2021.05.24
སྟོན་པའི་མཛད་རྣམ་སྙིང་བསྡུས།

成道示現

釈尊の行状(13):最勝化身による無上正等覚
訳・文:野村正次郎

四月十五日の未明に、魔の大軍を退散させた後、釈尊は四禅を成就して、初夜において、天眼通を得てすべての衆生がいま如何なる業によってそこに生まれ、そこで如何なる業によってどのような暮らしをしているのかのすべてを見渡すことができる天眼通による智見明(jñānadarśanavidyā)を得て、すべての衆生たちが死んでどこに転生し、どのような姿で生まれ、どのような業を持っているのか、ということのすべてを如実に直観できるようになった。そして中夜において、すべての衆生たちが過去にどのような衆生として何回転生して、これまでどのように転生してきたかのすべてを知ることができる過去の境涯を追想することができる智見明を得て、すべての衆生が過去の宿業によってこれまでどのように生まれてきているのか、ということをすべて具体的に明瞭に記憶に呼び戻すことができるようになった。その後後夜においては、十二支縁起と四聖諦を現観し、一切の漏を尽くした見明を現証し、天眼通・宿命通・漏尽通の三明を得て、その刹那で無上正等覚された。

釈尊が無上正等覚されたその瞬間、すべての世界が光明によって満ち溢れ、十方の三千大世界が六種類に揺れ動き、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣たちの苦しみは沈静化した。すべての如来が釈迦牟尼如来の現等覚を祝福したので、すべてのものが釈尊に対して散華をし、この正法が護られることを願い、三千大千世界は宝石でできた光輝く天蓋で覆われた。十方の世界は光に満ち溢れ、菩薩たちや神々がさまざまな賛嘆の言葉を述べたのであった。

すべての衆生が目撃できる行状としては、この後七週間の間は遊戯三昧して法輪を転じられることはなかったように見えたが、第一週は魔の門を封じ続けられ、第二週には他化自在天では『十地経』を説かれるなどさらに百千万の化身を同時に化現して、百千万の世界で説法を開始され、その説法はこの輪廻からすべての衆生が解脱していなくなるまで永遠に続いているとするのが大乗の伝統的な定説となっている。

釈尊が成道された年齢は『方広荘厳経』(『普曜経』)の説とバーヴィヴェーカ(清弁)の『思択炎』における転法輪が45年間であったという解釈に基づいて、クンケン・ジャムヤンシェーパは巳歳の4月15日、36歳での成道を定説とし、丑歳の四月15日に涅槃された80歳から逆算して数えているが、この数え方は、午歳の4月15日に摩耶夫人に入胎された時を一歳として数えたものである。成道から49日後の6月4日を初転法輪として、涅槃の日を『大般涅槃経』に基づき4月15日とするのはほとんどすべての仏伝に共通のものであるが、星座であるヴァイシャーカー月、すなわちサカダワを4月とするのがチベットの定説であるが、日本では4月8日を降誕会とし、12月8日を成道会として涅槃会を2月15日とするが、ヴァイシャーカ(Vaiśākha)月、サカダワを何月とするかの数え方が違うことからこのような日付の違いが起こっているが、降誕や成道や涅槃へ思いを寄せる日が一年に何度もあることはむしろ仏教徒にとっては喜ばしいことであろう。

釈尊がいまから二千五百年前に人間として現等覚の示現をしたのは、すべて一切衆生のためであり、その物質的身体の本体は、久遠の昔から色究竟兜率浄土に久住する受用身にほかならず、ここで起こったことは特定の目的のために起こした現象に過ぎない。いまこの世界に釈尊が不在であり、説法もされていない、と思っているのも、私たちの功徳が足りないことに起因した私たちの解釈に過ぎないのであって、問題の所在はすべてこちら側の認識の側にあるものである。

最勝化身の十二行状もまた時間的に前後して何年とか何ヶ月と経過しながら起こった、と考えるのもこれは私たちの解釈に過ぎないのであって、多くの仏典が十二行状を毎刹那ごとに無限無辺の空間で多く過去・現在・未来のすべての時間に十方のすべての場所で同時多発的に起こっている、とするのが大乗仏教の伝統的な論理であり、一切衆生の利益という目的に応じて同時多発的な自己複製化が可能な存在として如来を想定することが出来なければ、唯識思想や中観思想といった大乗仏教の哲学的な教義など容易には理解しがたいものとなってしまうだろう。

釈尊の一切相智とはどのようなものなのか、それがどのように得られるのか、ということは仏教そのものであるので、ここでは省略するが、釈尊が無上正等覚される成道の相を示現されたのは、あくまでも私たちすべての衆生を不死の涅槃の境地へと誘うためのひとつの事象に過ぎない。この事象はいまも私たちが求めれば、いまここで起こる事象でもある。このひとつの事象を過去の風化した物質と同じように陳腐なものとして受け止めるのか、あるいはまた、釈尊がわざわざ私たちのためにこの化現を示現してくださったリアルな事象であると真摯に受け止めるのかは、私たちひとりひとりの極めて私的な問題であることは確かであろう。しかしながら如来の無上正等覚という稀有にして不可思議なる事象を他人事ではなく、自分自身の問題として真摯に受け止めることは、私たちが解脱への道を歩みはじめるための第一歩であることだけは間違いないだろう。

ブッダガヤの大菩提寺の釈迦牟尼如来

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