってくる様々な精神現象の方が、私たちがこの生命体を利用してどのように生きるのか、ということに強い影響を与えるものである、ということになるのである。

「有漏の五取蘊」というのは、苦諦そのものであり、釈尊は苦しみであるということを知りなさい、とはじめに説いている。それは私たちが「有漏の五取蘊」という衣服を着用し過ごしており、この状態が苦しみであり、この「有漏の五取蘊」という衣服を着用し、時にはそのうちの色蘊を着替えていきさまざまな生命体へと転生しているこの状態が一体どのような状態なのかをきちんと理解しなさい、ということを説いているということができる。「有漏の五取蘊」を私たちは「これが私である」と考えている。ダライ・ラマ法王は早朝に目が覚める時に、寝床から起き上がる前に、「私」と考えているこのものが何か、ということを頭から、自分の手の先、足の先という肢体を見つめながら、自分の心に思いを巡らせながら毎日考える習慣にされているとのことである。これは五蘊とは何かという思考を習慣化するための極めて有効な方法であろう。「有漏の五取蘊」は私たちひとりひとりの最も身近にあるものであり、五蘊を考える時には、まずは自分のもっているこの五蘊とは、一体何なのか、この物質的な身体、私たちの様々な経験、私たちがもっている様々な印象、そして様々な心の動き、そしてこの心そのもの、これが一体何なのか、これをひとりひとりの人間が問いかけることから、「有漏の五取蘊」の理解へと第一歩を歩み出すことができるのであろう。

目が覚めたときに最初に意識する「私」は五蘊を意識したものである

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