2021.02.24
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

人間と人間界は神々や天国よりも価値がある

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第13回
訳・文: 野村正次郎

華やかな善趣の身体があっても

教説を正しく弁える智慧により

賢き道を誤らずに見出せないなら

再びまた輪廻の海へと堕ちてゆく

16

それ故 無知という深い暗闇に囲まれて

何処に行くべきなのか何も見えていない

こんなにも永い間途方に暮れてしまった

この私に智慧の灯火を与え給わんことを

17

神々の暮らしは、人間に比べれば、随分と華やかで愉快なものである。人間から見たら羨ましい限りであるが、神々という特権階級に生まれた者たちは、実に幸福で快楽を思う存分享受できる。

神々に生まれた場合に最も良いことのひとつには、身体も常にとても軽く、すこし退屈な気がしたくらいで思い立てば何処にでもすぐに飛んで行けることが挙げられる。神々の身体は人間のように不細工ではなく、非常に洗練されていて美しく、他の衆生が魅惑されるような身体をしている。自分たちの身の回りの所持品のすべては、どんな特権階級の人間にも所有できないような、最高品質のものばかりであり、どんなに施しをしようともその財産は無尽蔵であり、永遠に尽きることもない。もちろん生活の糧を得るために労働する必要もないし、神々の社会は人間の社会のように汚れていない。神々の身体は堅固であり、寿命も非常に長く、人間のようにすぐに死ぬわけでもないし、何百年も何千年も何万年も生きることができ永遠とも思われるような寿命を全うすることができる。人間のように時には不幸な気持ちになったり憂鬱な気持ちになったりすることもなく、常に最高の音楽や演劇を鑑賞することができ、贅を尽くしたご馳走を堪能することもできるし、飽くこともない快楽を享受できる。

神々の社会は、人間社会のような飢饉や疫病などといった社会問題もないし、すこしだけ人間にやさしく接すれば、人間たちは単純なので、神々をすぐに崇拝するようになるものである。太陽や月や星などといった神々は、自らの身体が発光しているだけで、他の衆生が崇拝したりしてくれ、さほど努力しないでじっとしていても他の生物たちが捧げ物をしてくれるのである。どんな生物からも羨まれるこんな神々として生まれること、それは天国に生まれることと言われることであるが、これも我々が人間に生まれるのと同じような善業の結果の享受のひとつの形に過ぎない。

神々に生まれること、天国に生まれることは決して輪廻からの解脱を意味しているわけではない。その最大の不幸は、その生涯がいつか終わるということである。どんな生物でも生まれてきたからには必ず死ぬのであり、永遠のように思われる神々としての生涯もいつか終わりを迎えなければならない。しかしあまりにも楽く贅を尽くしているので、生涯を終え、ほかの衆生に生まれなければならない臨終の苦しみは、ほかの衆生とは比べようのないほど辛いものであり、まさか天国で暮らしている自分がそんな辛い思いなどすることなど想像したこともなかったので、その悲劇は、筆舌に尽くし難いものである。

このように快楽を享受している神々の身体とは、仏道修行に精進するために妨げ以外の何物でもない。釈尊もほんの半年間だけ三十三天で夏安居を過ごされ説法をなされたが、すぐに人間世界へとお戻りになられた。太陽や月や星のような神々であれば、自分たちが崇められている立場であり、それだけで十分楽しく暮らしているので、輪廻から解脱しなければならない、すべての衆生の苦しみを取り除くことのできる一切相智の境位を目指さなければいけない、ということは非現実的な理想論にしか聞こえてこないのであり、諸仏が説かれた善に精進し、ふたたび善趣に生まれるための努力をし暮らすこともないからこそ、大部分の神々は怠惰に過ごしてしまったその結果として、地獄・餓鬼・畜生などの悪趣や輪廻の苦海へと再び一直線に堕ちているしかないのである。

もしも仏教が説いているものは、来世以降は苦しみが相対的にない状態を目指しなさい、ということなのでは決してない。もしもそうであれば、神々に生まれさえすればいいわけである。しかしたとえ神々に生まれたとしても、再びまた業と煩悩によって苦海へと転生しなければならない。神々として快楽を享受しつくしている、ということは決して真の幸福な状態ではない、ということを諸仏は説いているのであり、苦しみの原因を断じて、永遠に苦しみのない状態を実現すること、すなわち輪廻からの解脱を実現すること、これこそが仏教を実践して目指すべき目的なのである。私たち人間が寿命も決まっていない、いつ死ぬか分からない状態にある、ということは、真の幸福である解脱の境地を目指すための最高の境涯にほかならない。

この人間の身体は、神々がもっている如意宝珠よりも貴重な宝である、というのはこのようなことなのである。人間に生まれ思い悩み、ちいさなことで苦しんだり、努力をして何かを実現して得られた喜びは、この上のないものである。神々のように生まれつき楽しく暮らしているような者たちは、そのような努力によって得られる喜びや、同じように苦しんでいる他者のやさしさに感動することもないのである。だからこそ、過去の千仏も、現在の千仏のなかの釈尊も私たち人類に説法をされ、そして次にまた人間のために解脱と一切相智の実現方法を説く予定である弥勒仏も、我々無明の闇に苦しんでいる人類へその智慧の灯火を与えてくれるのであり、その説法の場所も人間界にほかならない。

怖畏金剛尊の足元にも及ばない、インドラ(帝釈天)、ブラフマン(梵天)、カールティカ、チャンドラ(月)、スールヤ(太陽)

RELATED POSTS