2021.05.29
སྟོན་པ་དེས་གསུངས་པའི་བསྟན་པའི་རྣམ་བཞག

心の時間軸を移動し、煩悩を制圧してゆくもの

サカダワ大祭・釈尊の教法:『チョーネ版大蔵経論疏部目録・如意宝蔓』法輪の定義・語義・分類
クンケン・ジクメワンポ著/編訳:野村正次郎

如来の言葉を、その発生時期を通じて分類すれば、まずは法輪というのは何かということを考え、その上で三転法輪の転法輪のそれぞれが一体如何なるものなのか、ということを説明しよう。

まずは法輪とは何か、ということを考えるためには、法輪の定義、何故「法輪」と呼ばれるのか、法輪の分類としてどのようなものがあるのか、この法輪について如何なる解釈がなされているのか、そして特に法蘊の数量について考察したい。

法輪の定義

まず法輪の定義であるが、法輪とは、教化対象となる弟子たちの心の時間軸上で、涅槃を妨げとなる異品を断ち切る目的で説かれたものであり、かつ言葉としての聖教法もしくは思想としての証解法のいずれかに帰属させることができる釈尊の正法、これが法輪の定義であると理解すべきである。

法輪の語義

それでは何故のこの釈尊の説かれた聖教法・証解法のことを「法輪」と表現するのか、といえば、これらは教化対象となっている弟子たちの心の時間軸上で、ちょうど車輪が回っていくように移動しているものであり、そのことによって貪欲などの解脱の対抗勢力を鎮圧して克服させるものであるので、武器であるあ「輪」(チャクラ)と同じ性質をもつから「法輪」(ダルマチャクラ)と呼んでいる。

たとえば転輪聖王が所有している武器である「輪」は、さまざまな国から国へと順次転じられて移動し、その回転移動によって、敵対勢力を敗北させて制圧し勝利を実現していくものである。釈尊の説かれた正法もこれと同じように弟子たちの心から心へと移動して行き、解脱の対抗勢力である煩悩を制圧し涅槃寂静を実現していくものであるから、これを「法輪」という名称で呼ぶのである。

法輪の分類

法輪とは、教説とか仏説とか正法というものと同義であるので、これを分類すれば、正法の分類と同じように聖教法輪・証解法輪との二つの法輪になる。前者はことばであり、後者は思想であり、前者は因であり、後者は果であるという因果関係にあることは正法の分類の時と同じである。

法輪に関する解釈

ではこの法輪について伝統的にどのように解釈されたきたのか、ということを簡単に紹介してみたいが、それには部派仏教における解釈と大乗仏教における解釈という二つの解釈があり、それらの伝統的な解釈では法輪とはどのようなものであると考えられているのかを見てみよう。

声聞部における法輪の解釈

まず部派仏教における解釈であるが、毘婆沙師は、真実を現観している見道だけが法輪と呼ぶことのできるものである、と解釈する。これは釈尊が五人の従者にヴァーラナーシーの鹿野苑で説法をされた時、カウンディニヤの心には見道が生じ、その様子を見た夜叉が「法輪が転じられた」と宣言したことに由来し、輪宝と見道とは同じ性質をもつからである、と考えていることによる。その性質の一致とは、見道が真実を速やかに証解するものであるので、速く回転することが同じであり、先行する真実の行相を捨てて後続する行相へと向かっていき、無間道が所断を獲得すること断じていることと、まだ征圧して国を征圧してゆくことと同じであり、解脱道が所断を離れた離繋得を順次獲得していくことは、王政を実際に布いてゆくことと同じであり、上界の真実を対象としていることと上へと輪が上昇することとが一致し、下界の真実を対象としていることと、輪が下降していくといった性質の一致が見られるからである。この解釈は『倶舎論』では、

「法輪とは見道のことであり、速く動くものなどである」(1)

と説かれているのである。

また『倶舎論』に紹介されるものとして、毘婆沙師の大徳ゴーシャカ(Bhadanta Ghoṣaka, 妙音)は、聖八支道だけが法輪である、とする解釈もある(2)。これは八支聖道が、車輪を構成するハブ(軸)、スポーク(輻)、リム(輞)と相似したする特性をもっているとし、正語・正語・正命は戒学処であり、定学処と慧学処の拠り所として働くものであるので、ハブ(軸)に相当し、正見・正思・正精進・正念は慧学処であり、ハブに固定されているスポーク(輻)に相当し、これが様々な方向へ転回していきながら、相互に支え合って煩悩を断じてゆくものであり、正定は定学処でありリム(輞)に相当し、正見などのスポークによって支えらがら、対象を集中的に捉えていくものに似ているからである。

