2021.01.27
བྱམས་པའི་བསྟོད་ཆེན་ཚངས་པའི་ཅོད་པན།

無限の価値のある人身を維持しようとすること

ジェ・ツォンカパ『弥勒仏への悲讃・梵天の宝冠』を読む・第12回
訳・文: 野村正次郎

決定勝の境位などは言うまでもなく

道の所依とできると称賛されている

天や人へと生まれてくる保証などない

こんな私を君は気にせずにいられるか

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私たちは必ず死んでいくし、いつ死ぬのかも決まっていないし、死に際して仏法以外のすべてが役にたたないという三つの死に関する根本命題を前偈で述べていたが、本偈では死を思い、このかけがえのない有暇具足の人間の身体を何としても死後次に再生する時に得たいという決意を固め、そのような決意を固め告白する者に対して弥勒如来は決して無関心でいることはないはずである、ということを想起しながら、弥勒如来の功徳を礼讃する、これが本偈の主旨となる。

仏教とは解脱と一切相智である決定勝の境位を実現することを生の目的とすべきであると考える宗教であるが、その境位を実現するための土台であり、環境となる有暇具足の人身を繰り返し確実に得たいと思い、そのための努力をし、それを得ることが解脱を得るまでの暫定的な生の目標となる。

これはちょうど、電車を様々な正しく乗り換えながら、目的地の駅に到達しようとすることと同じようなことであり、たとえばいま乗っている電車にいる間は、次に乗り換えるべき電車を正しく把握し乗り換え方法を誤って別の電車に乗っていまい、目的地から逆の方向へと遠ざかっていかない、着実に次の乗るべき電車に乗ろうとすることと同じことである。仏教で乗り換えるべき電車にあたるものが、有暇具足の人身であり、最終的な目的地は解脱か仏位である一切相智となり、有暇具足の人身の身体をもって生まれてくることは、誤った電車に乗ってしまうということになる。

それでは具体的に誤った電車というのは、どんなものなのか、といえば、これは八難や十不具足ということになるが、八難とは、地獄・餓鬼・畜生・異教徒・長寿天・邪見をもつもの、仏がいまだかつて降臨していない辺境の地、言語活動ができない状態ということになるが、この八難は継続して目的地である解脱や仏位へと向かっておらず、この八難処へと生まれてしまえば、修行が継続できなくなり、目標から遠ざかってしまうので、まずはこれを目指すべきではない、ということは極めて重要なことであり、阿弥陀如来の極楽浄土に生まれる場合であれ、薬師如来の瑠璃光浄土に生まれる場合であれ、この八難を回避した状態である、ということを決して忘れてはならない。

もちろん地獄や餓鬼に生まれたいと願う人は少ないが、もう人間は嫌なので来世は犀に生まれ変わりたいとか、猫に生まれ変わりたいとか、犬に生まれ変わりたいとか思ってはならない。何故ならばそれは畜生道であり、決して仏道修行を継続することができないだけではなく、仏陀の教えはあくまでも人間に生まれることを目指しなさい、というものであるからである。

これと同じように長寿天と呼ばれる寿命が何千年も何万年もあって生きることができる楽しい神々の境地に生まれたいと思ってもいけない。何故ならばそのような享楽的な生物に生まれたら、享楽的に非常に長い期間懈怠の業を積んでしまい、やるべきことを忘れて、たとえ悪業を特に積まなくても、善業に精進することを忘れてしまうからである。しかるにどんなに動物のことが好きでも動物に生まれたい、と思ってもいけないし、死後は天国で楽しく暮らしたいなどと思ってもいけないのである。極楽浄土であれ、瑠璃光浄土であれ、修行をするため障害の少ない仏国土であっても、そこは八難を離れた人間だけの修行道場にほかならないのであって、極楽浄土に生まれたからといっていきなりブッダになれる訳ではないのであって、いまと同じように礼拝をしたり、供養をしたり、聴聞をしなければいけないのであり、そのような善業を積むために極楽往生を願うのである。

このように私たちは人間に生まれただけでも無限の価値があり、これをダライ・ラマ法王は「人間の基本的な価値」(basic human value)とも表現されている。八有暇ではなく十具足でも「人間に生まれていること」ということが筆頭にあるように、私たちは人間であることそれ自体に極めて重要な価値がある。人間に生まれ、更に仏教の教えに触れることができる限り、必ず私たちは解脱や仏の境地を目指すために、来世にもまた人間に生まれることを望んで暮らさないといけないのであり、無我を現観した聖者でもない限り、人間の目指すべき来世とは、神々の身体を有する天国に行くことでもないし、動物に生まれることでもなく、仏教と縁のある人間に生まれるという現状維持のみにほかならない。そして私たちが他の衆生の死後のよりよき転生を望む場合でも、彼らがこの仏教と縁のある人間に生まれるということだけを希望しなくてはならないのであって、決して神々のいる天国に生まれて欲しいとか、動物や餓鬼や畜生に生まれますように、と望んではならない。何故ならばそれは間違った電車に乗ることを望んでいるのと同じであるからなのである。

そしてこのことは上座部仏教であれ、大乗仏教であれ共通の思想であり、仏教の基本的な死後のビジョンとしては、人間が人間に再び生まれる、ということにあるのであって、他の生物に生まれたいと望むべきではないし、人間が人間に転生するというこの現状維持ですら、砂漠のなかで小さな宝石を見出すことよりも、困難であり、稀有な出来事なのである。人間が人間に再び転生することを希望するからこそ、私たちはひとりひとりが人間社会全体に対して責任感をもって活動しなければならない。

ダライ・ラマ法王が常に人間全体が人類というひとつの家族であると考え、よりよい人間社会を作るための責務を負っているということの重要性を強調されている背景には、このような考え方があり、ダライ・ラマ法王はそれを「普遍的責任」(universal responsibility)という言葉で表現されている。人間が神々になり天国に行こうとするのではなく、再びこの人間社会で様々な苦労をしながら、この人間社会に生を営み、よりよい個人であろうとし、よりよい人間社会を作ろうとし、たとえ死んでもまた人間に生まれてその営みを続けようとすること、これが仏教の基本的な生き方なのである。

本日のダライ・ラマ法王の対談でも、人類はこの数十年間でも確実に進化しており、これからも進化し続けるだろうとおっしゃっておられた。私たちが無限の価値のある人身を維持し続けようとする限り、つまり私たちが今後も人類であり続けようとする限り、今後も人類は進化しその未来は確実に明るいものであると思われてならない。

極楽浄土には神々の姿をした菩薩たちもいるが、基本的には人間が礼拝したり功徳を積むための修行道場にほかならない

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