以上のように部派仏教では見道あるいは八支聖道だけが法輪であるとしており、聖教法であれば、それは四諦法輪である、という解釈をとっている。

大乗における法輪の解釈

これに対して大乗仏教の伝統では、見道だけではなく、資糧道・加行道・見道・修道・無学道という五道のすべてを法輪であるとする。この解釈はハリバドラの『現観荘厳論小註』の細疏ダルマミトラ(Dharmamitra)の『現観荘厳論註・明句論』(Prasphuṭapadā/Praannapadā, TD3796)に「〔また法輪とは見道のことであると説かれているのも必ずしもそうに決まっているということではない。〕すなわち、法輪のあるものは、資糧道であり、あるものは加行道であり、あるものは無間道にいたるまでのものがある。」(TD3796, nya 21a3)と述べられ、ここでは無間道といっているので、最期相続の無間道の次の瞬間に生じる無学道のような解脱道が含まれると記載されていないけれども、無学道も法輪と呼ばれると解釈する必要がある。その根拠としては『倶舎論』に「あるいはまた聖者の道のすべてはまた〔他者である〕所化の心相続へ入ってゆくので、法輪である。」(3)とあるように、法輪とは自分自身の心の連続体のなかだけにあるものではなく、他者の心の連続体へと転移することができるものであるとも想定されるものであり、ヴァスバンドゥは『釈規論』で「世俗法それ自体を示すことを本質とする輪が法輪である」(TD 120a7)と説いているのであり、またダルマミトラも「偉大なる牟尼による残りなき法輪、という場合の法とは、説かれた法のことを中心としているのである。」(TD3796, 19b1)と説いているのである。

法蘊の数量

このように法輪というのは、如来の説法を輪のように場所や時間で素早く移動して回っていくことで煩悩を断じて涅槃へと至らしめるもののことであるが、この法輪を構成している如来の説法をひとつひとつのクラスターとして仕訳して集積させて捉えたもののことを「法蘊」と呼んでいるが、法輪を構成する「法蘊」が具体的にどのくらいの数量あるのかについては次のように言われている。

まずひとつの法蘊の数量として、シャーリプトラの著作である『法蘊論』という論書があり、その分量が釈尊の説かれた法蘊の数量であるという説がある。これは『倶舎論』(第一界品)で「ある人は論書の分量であるといっている」(4)と紹介される大変有名な説である。

また別の説では、五蘊・十二処・十八界・十二縁起などといったそれぞれの一連の教えそれぞれをひとつの法蘊として算定する学説もある。これについては『倶舎論』では「蘊などのそれぞれの説教のことである」(5)と説かれている。

またダルマミトラの学説によれば、これについては大乗・小乗に共通の解釈と大乗固有の解釈との二つがあるとし、共通の解釈としては、32音節を1シュローカとして、その1000倍が1法蘊であるとする。大乗固有の学説では、帝釈天の象であるアイラーヴァナが背負って運ぶことができる顔料で1法蘊を書写することが可能であり、『報恩経』によれば、提婆達多尊者は、五千頭の象が運ぶことができる数の経帙を誦経した、とも言われているのである。

このようにひとつの法蘊の分量については様々な学説があるが、自説として承認すべきものとして、貪欲などの八万四千の私たちが精神的に享受しているものそれぞれについてその対抗手段として完全な形で説いている文章の集合体を法蘊としなければならない。これはヴァスバンドゥが『倶舎論』で「所行の対治として法蘊は説かれている」(6)と説いているものとハリバドラが『八千頌般若経大註』で「要するに、貪欲など享受している八万四千の煩悩の活動のそれぞれに対する対抗手段として文章によって完全な形で説かれるそれと同数の文章の集合体のことを法蘊と呼ぶのであり、〔これがすなわち八万四千の法蘊である。〕」(7)と説いているものを典拠としている。

それではこのように大量の法蘊があるにも関わらず、現在私たちが住んでいるこの閻浮提の世界にそれらの多くの文献が現存しているようには見えないのは何故か、といえば、これは他の世界や龍たちが住んでいる場所などに大部分が保管されていることによる。これについてチャンドラゴーミンが『弟子に与える書状』(Śiṣyalekha)で

「教説という最高の宝石のように素晴らしいものはここでは役に立たない。しかるに清浄なる戒律を守っている龍王などの偉大なる種姓をもつものが、王冠の戴きで崇敬の念をもって迎えて、地底にある場所で暗闇を晴すのに用いている」(8)

Śiṣyalekha

と説かれているように、閻浮提の人間世界には現存している経帙は、全体のなかのほんの一部しか現存せず、特に大乗経典の大多数は地上には存在しないことに理由があるとされている。

サンチーの仏塔にあるアショーカ王の建立した柱の法輪の彫刻
法輪は八吉祥のひとつである

1 ABK, VI k.54cd: dharmacakraṃ tu dṛṅmārgaḥ āśugatvādyarādibhiḥ.
2 AKBh VI ad. 54d: arādibhiḥ sādharmyād āryāṣṭāṅgo mārgaś cakram iti bhadantaghoṣakaḥ
3 AKBh. 371 D231a6, athavā sarva evāryamārgo dharmacakraṃ vineyasaṃtānakramaṇāt
4 AKI, 26a: śāstrapramāṇa ity eke.
5 AKI, 26b: skandhādīnaṃ kathaikaśaḥ.
6 AKI, 26cd: caritapratipaksas tu dharmaskandho ‘nuvarṇitaḥ.
7 AAA III: rāgādicaritānāmekaikacaritapratipakṣo yāvatā granthena parisamāpyate tāvān grantharāśirdharmaskandha iti caturaśīti dharmaskandhasahasrāṇi.
8 Śiṣyalekha: cūḍāvibhūṣaṇamibottamaratnakalpamūḍhaṃ śirobhirurubhiḥ phaṇināṃ. yacchāsanaṃ śubhamakhaṇḍabiśuddhabṛttaṃ pātālamūrdhani layatimiraṃ pramārṣṭi.

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